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姉が悪役令嬢にされたので、商人の妹が嘘を暴きます  作者: ゆきだるま
第一章

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逃げ場のない選択


夜も更けた頃。


リナリアは二冊の帳簿を抱え、再び会長室の扉の前に立っていた。一度だけ、静かに息を整える。


ノックをして中に入り、指示された通り、机の前に立ち、帳簿を開き、数値の説明を一つひとつ積み上げていく。不備はない。矛盾もない。すべて、完璧に整えてきた。


「…以上です」


報告を終え、短い沈黙。

その静けさの中で、リナリアはそっと手を握りしめて、覚悟を決める。


(ここからが、本題)


一度だけ息を吸って、顔を上げる。


「……あの、もう一点よろしいでしょうか」


「なんだ」


「私、婚約を考えております」


それまで揺るぎなく動いていたシルヴィオのペンが、ぴたりと止まった。室内の空気が、わずかに張り詰める。


「……理由は」


シルヴィオの視線は上がらない。だが、確実に意識は向けられている。


「ローデリア家の立場が、このままでは崩れます。カメリアお姉様の名誉も回復出来ていないままです。第二王子派の勢いは、このままでは止まりません」


淡々と紡がれる言葉。その奥にあるのは、焦りではなく、揺るがない覚悟だった。


「外からでは限界があります。だから、内部に入ります」


一度だけ息を整え、


「まずは、社交界に入ります。そして、第一王子派の貴族と婚約したいと考えています」


沈黙。やがて、ゆっくりと視線が上がる。濃紺の瞳が、真っ直ぐにリナリアを捉えた。その瞳はいつも以上に何を考えているか読ませてくれなかった。


「……相手は決めているのか」


「いいえ。まだですが、婚約の意思は父に伝えています」


迷いのない返答。それを受けて、シルヴィオは小さく息を吐いた。そしてゆっくりとペンが置かれる。


「……なるほど」


シルヴィオは物音一つ立たずに立ち上がり、リナリアの前に歩み寄る。


「それなら、相手は決まっている」


「……え?」


理解が追いつかないまま、低く重い、落ち着いたシルヴィオの言葉だけが落ちる。


「私にしろ」


「……は?」


思考が完全に止まる。反射的に声が漏れる。

シルヴィオが何を言っているのか分からず、思わず一歩後ずさる。リナリアが知るシルヴィオはこんな冗談を言う人ではない。


「で、ですが……あなたは、貴族では……」


商会の会長。

それが彼の立場のはずだった。だから、この提案は成立しない。シルヴィオが、わずかに目を細める。


「そう見えるか?」


静かに、一歩近づく。後ずさった分の一歩を詰めるように、逃げ場を削るような距離。


「私の本名は、シルヴィオ・ヴァルクス。ヴァルクス公爵家の嫡男だ」


世界が止まる。


「第一王子の側近でもある」


言葉の意味を理解するまでに時間がかかる。

でも、その一言で、今までのすべての違和感が繋がった。


商人でありながら揺るがない態度。

圧倒的な情報量。

盤面を掌握する視点。

人を支配する側の風格。


(……公爵家)


納得しかなかった。むしろ、それ以外では説明がつかない。浅くなる呼吸の中で、言葉を探す。


「……レオン様の……ご兄弟、なのですか」


否定はない。

それだけで、十分だった。


(だから……全部、分かっていた)


第二王子派の動きも。ローデリア家の状況も。自分の選択も。逃げ道が、消えていく。


シルヴィオはさらに一歩踏み込んだ。

濃紺の瞳に、視線が絡め取られる。


「貴族中枢の情報」


低く、静かに言葉が落ちる。


「ローデリア家の名誉の回復」


距離が、また詰まる。


「第一王子派への影響力」


気づいた時には、シルヴィオは少しでも動けば触れられる位置にいる。


「……すべて」


一拍。


「私を選べば満たされる」


完全に、詰まされた。反論が出てこない。否定できない。それに何よりも、抗えなかった。


「それとも、それ以上の条件を満たせる相手がいるのか?」


もう逃げ道なんてないのに。追い打ちをかけるように覗き込まれる。


「…っ…いえ……」


かすれた声で、否定するしかない。それを聞いて、シルヴィオは迷いなく言い切る。


「なら決まりだ。家同士の婚約として進める。こちらからも話を通す。お前の家にも正式に書状を送らせる」



選択肢は、完全に消えた。

それでも。胸の奥に残る、別の感情が、かすかに揺れる。自分でも驚くほど頼りなくて小さな声が、零れた。


「あの、私で……良いんですか……?」


その問いに、シルヴィオはふむ、と何か納得したように頷いた。


「手を」


短く促される。

無意識に差し出した手を、取られる。リナリアの熱くなった指に、冷たい指が絡む。


「……むしろ、他に誰を選ぶつもりだ」


低く落ちる声。

そのまま、手の甲に静かに唇が触れた。


「……っ!!??」


息が止まる。触れた一点から、熱がじわりと広がる。

遅れて理解する。


(今の……キス……)


一気に意識がそこに引き寄せられる。視線を逸らしたいのに、逸らせない。頬の奥が、じわじわと熱を帯びていく。


「私では不満か?」


さらに低く、追い打ちをかけるように。


「それとも、他の男の隣に立つつもりか」


否定したいのに、声にならない。

理屈も覚悟も、全部ほどけていく。残るのは、触れられた感覚だけ。


「……確認、させてください……これは、提案ですか?」


「違う」


かろうじて紡いだ言葉は間を置かず否定される。絡められた指が、離されることはなくて、思考が定まらない。


「決定だ」


「…っ!」


ふっと膝から力が抜けた。

崩れかけた身体が、グッと力強い腕に引き寄せられる。その瞬間、シルヴィオの香りが全身を包む。


「危ないな」


すぐ近くで、低い声。気づけば、腕の中に収められていた。近すぎる体温と、支える腕が、触れたところから熱が広がる。


「この程度で倒れるなら、貴族社会は無理だぞ」


「……この程度じゃありません…順序を、考えてください」


見慣れたはずの端正な顔立ちなのに、なぜか目を合わせられない。シルヴィオはリナリアの身体を支え直しながら、僅かに口の端を緩めた。


「……まあいい、慣れろ」


「無茶です…」


力の入らない身体で、シルヴィオに包まれながら、心地良いと思ってしまう自分がいることに、リナリアは気付いていた。


(私が商人をしていることは、ほとんどの貴族は知らない…)


家族は許してくれたが、貴族の中でリナリアは異端だ。もし、他の貴族と結婚しても、初めは隠し通せるかもしれない。でも、いずれ発覚した時に向けられる感情は、きっと好意ではない。


そう考えると、シルヴィオは唯一、商人であるリナリアを受け入れてくれる婚約者なのかもしれない。


「…シルヴィオも、貴族として、戻るんですか?」


「ああ、殿下にも、そろそろ戻ってこいと言われている」


「では、商人はしばらくお休みですね」


あぁ。でも、一人で戦おうと思っていたから。

誰よりも心強く、信頼できる人と一緒に進んでいけるなら。


「何を言っている」


「え?」


「どこにいようと変わらない。金の流れを作るという点では、商人も貴族も同じだ。お前のやることもな」



私はきっと、大丈夫だ。そう思えたのは、目の前の男のおかげだった。



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