逃げ場のない選択
夜も更けた頃。
リナリアは二冊の帳簿を抱え、再び会長室の扉の前に立っていた。一度だけ、静かに息を整える。
ノックをして中に入り、指示された通り、机の前に立ち、帳簿を開き、数値の説明を一つひとつ積み上げていく。不備はない。矛盾もない。すべて、完璧に整えてきた。
「…以上です」
報告を終え、短い沈黙。
その静けさの中で、リナリアはそっと手を握りしめて、覚悟を決める。
(ここからが、本題)
一度だけ息を吸って、顔を上げる。
「……あの、もう一点よろしいでしょうか」
「なんだ」
「私、婚約を考えております」
それまで揺るぎなく動いていたシルヴィオのペンが、ぴたりと止まった。室内の空気が、わずかに張り詰める。
「……理由は」
シルヴィオの視線は上がらない。だが、確実に意識は向けられている。
「ローデリア家の立場が、このままでは崩れます。カメリアお姉様の名誉も回復出来ていないままです。第二王子派の勢いは、このままでは止まりません」
淡々と紡がれる言葉。その奥にあるのは、焦りではなく、揺るがない覚悟だった。
「外からでは限界があります。だから、内部に入ります」
一度だけ息を整え、
「まずは、社交界に入ります。そして、第一王子派の貴族と婚約したいと考えています」
沈黙。やがて、ゆっくりと視線が上がる。濃紺の瞳が、真っ直ぐにリナリアを捉えた。その瞳はいつも以上に何を考えているか読ませてくれなかった。
「……相手は決めているのか」
「いいえ。まだですが、婚約の意思は父に伝えています」
迷いのない返答。それを受けて、シルヴィオは小さく息を吐いた。そしてゆっくりとペンが置かれる。
「……なるほど」
シルヴィオは物音一つ立たずに立ち上がり、リナリアの前に歩み寄る。
「それなら、相手は決まっている」
「……え?」
理解が追いつかないまま、低く重い、落ち着いたシルヴィオの言葉だけが落ちる。
「私にしろ」
「……は?」
思考が完全に止まる。反射的に声が漏れる。
シルヴィオが何を言っているのか分からず、思わず一歩後ずさる。リナリアが知るシルヴィオはこんな冗談を言う人ではない。
「で、ですが……あなたは、貴族では……」
商会の会長。
それが彼の立場のはずだった。だから、この提案は成立しない。シルヴィオが、わずかに目を細める。
「そう見えるか?」
静かに、一歩近づく。後ずさった分の一歩を詰めるように、逃げ場を削るような距離。
「私の本名は、シルヴィオ・ヴァルクス。ヴァルクス公爵家の嫡男だ」
世界が止まる。
「第一王子の側近でもある」
言葉の意味を理解するまでに時間がかかる。
でも、その一言で、今までのすべての違和感が繋がった。
商人でありながら揺るがない態度。
圧倒的な情報量。
盤面を掌握する視点。
人を支配する側の風格。
(……公爵家)
納得しかなかった。むしろ、それ以外では説明がつかない。浅くなる呼吸の中で、言葉を探す。
「……レオン様の……ご兄弟、なのですか」
否定はない。
それだけで、十分だった。
(だから……全部、分かっていた)
第二王子派の動きも。ローデリア家の状況も。自分の選択も。逃げ道が、消えていく。
シルヴィオはさらに一歩踏み込んだ。
濃紺の瞳に、視線が絡め取られる。
「貴族中枢の情報」
低く、静かに言葉が落ちる。
「ローデリア家の名誉の回復」
距離が、また詰まる。
「第一王子派への影響力」
気づいた時には、シルヴィオは少しでも動けば触れられる位置にいる。
「……すべて」
一拍。
「私を選べば満たされる」
完全に、詰まされた。反論が出てこない。否定できない。それに何よりも、抗えなかった。
「それとも、それ以上の条件を満たせる相手がいるのか?」
もう逃げ道なんてないのに。追い打ちをかけるように覗き込まれる。
「…っ…いえ……」
かすれた声で、否定するしかない。それを聞いて、シルヴィオは迷いなく言い切る。
「なら決まりだ。家同士の婚約として進める。こちらからも話を通す。お前の家にも正式に書状を送らせる」
選択肢は、完全に消えた。
それでも。胸の奥に残る、別の感情が、かすかに揺れる。自分でも驚くほど頼りなくて小さな声が、零れた。
「あの、私で……良いんですか……?」
その問いに、シルヴィオはふむ、と何か納得したように頷いた。
「手を」
短く促される。
無意識に差し出した手を、取られる。リナリアの熱くなった指に、冷たい指が絡む。
「……むしろ、他に誰を選ぶつもりだ」
低く落ちる声。
そのまま、手の甲に静かに唇が触れた。
「……っ!!??」
息が止まる。触れた一点から、熱がじわりと広がる。
遅れて理解する。
(今の……キス……)
一気に意識がそこに引き寄せられる。視線を逸らしたいのに、逸らせない。頬の奥が、じわじわと熱を帯びていく。
「私では不満か?」
さらに低く、追い打ちをかけるように。
「それとも、他の男の隣に立つつもりか」
否定したいのに、声にならない。
理屈も覚悟も、全部ほどけていく。残るのは、触れられた感覚だけ。
「……確認、させてください……これは、提案ですか?」
「違う」
かろうじて紡いだ言葉は間を置かず否定される。絡められた指が、離されることはなくて、思考が定まらない。
「決定だ」
「…っ!」
ふっと膝から力が抜けた。
崩れかけた身体が、グッと力強い腕に引き寄せられる。その瞬間、シルヴィオの香りが全身を包む。
「危ないな」
すぐ近くで、低い声。気づけば、腕の中に収められていた。近すぎる体温と、支える腕が、触れたところから熱が広がる。
「この程度で倒れるなら、貴族社会は無理だぞ」
「……この程度じゃありません…順序を、考えてください」
見慣れたはずの端正な顔立ちなのに、なぜか目を合わせられない。シルヴィオはリナリアの身体を支え直しながら、僅かに口の端を緩めた。
「……まあいい、慣れろ」
「無茶です…」
力の入らない身体で、シルヴィオに包まれながら、心地良いと思ってしまう自分がいることに、リナリアは気付いていた。
(私が商人をしていることは、ほとんどの貴族は知らない…)
家族は許してくれたが、貴族の中でリナリアは異端だ。もし、他の貴族と結婚しても、初めは隠し通せるかもしれない。でも、いずれ発覚した時に向けられる感情は、きっと好意ではない。
そう考えると、シルヴィオは唯一、商人であるリナリアを受け入れてくれる婚約者なのかもしれない。
「…シルヴィオも、貴族として、戻るんですか?」
「ああ、殿下にも、そろそろ戻ってこいと言われている」
「では、商人はしばらくお休みですね」
あぁ。でも、一人で戦おうと思っていたから。
誰よりも心強く、信頼できる人と一緒に進んでいけるなら。
「何を言っている」
「え?」
「どこにいようと変わらない。金の流れを作るという点では、商人も貴族も同じだ。お前のやることもな」
私はきっと、大丈夫だ。そう思えたのは、目の前の男のおかげだった。




