社交界へ
王都、夜会会場へと向かう馬車の中。
揺れは穏やかで、だがリナリアの胸の内は静かではなかった。
向かいに座る男、シルヴィオの正装姿に、視線が引き寄せられる。
深い黒を基調とした礼装は、無駄を削ぎ落としながらもひと目で最上級と分かる仕立て。肩から背にかけての線は鋭く、ただ座しているだけで圧を生む。
胸元に輝くヴァルクスの紋章。
光を受けても沈むようなその色は、彼の濃紺の瞳と同じ深さを宿していた。手袋越しの指先ひとつにすら隙がない。
(……かっこいい、なんて)
場違いな感情が浮かび、リナリアは慌てて目を伏せた。
「緊張しているか?」
「……していないと言えば嘘になります。ですが、覚悟は出来ています」
まっすぐに、シルヴィオを見る。この日のために積み重ねてきた時間。立ち振る舞いも、視線も、言葉も。何度も繰り返したダンスも。
すべてを、ここで無駄にはしない。
「そうか」
短く、肯定する。そして、シルヴィオの指先が化粧を崩さないように顎に触れ、軽く上げられる。視線が絡む。
「シルヴィオは、緊張していますか?」
「すると思うか?」
「いえ、全く…」
その自信が羨ましい。今日の為に仕立てたドレスは、屋敷を出る前に両親と姉が惜しみなく褒めてくれた。それでも、心がどうしても静まらないのは、着慣れない重み、制限される動き、飾られた自分に、心が追いついていないから。
「リナリア」
「はい」
「安心しろ、綺麗だ」
その一言で。
胸の奥に渦巻いていた不安も緊張も、すべてが吹き飛んだ。驚くほど、静かになる。むしろ違う意味で心臓が暴れ出す。
(……ずるい人だ)
会場に着くまで、リナリアはただひたすら顔の熱を抑えることに集中した。
王都、夜会会場。
眩い光に満ちた大広間の入口に、一台の馬車が滑り込む。馬車の扉が開いた瞬間、ざわめきが走る。
「……来たぞ」
「あれは……ヴァルクス公爵家の紋章……」
「社交界に復帰するという噂はやはり本当だったか」
シルヴィオ・ヴァルクスの名が、波紋のように広がる。長らく表舞台から姿を消していた公爵家嫡男。
その帰還は噂になっていた。
だが、実際に姿を現したことで、それは確信へと変わる。
先に降り立ったのは、シルヴィオ。
無駄のない所作で地に足をつけた瞬間、空気が変わる。見えない圧に押されるように、周囲の貴族たちがわずかに距離を取った。
誰もが理解する。この男は、この場の誰とも格が違うと。
そして、シルヴィオは振り返り、手を差し出した。
「リナリア」
その声に導かれ、白が現れる。
ゆっくりと馬車から姿を現した瞬間、ざわめきの質が変わった。
デビュタント用の白いドレス。
余計な装飾を削ぎ落とした一着は、着る者の存在そのものを際立たせる。柔らかな布が光を受け、静かに揺れるたびに視線を奪う。
透けるような白い肌。細く伸びた首筋。流れる黒髪は艶やかに光を返し、わずかな動きで場の目を引き寄せる。
そして、翡翠の瞳。揺れている。だが、その奥にある意志は強い。
胸元には、深い濃紺の宝石。隣に立つ男と同じ色。
正体が分からないからこそ、視線が集中する。
だがシルヴィオは一切意に介さず、自然に彼女の手を取り、歩き出した。
パーティー会場の扉が開かれ、リナリアは正面を見据えて歩き始めた。
「……あの令嬢は誰だ」
「見たことがない……」
「シルヴィオ様がエスコートしている……?」
人の流れが、自然と割れる。
二人は人混みと喧騒の中を迷いなく進み、ある人の前で止まった。
シルヴィオが一歩進み、礼を取る。
「第一王子殿下」
その声で、周辺の場が静まり返る。
アルベリクはゆっくりと振り返り、会場中の視線が集まる二人と向き合った。
「……戻ったか、シルヴィオ」
「ご無沙汰しております」
「随分と、待たせてくれたな」
アルベリクは旧き友の帰還を心から喜び、シルヴィオの肩を軽く叩いた。そして、シルヴィオは隣へと手を差し向けた。
「殿下にご紹介したい女性がおります」
「お前が、か」
「はい。私の、婚約者です。リナリア、挨拶を」
その一言で、空気が変わる。
シルヴィオに促されるまま、リナリアが一歩進み、すべての視線が集まる中、優雅に礼を取る。
「お初にお目に掛かります。ローデリア侯爵家、リナリア・ローデリアと申します」
名乗った瞬間。空気が、弾けた。一気に動揺が伝播していく。
「……ローデリア家だと!?」
「そんなはずは……!」
「ローデリアにはカメリア嬢しかいなかったはずだ!」
「妹がいるという話は……聞いたことがあるが……」
「では、あれが……!?」
疑念と驚愕が入り混じる。
そのざわめきを制するように、アルベリクはよく通る声で続けた。
「顔を上げよ」
リナリアは従う。翡翠の瞳が、まっすぐに王子を見据える。
「なるほど。ローデリアの名に恥じぬ覚悟を、その目に見た。社交界へ踏み出すその第一歩を、王家として祝福しよう」
アルベリクはわずかに間を置き、優雅に、そして不敵に微笑む。
「そしてヴァルクス公爵家とローデリア侯爵家の縁が結ばれたこと、王家として正しく認めよう」
その瞬間、パーティー会場は異様な熱気に包まれた。それは歓声ではない。理解による震えだった。
「ヴァルクスと……ローデリアだと!?」
「婚約……!?」
「そんな!!勢力が動くぞ!!」
誰もが理解する。これは単なる挨拶ではない。単なる婚約でもない。貴族社会の均衡が、動いた瞬間だと。
無数の視線。だが、リナリアはもう震えない。
隣にいる。腕に触れる、確かな存在。
(……大丈夫)
翡翠の瞳は、まっすぐ前を見据えていた。




