挨拶
王都、ローデリア家本邸。
門の前に馬車が止まり、リナリアは中から降り立ったシルヴィオに、小さく息を呑んだ。
目の前に立つ男が、いつもと違う。
シルヴィオの瞳と同じ濃紺の正装。
一切の無駄を削ぎ落とした仕立ては、見る者に否応なく格を突きつける。
商人として数多の品を見てきたリナリアだからこそ、その質の高さが痛いほど分かった。
(……これが、公爵家)
商会で見てきた彼にも圧はあった。だがそれとは別種の、抗いようのない上位の存在感。
しばらく見つめたまま固まっていたリナリアは、はっとして頭を下げた。
「お待ちしておりました。父と母が、屋敷でお待ちです」
「ああ」
短く応じたシルヴィオは、自然な所作でリナリアの腰に手を添える。
「……っ」
慣れない距離に、一瞬体が強張る。
だがそのまま、逃がさないように軽く引き寄せられた。
「行くぞ」
有無を言わせない声音。
そのまま歩き出すシルヴィオに導かれ、リナリアは半ば流されるように足を進めた。
玄関では侍女たちが整列し、深く頭を下げる。
その視線の重さが、誰を迎えているのかを物語っていた。
応接室。
扉が開かれた瞬間、室内の視線が一斉に向けられる。
父、母、そしてカメリア。
シルヴィオが一歩踏み出した瞬間、空気が変わった。
迷いなく三人の前へ進み出ると、その場で静かに頭を下げる。
「まず、謝罪を」
低く、よく通る声。その一言に、三人の表情がわずかに揺れる。リナリアもまた、息を呑んだ。
「私の弟が関わった件で、ローデリア家、そしてカメリア嬢に損害を与え、名誉を著しく損なう結果となりました。ヴァルクス公爵家の者として、そして当事者の家の長子として、深く詫びます」
完璧な謝罪だった。形式ではない。立場でもない。責任を引き受ける者の、まっすぐな謝罪。
公爵家の人間が、侯爵家にここまで頭を下げる意味を、誰もが理解していた。
リナリアの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
(……ここまで、してくれるの)
ただの婚約ではない。
これは、筋を通すための場だ。その覚悟が、はっきりと伝わってくる。
頭を下げたまま、シルヴィオは続けた。
「……それでも、このような状況にも関わらず、再び縁を結んでいただいたこと、ヴァルクス家として、感謝します」
静かで、余計な飾りのない言葉。公爵家が頭を下げる意味。その一言に含まれる重みは、誰にでも伝わる。
謝罪だけでは終わらせない。関係を断ち切るのではなく、繋ぎ直す意思。それを、公爵家の長子として明確に示していた。
ローデリア家当主である父は、一瞬言葉を失い、すぐに姿勢を正した。
「……顔を上げてください、シルヴィオ殿。事情は、こちらも理解しております。すべてがあなたの責ではない」
言葉を紡ごうとして、わずかに飲み込む。
名誉も、娘も、傷つけられたのは事実だ。
だが、それ以上に、今この場で公爵家が頭を下げたという意味は重い。
母はその沈黙を引き取るように静かに口を開いた。
「それでも、こうして正式に足を運び、謝罪してくださったこと……ローデリア家として、誠意を受け取りましょう」
「感謝します」
その言葉に、シルヴィオはゆっくりと顔を上げる。
短く、それだけ。けれどその一言に、無駄な感情は一切ない。
「シルヴィオ様」
「カメリアお姉様…?」
それまで黙っていたカメリアが、何かを決意したかのように顔を上げ、真っ直ぐにシルヴィオを見つめた。
「わたくしは、リナリアには自由に生きて欲しかった。商会で働くリナリアは本当に楽しそうで、そのまま、自分のしたいことを、続けて欲しいと、そう思っておりました」
言葉が、詰まる。
悔しい。自分のせいで、本来なら遠ざけるべきだった場所へ巻き込んでしまった。
それでも、リナリアは自分の意思で、選択した。ならば、その選択を信じ、託すことこそが、大切な妹に対して唯一出来ること。
「……リナリアを、託すに足る方だと、信じてもよろしいのですか」
静まり返る室内。その問いの意味を、誰もが理解していた。
ヴァルクス公爵家を。
そして、目の前の男を。
シルヴィオは一瞬だけ目を細め、迷いなく、言い切る。
「当然です。今回の件、必ず収束させる。カメリア嬢の名誉も、元通りにすると、約束しましょう」
静かで、断定的な声音。その中にある確信は、誰の目にも明らかだった。カメリアは、詰めていた息を吐き、小さく頷いた。
「……お願いいたします」
静かに落ちた言葉。
その一言に、これまで抱えていたものが滲んでいた。
シルヴィオはわずかに頷くだけで応じる。
それで十分だった。それ以上の誓いは、言葉ではなく結果で示す。そういう男だと、誰もが分かる。そして、父が改めて口を開いた。
「……では、本題に入りましょう。今回の婚約についてですが、これは家同士の結びつきであると同時に、現在の情勢を踏まえた判断でもある。第二王子派との対立は、すでに表に出始めている。リナリアがその渦中に入ることになるのは避けられない」
並び立つリナリアとシルヴィオ交互に目線をやり、その上で、と続ける。
「……父としては、娘には穏やかに生きてほしかった。だから、貴族としては異例ですが、商人としての道を認めました」
ほんの一瞬だけ、父親の顔になる。だがすぐに、侯爵家当主としての表情へ戻った。
「それでも、この子が自ら選んだ道だ。止める理由はありません。だからこそ、問います。ヴァルクス公爵家の嫡男としてではなく、一人の男として、娘を守れるのか」
空気が、張り詰める。試すような問い。だが、必要な確認だった。
貴族の中枢に入るということは、それほど覚悟の必要なことだと、誰よりも父が、身をもって知っている。
シルヴィオは一切表情を変えず、ただ一言。
「守ります。貴族社会の中枢であろうと、商会であろうと、関係ない。リナリアが立つ場所は、すべて私の管轄だ」
淡々としているのに、有無を言わせない。その言葉に、母がふっと小さく息を吐いた。そして、柔らかく微笑む。それは、娘を信じる覚悟を持った、強い母としての微笑みだった。
「……頼もしいこと。リナリアは、病弱ということにして表に出てこなかった子です。急に社交界に出れば、好奇の目にも晒されるでしょう。それでも、この子はきっと顔に出さないで耐えるわ」
だから、と続ける。
「どうか、その全てから守ってあげてください」
その願いに、シルヴィオはわずかに視線をリナリアへ向けた。
「誓いましょう」
シルヴィオの返答に、父と母、そして姉は静かに頭を下げた。その姿にリナリアは胸の奥がじわりと熱くなる。自分が家族を大切に思っているように、家族もまた、自分を大切に思ってくれていたのだと、気付けたから。
張り詰めていた空気を切り替えるように、母が軽く手を打った。
「さて、堅い話はここまで。次は楽しい話にしましょう。デビュタントのドレスを決めないとね」
「え……?」
あまりにも急な話題転換に戸惑うリナリアに構わず、母はにこやかに微笑み立ち上がる。
「仕立て屋ももう呼んであるの。さあ、こちらへ。シルヴィオ殿も、どうぞご一緒に」
「……え?」
母があまりに自然に誘うものだから、思わず固まる。シルヴィオは満更でもない顔をして頷いている。
「婚約者なのだから、見る権利はあるでしょう?」
「問題ない」
即答するシルヴィオ。
(問題しかありません……!)
心の中でだけ叫びながら、リナリアはそのまま奥の部屋へと連れて行かれた。




