帰還
これが僕にとっての初めての戦争でした。初めは肝心ですよ。全ての基礎になりますから。
僕には死んだ仲間に見合った物を探すことが目的となり、今の今まで這いながらでも生きてきました。
もし、そういった信念がなければ、僕は人生の途中で後悔と苦悩によって狂い死んでいたかもしれません。
話していて気づきましたが、もしかしたらこうして死なない程度の苦しみを味わい続ける人生こそが、悪魔の思惑だったのかもしれませんね。
人生の終幕に近づいてようやく思い当たったのですから、思う壺というやつかもしれませんね。
雲に翳った太陽が鈍色の光を放っていました。雲は緩やかに流れていました。
僕達仮設中隊は後方へ向かう輸送車の荷台にいました。
奪還作戦が成功してから数日が経過し、僕たちは後方、ドン河近くの駐屯基地へ戻るよう命令があったのです。 赤軍の旗は塹壕に置きっぱなしにしました。それが正しい場所だと思ったからです。
荒れ道を揺られ、何とはなしに離れていく高台に視線をやりました。
遠目に壕の一箇所から何かが飛び出ていることに気づきました。
あの赤旗でした。距離が開いているので豆粒ほどにしか見えませんでしたが、それが風になびき翻っている姿に僕は何とも言えない感慨を抱きました。
「目立ちますな」
声を出したのはヒゲの生やした年かさの兵士でした。
気がつけば荷台にいる中隊の皆が、旗に視線を送っていました。
ー遠目に見るとずいぶん小さいがな。
「それでもよく見えます。赤いですからな」
ちらりと横目で兵士の顔を見れば、眩しいものを見るように目を細めていました。
ー何も言うなよ。
僕は釘を刺しました。各々の胸に抱いた思いは口にすれば途端に軽薄なものに変わってしまいそうな気がしたからです。
ただ、旗が離れていくにつれて、死んだ仲間との距離が生まれるように思えました。
もしかしたら、時が経てば都合の良い思い出に変わってしまうのかもしれない。
そう思うと、何か物悲しいような寂しさと、これから先への不安を覚えました。
仮説中隊の皆は塹壕を眺めていました。
彼らの胸中には死んだ仲間の姿が浮かんでいたのでしょうか。
もしや、死人が手を振る姿でも見えたのかもしれませんね。
「貴方は死なないでくださいね」
声は僕の背後からでした。
ー戦場だぞ。死ぬ死なぬで考えては動けねぇよ。
咄嗟にそう返してしまいました。後ろを向けば気味の悪い笑みを浮かべた二等兵がいました。
ー前に同じことを言ったな。
「ええ。気恥ずかしい記憶ではありますが。こうしてまだ生きていられるとは思っておりませんでした」
俯き気味に話す顔には悔いているようでした。
ー死んだ方がましだったかもな。
別段含むところがあった訳ではありません。暗い顔をしている兵士を少しでも気楽にしてやろうとして、身を削った冗句です。
「…そうかもしれませんね。ですが、もがくよりも成り行きに任せてみようかと思います」
彼は破顔し、胸を反らせ、大きく息を吸いました。
あれやこれやと足掻くよりも、世界が命じるように生きるのも悪い話ではありません。
このように言うと何か怠慢しているような言い方ですが、運命とやらに逆らわず、河を流れる木の葉のように身を任せようということです。
この歳になってわかることですがね。人生を動かしているのは自分自身だと若い時は思ってしまうのです。
ですが、実際はどのような選択をしてもたどり着くのは同じところなんです。
人生は大きな河です。河の何処を流れるのか、それが自分の選択というものです。
もし、僕が戦争に参加しなくてもここでこうして貴方と話し合っていたに違いありません。
何処をどのように流れようとも、最後に辿り着くのは海に違いありません。
何を選んでも最後には同じ場所へ行き着くのならば、途中の選択に意味はないように思えますね。
こんなものは、年寄りの後悔が生み出した空想です。そう思わないと、人生を振り返った時に後悔ばかりになってしまいますから。
僕たちはすでに老いていたのです。気づくのに時間がかかりましたが、度重なる戦闘の緊張によって諦観し、老人のようにそれまでの人生を見返していたのです。
兵士から酒瓶を渡されました。ずっしりとした重みでした。揺らせば中の酒が動き、タプンという音が聞こえました。
栓を抜き一息に煽りました。酒が通り抜けた喉が熱を帯びました。
兵士なんてやめてしまえ。そう言いかけて酒で口を塞ぎました。
出来ない正論を言うのはただの馬鹿ですから。
ーそうか、それも良いかもな。
遠目に見える赤旗が僕たちを見送るようになびいていました。
後方の基地に到着しました。西の山には夕焼けが差し掛かり、空を赤く焦がしていました。
基地は一つの村に設置されていました。村といっても小さなものではなく、石畳が敷いてあり、艶やかさはないが落ち着いたレンガの家々が立ち並ぶ規模の大きいものでした。
司令本部は村の中央に位置している集会所のような平屋の大きな建物におかれていました。
集会所の周囲には兵士たちが車座になって座っていました。
皆、前線から交代してきた兵士なのでしょう。泥に塗れた軍服の襟をくつろげ、気を緩めていました。
僕たちが輸送車から降り立つと、喧騒に包まれていた広場が水を打ったように静まりました。
焚き火のはぜる音がいやに響きました。ちらりと彼らに視線を向けると、ちらほらと見覚えのある顔がありましたが、何処でだったかは思い出せませんでした。
ふと思いつき、繃帯所へと向かいました。C中隊の生き残りの見舞いに行こうと思ったからです。
話の中では少ししか登場していないので忘れているかもしれませんが、奪還戦の時に賭けの紙を僕に渡したてくれた軍曹です。
急いでいたとはいえ、処置を済ませたまま戦場にほったらかしにしたままだったので、奪還後に他の兵士に救助を頼んでおいたのです。
包帯所は教会に設置されていました。礼拝堂の長椅子が撤去され、そこにいくつもの仮設ベットが並べられていました。忙しなく軍医と看護婦が動き回り、鼻のつく消毒液の匂いが充満していました。
生き残りの軍曹は眠っておりました。くぅくぅと寝息を立てていました。頭には血の滲んだ包帯が巻かれ、右足は腿の真ん中から下がありませんでした。
それでも生きていたことを喜びました。じっと顔を見ていると、彼は薄く目を開けました。
「なんて顔してるんだい」
短く言いました。
ー気持ちよく眠りやがって。さぞ快適だっただろう。
「そうでもないさ。初めの頃は小さいベッドで、足も伸ばせなかった」
ー伸ばす足もないくせによく言う。
不謹慎な言葉ですが、そのような罵りは戦場で挨拶のようなものでした。噛み潰した笑いが起きました。
「皆のことは聞いたよ。残念だったな」
重苦しい響きでした。彼もあまり口にしたくない話だったのでしょうが、だからといって胸の中に封じ込めておけることでもありません。
―そうでもないさ。満足して死んでいったんだからよ。きっと後悔の一つもなかったはずだ。
「そうかい」
彼からの言葉はそれだけでした。互いに生きていてよかったという思いはありましたが、その言葉を出すには僕たち二人とも恥を抱えすぎていました。
「あんたはこれからどうするつもりだい?」
突然、問われて僕は言葉を返せませんでした。未来のことなんて何もわかりません。数日前までは死んでも良いという考えでしたから、先のことなんて何も考えていませんでした。
ただ、漠然と死んだ皆に相応しい人間になろうという決心はありましたが、具体的なことは何も考えておりませんでした。
―お前はどうするつもりだ。
答えられない僕は、質問を返しました。
「俺か?俺はそうだな。こんな体じゃ軍にもいられないだろうし、おとなしく家業でも継ぐかな」
彼は商人の生まれでした。生まれた時から親の仕事を目にし、自然と数字に明るくなっていたというのです。
あくせく金のために働く親の姿に嫌気がさし、半ば家出同然に軍へ志願したそうです。
僕は思わず彼のことを羨ましく思いました。帰れる場所があり、帰ることができる彼の身の上がどうしようもなく輝いて見えました。
足を失った彼と僕との違いは、戦友の死にざまを目にしたかどうかです。 九死に一生を得た軍曹は、既に一度捨てた命です。この世に恐れるものはもう何もありません。
また、並外れた幸運と体力、そして胆力を持ち合わせています。生き残りというものはそういうものなのです。 これほどのものを持ち合わせておきながら、まさか常人以下の人生を送るようなことはありません。
実際に、軍曹は家業を継ぎ、一代にして国内でも有数の巨大企業に育て上げました。
対して僕は彼らの死にざまを見てしまったのです。それからの人生は彼らの影を見る生活です。過去を忘れられず、囚われ続ける人生といっても過言ではありません。
まっすぐ進むことは出来ず、苦難と後悔の人生です。それでも亡き戦友のために僕はこの命を捧げなければならなかったのです。
どうしようもなく軍曹をひがむのも無理はないと思えませんか?
軍曹は口を閉ざした僕に何かを感じたのでしょう。それからは飯がまずいだの、ベッドが固いだのと、どうでもよいことを口にしていました。
すると突然、外から乾いた銃声が響きました。包帯所の皆は目を剥き、動けるものは入口に殺到しました。
僕も駆け出し人の波をかき分けて音の方向へと走りました。
人波に流されるようにして外に出ると、兵士が、仮設中隊の皆に腰だめに銃を向けているではありませんか。
軍服に着いた袖章に見覚えがありました。NKVDです。
戦場で見た表情の無い顔が銃を構えていました。
その後ろに少佐が立っていました。僕には何が起きているのかわかりませんでした。




