揺るがぬ根拠
王都の喧騒からわずかに離れた、公爵家の一室。
重厚な扉が閉ざされたその空間には、外の気配は一切届かない。机の上には地図と資料が広げられ、静かな緊張が漂っていた。
シルヴィオは腕を組んだまま、机上の地図へ視線を落としている。
その向かいで、リナリアは一度だけ息を整え、口を開いた。
「移動は馬が良いかと」
「理由は」
「馬車では目立ちます。王都からの動きは、既にどこかに見られていると考えるべきです。貴族の紋章付きの馬車など、尚更」
淡々とした説明。しかし、その裏にあるのは経験に裏打ちされた確信だった。
「……続けろ」
「最速で国境まで向かうなら、馬です。人目を避けつつ移動できますし、状況に応じて経路の変更も可能です」
広げられた地図上の最短経路を指差し、リナリアは促されるまま説明を続ける。
「それと、貴族として動くよりも、今回は商会の顔を借りた方がいいかと」
「まぁ、道理だな」
「はい。荷馬車の話、襲撃の詳細、現場の噂を集めるなら、実際の現場で聞いた方が詳細な情報を集められます。それに…私もシルヴィオも、商人としての顔の方がよく知られてます」
「……合理的だな」
否定はしない。それが答えだった。
国境の街、ヴァルディアは隣国との貿易の要。シルヴィオもリナリアも、何度も現地に足を運んだことがあり、顔馴染みも多い。
「アルヴェスト商会も、おそらく監視されています。王都から直接動けば、すぐに察知されるかと」
「だろうな」
「ですので、一度王都を離れた後、別の宿で合流する形が良いかと。エルンに手配を依頼します」
「問題ない。手配は任せる。馬はこちらで用意しよう」
一通りの工程がスムーズに決められていく。必要なことはすべて出揃った。部屋の中に一瞬の静寂が落ちる。
「出立は三日後だ。準備を整えろ」
「はい」
リナリアはそっと視線を視線を落とす。地図の上に引かれた道筋。王都からヴァルディアへ続く道は、単なる移動経路ではない。
商会の時とは訳が違う。机上の議論では終わらない。見て、聞いて、判断する。商人として積み上げてきたすべてが試される。
「不安か」
「……いいえ。不安はありません。ただ…」
その声は夜の静寂に紛れるかのように静かだった。見つめてくる瞳は、別に怒っているわけでも、試しているわけでもない。ただ、案じてくれている。
「ただ?」
「私が、商会で学んできたことが正しくない、ってなったら…何だか、自分の根幹が揺らぎそうで」
「リナリア」
「はい?…わっ!」
机を挟んで立っていたはずのシルヴィオが、いつの間にか横に立っていた。そのまま腕を引かれ、シルヴィオの香りに包まれる。
ダンスの時とは違う。完全に逃げ場のない距離。一気に思考が白く塗り潰される。
「お前は、私を信じているな?」
「は、はい。もちろん……あの、シルヴィオ、距離が…」
「私も、お前を信じている」
その言葉に、思わず顔を上げる。シルヴィオの前髪が額をくすぐる。心臓だけがやけに大きく鳴っている。
こんなにも心強い言葉はあるだろうか。誰よりも信頼している人が、自分を信じていると言う。それだけで、自分自身を信じられる。
「ふ、ふふ。なら、私は大丈夫です」
「最初からそう言っている」
「シルヴィオ。私、あなたの隣に立つために、もっと頑張ります」
躊躇いがちに、リナリアの腕がシルヴィオの背中に回る。冷たいはずの濃紺の瞳の奥にある温度を、もう知っている。
「……出立まで慌ただしくなる。遅れるなよ」
「はい」
背中に回るシルヴィオの腕が、グッと一度だけ力が入り、密着する。肺から少しだけ空気が漏れる。そして、名残惜しそうに身体が離される。
「馬車を用意させる。今日は送れないが、気をつけて帰れ」
「はい。おやすみなさい」
真っ赤に染まった頬に、一度だけ手を当て、シルヴィオは踵を返しそのまま部屋を出て行った。
扉が閉まる。
シルヴィオを完全に見送ってから、リナリアはソファーに座り込む。遅れて、熱が押し寄せる。
ずるい人。今まで何度思ったことだろう。馬車が用意されるまでに、顔の熱が引けばいいのに。
こんな風に心を揺らされて、それでも前を向かされる。奮い立たせる言葉を、あの人はよく知っている。だからこそ。応えなければならない。
最後にもう一度地図を一瞥し、心を定める。
見えない誰かが仕組んだ流れを、暴くために。




