価値のあるもの
ですが、銃声はしませんでした。
僕と少佐の間に何かが僕の前に立ち塞がったからです。
焦点の合わない視界にはそれが一体何なのかすぐには分かりませんでした。
やがて、それが兵士だということに気づきました。僕に背中を向けていたので、それが誰なのかは判断できませんでした。
兵士の肩越しに隊と少佐の顔が見えました。
相変わらずの無表情でしたが、これまでのようにそれが地顔というものではなく、努めて無表情を装っているような不自然さがありました。
「何のつもりだ。そこをどけ」
「ようく分かりました。逃亡兵がどうなるのか。だから、もういいではないですか」
「ならん。罪には罰を与えねばならぬ。阻むのならば貴様も殺すぞ」
少佐は兵士の額に銃口を近づけました。それでも怯えるそぶりはありません。
「准尉殿は第三旅団にとって今や欠くことのできない旗印です。それを失えば、士気の低下は必定です」
「臆病者の脱走兵が士気の維持に役立つものか。もう少しマシな出まかせを言え」
「出まかせなものですか。ここにいる皆は大小の差あれど少なからず准尉殿が心の支えとなっているのです。そうだろう皆」
隊長と対峙している兵士が後ろを振り返りました。その顔を見て、気がつきました。
僕が戦場で出会った兵士達だったのです。
営巣から抜け、仲間の元へと向かう道すがらに、励まし、宥め、手当てをしたあの兵士だったのです。
見れば、続々とNKVDを横切り、僕たちの前に集まってくるではありませんか。
精悍な顔つきで僕を守るかのように隊長の前に立ち塞がりました。
ふらつく足に力を込めて立ち上がりました。途端に天地がひっくり返りました。
体が傾き始めましたが、倒れる寸前のところで、僕の両腕を誰かが抱きかかえくれました。
隣を見れば、また見覚えのある顔でした。
しっかりと両肩を抱えられ、半ば吊り上げられるようにですが立ち上がりました。
兵士たち皆の目には敬意が感じられました。僕に対する、いえ、僕たち仮設中隊のみんなに対してのものでした。
「少佐殿。ご覧の通りです。准尉の存在は我々の要なのです。この戦場にて我々が潰走せず、戦うための必要不可欠な存在なのです。殺すは誰でも出来ましょう。ですが、僕らを生かすは彼しか出来ません。何卒、お考え直しください」
隊の皆の瞳に映っている色とその思いに僕がどれほどのものを得られたのか、今も言葉にできません。
思いが胸に溢れることは、あの戦場に来てから言葉にできないような思いは何度もありましたが、この時に比肩するものはありません。
胸が壊れてしまったのです。
僕のことを絶対と信じてくれる人々がいる。生きる為に必要だと言ってくれる。
それがどれほど僕を慰めたのか、きっとこれはどうあっても表現は出来ないでしょう。
そう思えば、道が開けたように感じました。
きっとこの思いは何物にも変え難い価値があるのだと一つの疑いもなく信じることができました。
また、死んでいった仲間達へ渡すためのものに、これほど見合った物はないと思えました。
戦場で戦う兵士たちの命を、この世に留めさせる楔となろうと僕は誓ったのです。
さて、そう決めると途端に頭の中はすっきりとしました。
兵士に両方から支えられるようにして、重い足を動かしました。
隊長に銃を突きつけられている兵士の肩に手を置きました。
僕の意図が伝わったらしく、兵士は横に一歩動き、少佐の正面を空けました。
そこに立ち、僕は少佐へと言いました。
ー殺すなら殺しな。だが、怯えたまま引き金を弾くのはいけない。己の意思を隠し、刑罰にかこつけて人を殺すは畜生にも劣る卑怯者だぜ。憎いから殺すんだ、怖いから殺すんだ。人間が人間を殺すのだ。それを自覚せねば、この先待つのは悔いても悔やみきれぬ絶望の人生だ。
じっと少佐の目を睨みつけました。明らかに瞳が泳いでいました。噛み潰しているようでしたが、荒い呼吸が聞こえてきました。
僕があんなことを言ったのは、自分の命大事という思いと、もうひとつの真意がありました。
それは、少佐自身に無意識の苦痛を少しでも自覚してもらいたかったのです。
きっとこの戦争が終わった頃、良くも悪くも物事の価値は変わるでしょう。
その時にNKVDの彼らはどうなるのでしょうか。敵兵を殺すのと仲間を殺すのは全く意味が異なります。
敵兵を殺すのは仕方がないと周囲は慰めてくれるでしょうが、仲間を殺したと言えば、まず間違いなく後ろ指を刺されます。
無邪気は時として痛みを増大させます。気づいた頃には取り返しのない罪に罰を受けることは、苦しみは増すばかりです。
せめて、己の行いを自覚し、覚悟を決める時間を与えてやれればと思ったのです。
口に出しては言いませんがね。このような話は一から伝えれば途端に安っぽくなってしまいますから。自分で気づき、知ればそれでいいのです。それが成長でしょう。
永遠のような一瞬が経ったような気がしました。世界に僕と隊長の2人だけになったかのように思え、心が通じらたように感じました。決して、絆が芽生えたとかそういうものではありません。
殺すものと殺されるもの同士の命の繋がりです。命を断つものの責任と断たれるもの覚悟が僕たちを結びつけたのです。
やがて、少佐は銃口と視線を僕から外しました。
隊員達に命じ、銃を降ろさせ、下がらせました。それから、僕に向き合い腰袋から何かを取り出しました。泥に汚れた麻袋でした。
一体それが何か検討がつきませんでした。少佐は僕の胸元にそれを投げてよこしました。じゃらりという鉄の音が鳴り、ずっしりとした重みを感じました。
少佐に目を向けると、既に踵を返して後ろ姿でした。
麻袋の口を開けると中には認識表が詰まっていました。
僕は声をあげて笑いました。
ーなんて不器用な奴だ。
周囲の兵士たちは僕がどうして笑っているのか不思議でならない様子でしたが、仮設中隊の皆は認識表を見ると、僕と同じように破顔しました。
なんで笑ったのかわかりますか。
どうせ死ぬからと先に認識表を預かっていたのを返却した。それは僕たちをどうにかする気はないということです。
だったら、一言そう言えば良いものを、職務を考えてのことかそんなやり方でしか伝えられなかったのです。
本当に不器用な人でした。
仮設中隊の皆に認識票を配りました。皆、首にそれを掛けました。ただの標識なのに何故かとてもそこに認識票があることが嬉しくて堪りませんでした。
「あの…これはどういう…?」
兵士の1人がおずおずと尋ねてきました。それはそうです。隊長が言葉にしたわけではありませんから、応とも否ともわかりません。
ーもう大丈夫だ。俺たちを刑する気はないらしい。
僕は太く息を吐き、そう言いました。
周囲では喝采が湧きました。
僕たちの命が助かったこともありますが、何よりも、何一つ思い通りにいかない戦場で、自分たちの思いを突き通せたことが愉快でならなかったのでしょう。
快哉を叫ぶ周囲とは裏腹に、僕は落ち着いていました。仮設中隊の皆にに認識票を返却しました。
全員に配り終わった後も、認識票は余っていました。それは死んだ僕の仲間達のものでした。あの塹壕奪還戦で共に駆けた仲間達のものでした。
僕は驚きました。認識票を見ても悲哀や苦悩といった感情が全く生まれなかったからです。仲間の立ち位置が変わった訳ではありません。
依然、僕にとっての生きる意味とは、死んだ仲間へ与えられるだけのものを見つけることでした。ただ、あの時はどうしようもなく満たされていたのです。
ですが、それでいいではないですか。心に神を描くのは苦悩に満ちた時でいいのです。それ以外は心の一部で思っておけばいいのです。ないがしろにしろと言っている訳ではありませんよ。心根に据えることが大切なのです。人間がふとした時に神を想うかのように、僕は仲間達をふとした時思い出すようにしたのです。
意識するにしろ、しないにしろ、行動の指針となれば良いのです。
西の空には、山に切り取られた夕陽が空を焼いていました。血と同じ赤でしたが、包み込むような優しさを感じました。
東の空には星が輝いていました。死体の肌を思わせる青白さでしたが、清らかさを感じさせました。
僕たちは二つの光を受けていました。史上類を見ない大戦争に参加する僕たちは世界の狭間にあり、善なるものが悪となり、悪が善となる混沌とした時代でした。
そんな時代でも、空には星が輝き、太陽は変わらず僕たちを照らしてくれる。人は喜び、悲しみ、そして、死んでいく。
神がこの世におわすのならば、人間に奇跡は与えないでしょう。ただ、自分たちが創造した不変の世界を天の高みから覗き見ているのでしょう。
そう思った僕は、心が軽くなりました。奇跡を与えないならば罰も与えないでしょうから。
各々が信じたことをすれば良いのです。この世はどうしようもなく自由でした。
僕は死んだ仲間達の認識票を天高く突き上げ、声高らかに言いました。
ー諸君らと共に俺はいるぞ。ここにいるぞ。泥の中でも、弾雨の中でも、死の淵にでも、俺はいるぞ。そこにあるぞ。
歓声と笑声、そして少しの涙声が群青の空に溶けていきました。
もうすぐ、一つのお話が終わります。
ここまで続けて来れたのも皆様のおかげです。
お読みいただいた方はぜひとも評価とレビューをいただけると大変嬉しいです。
よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。




