届かない場所へ
王都、アルヴェスト商会本館。
その最奥にある会長室の前で、リナリアは一度だけ息を整えた。
(……シルヴィオからの、呼び出し)
それだけで、軽い用件ではないと分かる。
「失礼いたします」
「入れ」
短い声。
扉を開けると、シルヴィオは机に向かったまま、書類に目を落としていた。
視線すら寄越さないまま、長く筋張った指が机の前のソファーを指差す。
「来たか。そこに座れ」
「はい」
簡潔な指示に従い、ソファーへ腰を下ろす。
シルヴィオが向かいに座る前に、少しだけ部屋を見渡す。
必要なものだけが、正しい場所に置かれていて、そこに余白はない。
一つでも乱せば、すぐに気づかれてしまいそうなほどに、完成されている空間。
(まるで、この人そのものだ)
視線が自然と、向かいに座る人物へ向く。
濃紺の瞳が、すべてを見透かすように、静かにリナリアを射抜く。
「先ほど、第二王子派の貴族が来た」
唐突な一言。
だが、その重さは十分すぎるほど伝わる。リナリアは静かに背筋を伸ばした。
「要求は単純だ。流通の優先順位を操作しろ」
「……優先順位、ですか」
「ああ。第二王子派の貴族の領地に優先的に供給、それ以外、特に対立側の領地は後回しにする。お前の家も対象になるだろう」
息が詰まる。
カメリアの名誉も回復する為、証拠を集めている間に、相手は容赦なく攻め立ててくる。グッと下唇を噛み締める。
「……議会は」
「通していない。商会の運用の範囲で歪めるつもりだ。理由はいくらでも作れる」
検査の遅延、許可の差し止め、契約条件の変更。
どれも正当な手続きとして処理できる。
断ればどうなるか、なんて聞かなくても理解できる。関所、監査、通行規制。商会にとって致命的な圧力。
(露骨すぎる。…だからこそ、隠す気がない)
「……お受けになるのですか」
「受けた」
短い返答。心臓が一瞬、強く打つ。
「だが、そのまま実行はしない」
続いた言葉に、顔を上げた。
「帳簿と実流通を分ける。表向きは従っているように見せるだけだ。実際の流れは変えない。二重に組む」
理解が、すっと落ちる。一瞬でも動揺した自分が恥ずかしい。シルヴィオが、そんな圧力に屈するはずがないのに。
「……提出用の帳簿を、別に用意するのですね」
「ああ。それを、お前に任せる」
「……私に、ですか」
「この規模の数字を扱える人間は限られる。その中で、口が軽くなく、状況判断ができる。お前が適任だ」
迷いのない断言。そして、寄せられる信頼に、応えたい。その重さを、真正面から受け止める。
「承知いたしまし。第二王子派の要求に沿った提出用帳簿を作成いたします。ただし、実流通との整合性は内部で維持します」
「そうしろ」
「……一点、よろしいでしょうか」
「言え」
「いずれ、第二王子派には、露見するのではありませんか」
静かな問い。
シルヴィオがリナリアを評価しているのは、こういう所だ。疑問に思ったことは、誰に対しても率直に意見を述べることが出来る。
「帳簿上では優先しているにもかかわらず、実際の流通に差が出ない場合、遅延や価格の歪みも生じなければ、不審に思われるかと」
「問題ない。もう手は打っている」
短い一言。だが、それだけで十分だった。
シルヴィオは、貴族達から届いた証拠の書状を机に並べたながら、必要なことだけ述べる。
「これは長く続けるためのものじゃない。必要な分だけ時間を稼ぐ。その間に、押さえるべきものを押さえる」
淡々とした説明。だが、その裏にあるのは、明確な確信。言い切る声に、迷いはない。
「露見する前に終わらせる」
(……この人は、どこまで見えているの)
背筋に、わずかな震えが走る。
敵わない。追いつきたい。この人の部下として、仕事を任せてもらえることが、誇らしい。
「……承知いたしました」
それ以上の言葉は不要だった。
数日後。
リナリアの机の上に並ぶ、二冊の帳簿。
一冊は正式な記録。もう一冊は、提出用。
リナリアは静かにペンを置いた。
(これで、整った)
第二王子派の望む形。だが実際の流通は、何一つ変わっていない。この歪みを知る者は、ほんの一部。
ふと、手が止まる。
(……私は、言われた通りにやっただけ)
それなのに、脳裏に浮かぶのは、あの会長室。
無駄のない空間と、すべてを見通しているような視線。
(シルヴィオは、もうその先にいる)
盤面を整えるだけでは届かない場所。
流れを読むだけでは触れられない領域。
ローデリア家。カメリアの名誉。
踏みにじられたものを、取り戻すためには。
(……足りない)
ぎゅっと、胸元を押さえる。
悔しさとも、焦りともつかない感情が込み上げる。
(このままじゃ、並べない)
ただ守られているだけでは、隣には立てない。
視線が、無意識に自分の手へ落ちる。
商人として積み上げてきたもの。けれど、それだけでは届かない場所がある。
(……だったら)
ゆっくりと、息を吐く。
(自分で、そこに行くしかない)
逃げるように避けてきた場所。踏み込めば、もう戻れない世界。もう、商人ではいられなくなる。
(貴族の中枢に、入り込む)
その為には、社交界に入らなければならない。
そして、
(一番、確実なのは)
ほんのわずかに、指先が震えた。
(……結婚)
言葉にした瞬間、胸の奥が、きしむ。
それでも、目は逸らさなかった。




