特訓
ヴァルクス公爵邸の朝は、ひどく静かだった。
まだ陽は完全には昇りきらず、庭に落ちる光もどこかやわらかい。整えられた芝には朝露が残り、窓越しに見える景色は穏やかそのものだというのに、応接室の空気だけが、その静けさから切り離されたように張り詰めている。
リナリアは背筋を伸ばし、正面に座るシルヴィオを見据えていた。
テーブルの上には紅茶が置かれているが、湯気がゆるやかに立ち上るばかりで、口をつける気にはならない。香りすら、今はただ遠いもののように感じられる。
「始めるぞ。まずは昨日の茶会を再現しろ」
「……はい」
短く応じ、リナリアは息を整えた。逃げないと、勝つと決めた以上、ここで躊躇う理由はない。
問いに対して自分がどう答えたのか、どこで詰まり、どこで見透かされたのか、記憶を丁寧に掘り起こしながら、言葉にしていく。
「待て。そこだ。今の返し、なぜ選んだ」
「……無難に収めるために」
わずかに間を置いて答えたその言葉は、しかし一瞬で切り捨てられた。
「違うな。逃げただけだ」
逃げ場のない指摘だった。リナリアは一瞬だけ息を詰める。それでも視線は逸らさない。
「無難な返答は主導権の放棄だ。特に上の貴婦人相手なら、それだけで負けが決まる」
「……はい」
「もう一度」
やり直す。
先ほどよりも踏み込んだ言葉を選ぶ。だが、静かに確実に逃げ場を潰される。
「踏み込みが浅い。恐れるな。沈黙を怖がるな。相手に考えさせろ。これは商談じゃない」
「……はい」
再び。何度も。同じ場面を繰り返す。言葉を選び、返し、否定される。ほんの少し形になったと思えば、すぐに次の段階で崩される。
やがて、指先に力が入りすぎていることに気づいた。無意識に握りしめていた拳を、そっと緩める。
「力むな。表情に出ている」
「……失礼いたしました」
即座に指摘が飛ぶ。呼吸を整えようとしても、うまくいかない。理解はしている。けれど、実際にやろうとすると、どこかで崩れる。その繰り返し。
やがて。
「足りないな」
ぽつりと落とされた言葉に、自分の不甲斐なさを実感する。シルヴィオは視線を外し、窓の外へと一瞬だけ目を向けた。
「やはり、俺だけでは再現にも無理があるか」
「いえ、そんなことは…」
「そろそろ助っ人も到着するだろう」
何かを予見するような短い一言。その瞬間、応接室の扉が静かに叩かれる。
「失礼いたします」
「カ、カメリアお姉様!?」
柔らかな声とともに入ってきたのは、カメリアだった。
淡い色合いのドレスを纏い、いつものように穏やかな微笑みを浮かべている。その佇まいは優雅で、空気を和らげるようですらあった。
「お呼びと聞いて参りましたわ」
「よく来てくれた」
室内に足を踏み入れた瞬間、その目に宿る光がほんのわずかに変わる。カメリアはゆっくりと状況を受け入れ切れていないリナリアの向かいに座り、優しく微笑んだ。
「随分と頑張っているのね、リナリア」
「お姉様、なぜ…」
「可愛い妹が頑張ってるって聞いてね」
その声音は柔らかい。だが、その奥にあるものを、リナリアはもう感じ取れる。
「会話の部分が足りない。構造が浅い、印象操作ができていない」
「なるほど」
シルヴィオが腕を組みながら淡々と不足している点を告げる。カメリアは小さく頷き、紅茶に指先を添えた。ただ、紅茶を飲むだけで、絵になるような美しさ。
「では、少しお手伝いさせていただくわね」
その仕草は優雅で、何気ない。それなのに、昨日と同じ、レイナード公爵夫人と同じ気迫を感じる。
そこでリナリアは思い出す。姉が完璧な淑女と謳われていたことを。
「よろしくお願いします…」
「では、これから何度も聞かれるであろう質問から聞こうかしら」
音もなくカップをテーブルに置いたカメリアは、一度静かに目を閉じた。そして、長いまつ毛が縁取るその瞳が見えた瞬間、リナリアの背中には冷や汗が流れる。
「長く静養されていたと伺いましたけれど、その間、何をなさっていたのかしら?」
「……領地や、家業の手伝いなどを」
先日と同じ答えを慎重に口にする。あの時は乗り切れた。しかし、姉の表情から、それだけでは不足していると突き付けられる。
「まあ。ずいぶんと便利なご経験ですこと」
一瞬。言葉の意味が、遅れて胸に落ちる。
「家業のお手伝いをしていて、表には出てこなかったけれど、お姉様が危機になった時には情勢を理解していて、偶然にもすべてが上手くいった。そういうことかしら?」
昨日の会話など生温く感じるような。逃げ道を静かに確実に締め付けてくる。
「……いえ、偶然ではなく」
「では、必然?」
すぐに重ねられる。間を与えない。何て回答したら、姉を、貴族達を満足させられるのか、分からない。
「それだけのことを、表に出ることもなく準備なさっていたのね?備えていたのですものね?」
「いえ、あの、情報は入ってきておりましたので…」
微笑みは崩れない。だが、その言葉は確実に上から降りてくる。
詳しく説明すれば、さらにボロが出てしまうと思うと、何も言葉を紡ぐことが出来ない。
「ずいぶんとご立派なこと。わたくし、少し羨ましいわ」
羨ましい、という言葉が、こんなにも棘を持つのかと知る。カメリアは、こんな過酷な環境の中で、完璧と呼ばれていたのか。
「それとも、そう見せているだけ、かしら?」
静かに、核心へ触れる。息が詰まる。言葉を選ぼうとするが、正解が分からなくて、何を言っても見抜かれる気がして、口を紡ぐしかない。
「曖昧ね。どちらでもない返答は、何も守れないわ。リナリア、あなたがこれか戦うのは、そういう場所よ」
「……はい。力不足です…」
「もう一度」
促される。
そこから先は、逃げ場のない時間だった。シルヴィオが構造を崩す。
「今のは相手に判断を委ねたな」
カメリアが印象を歪める。
「正直すぎるの。相手に都合よく解釈されるわ」
同じ返答でも、別の角度から容赦なく切り込まれる。
「努力しました、なんて便利な言葉、誰にでも使えるもの。あなたが言う意味はどこにあるのかしら?」
「その言い方だと、何も考えていませんでした、と同じよ」
「謙遜のつもりでも、価値を自分で下げてどうするの」
やわらかく、優雅に、しかし確実に削られる気づけば、逃げ場はどこにもなかった。言葉を返せば崩され、沈黙すれば問われる。
頭が熱を帯び、思考が追いつかなくなりそうになる。
それでも、
(逃げない)
その一点だけを、必死に繋ぎ止める。
やがて。
「……もう一度よ」
気付けば外はすっかり太陽が上に登り、カーテンの隙間からは柔らかな陽の光が漏れる。カメリアが静かに言った。
先ほどと同じ問い。リナリアは、すぐには答えなかった。
一拍、置く。
視線を逸らさず、相手を見たまま。
「長く表に出ておりませんでしたので、軽々しく語れることはございませんが、少なくとも、備えることの重要性は学んでおります。今回の件も、その延長にございます」
「……いいわね」
カメリアが、ふっと花が咲くように微笑んだ。それは今日初めての合格だった。
「今のは、相手に続きを考えさせる形になっているわ」
「ようやく形になったな」
その一言で、張り詰めていたものが一気にほどけた。
気がつけば、どれほど時間が経ったのか分からない。
応接室の空気は少しだけ緩んでいたが、リナリアの身体は限界に近かった。
ソファに深く腰を下ろしたまま、しばらく動けない。肩で息をし、指先にはまだ力が残っている。
そんな彼女の様子を見て、
「ふふ」
小さく笑う声が近づく。カメリアだった。ゆっくりと歩み寄り、隣に腰を下ろす。
その仕草はいつも通り優雅で、先ほどまでの鋭さが嘘のように消えている。
「本当に頑張ったのね」
柔らかく言いながら、そっと覗き込む。リナリアは、まだ息を整えながら、苦笑した。
「……お姉様は、すごいです。言葉を偽るのって……こんなに難しいんですね」
カメリアは一瞬だけ目を瞬かせ、それからくすりと笑った。どこか懐かしむように。
「ええ、そうね。懐かしいわ」
ぽつりと呟く。その視線が、少しだけ遠くを見る。
「レオン様とのお茶会で、何度かこのお屋敷にお邪魔したことがあるの。その時に、何度も同じようなことをされたわ」
その言葉に、リナリアははっとした。胸の奥が、強く締まる。公爵家に嫁ぐはずだった姉が、この家に来たことがないわけがなかった。
「……申し訳ありません。無理に来ていただいてしまって……」
自分のために、過去をなぞらせてしまったのではないか、カメリアにとって、思い出したくない過去だったかもしれないのに。
「違うわ。シルヴィオ様からね、お手紙をいただいたの。妹の役に立てるのなら、と思って来たのよ」
その言葉に、リナリアの胸の奥がじんわりと温かくなる。いつだって、自分のことで精一杯の自分とは違って、シルヴィオも、カメリアも、周囲を良く見て、救いの手を差し出してくれる。
「それにね、不思議なのよ」
「……え?」
「あの頃と違って、全然苦しくないの。ずっと息苦しくて、二度と来たくないと思っていたのにね…どうしてかしらね。リナリアがいてくれるからかもしれないわ」
その笑顔は、あまりにも自然で。無理をしている様子は、どこにもなかった。
(……敵わない)
リナリアは、心の中でそっと思う。強くて、優しくて、しなやかで。自分がどれだけ足掻いても、まだ届かない場所にいる人。
それでも。
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げる。その声には、確かな決意が滲んでいた。
カメリアは優しく頷き、そっと立ち上がる。
少し離れた場所で様子を見ていたシルヴィオが、短く口を開いた。
「休憩は終わりだ。続けるぞ」
容赦のない一言。だが、その声音はどこか落ち着いている。
リナリアはゆっくりと立ち上がった。身体は重い。思考もまだ追いついていない。
それでも。
「はい。よろしくお願いいたします」
迷いなく、応える。逃げない。
ここで終わらせない。その意思だけを支えに、再び前を向いた。




