債務者の責務
目を開けると戦塵が舞う空が見えました。壕の中にいたはずが、そこは戦場の真っ只中の砲弾跡でした。
近くでは砲弾が炸裂し、土を跳ね上げていました。
隣を見ると、死んだはずの仲間がいました。皆、軍服姿で銃を持ち、今にも走り出そうと身構えています。
砲弾跡から首を出して周囲を見回すと、同じような砲弾跡とそこにいる兵士たちが散見されました。
皆、見知った顔でした。
僕が所属していた中隊の皆でした。それも、初めの砲撃で死んだものから、最後の突撃で命を落としたものまで、全員が五体満足で武器を構えているのです。
ーお前ら生きていたのか。
中隊の皆が僕を見ました。憑き物が落ちたようなさっぱりとした顔でした。顔にはうっすらですが笑みを浮かべていました。
彼らは何も言わずに、じっとこちらを眺めていました。
もしや、さっきまで見ていたのは僕の夢なのかと思いました。
ほっと胸を撫で下ろしました。その時、自分の右手に赤旗が握られていることに気づきました。
周囲からの言葉はなくともすぐに理解しました。
旗を持っており、戦場にいる。そして、中隊の皆が僕を見ているのです。何をするべきか、何を求めているのか。
砲弾後の斜面を駆け上り、旗を天高く掲げました。正面には何も見えず、真っ白な霧が立ち込めていました。
敵陣は見えず、ただ砲撃と弾丸がこちらに向かって襲って来ました。
それでも、恐れはありません。また、仲間と共に走れるのです。それが堪らなく幸福でした。出来るならこのまま死ねないものかと思いました。
その時です、僕の背中に軽い衝撃が走ったと思えば、脇からすり抜けるようにして誰かが前に出ました。
それは中隊の兵士の1人でした。
それを皮切りにして、中隊の皆が僕を追い越していきました。抜かす時には必ず僕の背中を軽く叩いていくのです。
ー何だよお前ら、どういう意味だよ。
必死に追いつこうとして足を早めますが、軽やかな足取りで彼らはどんどん前に進んでいきます。
一体、後何人僕の後ろにいてくれるのだろうか。そんな疑問が浮かびましたが、後ろは振り向いてはいけません。
もう、僕の先を走っていった仲間たちの姿はうっすらとした輪郭しか見えませんでした。
ーおい、そんなに先に行くなぁ。見失うだろうが。
叫びました。いまだに敵陣は見当たらず、ただ、白いモヤの中を泳ぐようにしてかけていました。
僕の声が聞こえているのかどうかはわかりませんが、先を走る皆が足を止めることはありません。
息が切れ、足がもたつくようになりました。もう仲間の姿は見えません。 やがて、僕の意思に反して、足が止まり、膝を抱えるようにしてしゃがみ込みました。
また孤独になりました。ただ1人、戦場に取り残されたのです。
肩を震わせて、涙を流しました。しゃくりあげながら
ーまた置いていきやがった。誰もいねぇのに旗なんて意味ねぇだろ。
呟きました。そして、旗を放り投げました。赤旗が空を舞い、乾いた音を立てて地面に落ちました。
さっと寒気がしました。それと同時に駆け出し、投げた旗を急いで拾い上げました。そして、掻き抱きました。 変わらず涙は流れ続けていました。
その時です。また誰かが僕の脇を通り過ぎました。今までのように駆け抜けるのではなく、ゆったりとした足取りで、僕の隣を抜けていきました。ぽんと背中に手を当てて、何かを託すかのように名残惜しそうに、僕の背中から手を引きました。
数歩前で兵士はこちらを振り返りました。中尉でした。穏やかな表情で僕を見ていました。
ー行くのか?
言葉は返って来ませんでしたが、ゆっくりと頷きました。
ー俺も連れていってくれよ。
今度は首を横に振りました。冷たい拒絶ではなく、親が子に教え聞かせるような優しさがありました。
ーなんでだよ。このまま生きていたっていいことなんか何もねぇよ。俺1人生き残るべきじゃなかったんだ。教えてくれ、俺がこの先に生きていいことあるのかよ。
中尉は困ったように笑いましたが、やがて笑みを閉ざし、きっと目を鋭くしました。そして、拳から親指を立たせ、自分の胸をとんとんと叩きました。
どう言う意味かはわかりませんでした。ただ何かを伝えようとしているのだと言うことはわかりました。
そう考え、
ーどういう意味だ?
と、口にした時、急に世界がぼやけて歪み始めました。中尉の輪郭がぼやけてきました。それから、中尉は他の兵士たちと同じように、僕に背を向けて、走り始めるのがわかりました。
名前を叫んで呼び止めますが、あっという間に薄れた世界の中に紛れ込み、姿がわからなくなりました。
やがて、天地との境目が曖昧になり、体がふわりと浮き上がりました。天に向かって飛んでいるのか、それとも地面に向かって落ちているのかわからないままで、僕の意識はぷつりと途切れました。
次の景色は空に輝く星空でした。
わかっていましたがやはり夢だとわかれば物悲しい気持ちになります。
ふと、頬が湿っていることに気づきました。手をやると、目頭から筋になって濡れていました。
所詮、ただの夢です。僕の罪悪感と生への欲求が生み出した都合の良い空想に違いありません。
そんなものに涙を流している自分をひどく恥じました。
ふと、死んだ仲間がしたように自分の胸に拳を当ててみました。
微かですが心臓の拍動を手に感じました。それと同時に胸の物入れに何かの感触がありました。
胸のポケットに手を突っ込みました。
中からくしゃくしゃの紙切れ一枚出てきました。みみずがのったくったような文字と、箇条書きの名前、誰が生き残るかを賭けた、賭けの用紙です。
その中で見覚えのある文字を見つけました。
僕の名前と所有物全てという殴り書き。
それを見て、あぁ、とか細い声共に頭を抱えました。
また、死にたいという気持ちが薄れていきました。いえ、正確に言うと生きなければならないという使命が湧いてきて、死への欲求と均衡したのです。
何でかと言いますとね、手元にある紙を見て、賭けをして、その結果が出ていることに今更ながら気づいたからです。
僕は生き残り、他の兵士たちは皆、死にました。
僕に賭けていた全ての兵士たちが勝ち、自分以外に全てをかけていた僕は大負けです。
賭けの結果が出ているというのに、今更、テーブルをひっくり返すような行いは許されません。
それに、賭けに負けた僕は所有物全てを仲間に分け与えなければなりません。だとういのに、僕は今、何も持っていませんでした。
金も、権威も勇気も愛も、自分の手には何もないのだと気づきました。
これでは賭けの勝者に渡せる物としては、とても見合っているとは言えません。かといって、何を渡せば見合うのかもわかりません。
ならば僕が残りの人生の間に、死んだ仲間に見合ったものを見つけなければならないと、決心しました。生きる決心をしたのです。
その時の僕はどうしようもなく誰かに誓いたかったのです。
僕は生きる。絶対に生きて人生をまっとうする、と。
誰にでも良かったけれども、誰かに僕の思いを聞いて欲しかったのです。
塹壕の中を確かな足取りで歩き、友軍の姿を探しました。
彼らは車座になって静かに酒を呑んでいました。
僕は車座の隙間にどしりと腰を下ろし、酒を瓶ごとあおりました。
突然の僕の登場に皆目を丸くしていました。
勢いに乗って座に加わったは良いのですが、何をどういうべきかと考えていませんでした。
間がもたないことを誤魔化すようにして酒をガブガブと呑みました。
僕の瞳から、何かを言おうとし、胸に詰まってしまっていることを察したのでしょう。僕に合わせて、皆酒を飲み始めました。
まだ酔いは回っていませんが、胃の辺りにずしりとした重みと、じわじわと体の中心から指先へと熱が伸びていくのを感じました。
「何か言いにきたんでしょう?」
声は二等兵からでした。口をつぐんでしまった僕に助け舟をだしたのでしょう。
あれやこれやと筋道を立てて話すことを考えていましたが、これ幸いと口を開きました。
ー俺は生きるぞ、必ず生きる。苦しくても、悲しくても生きてやる。
死なないではなく、生きるというところが肝です。死なず、生きながらえたところで、死んだように生きていれば碌な人生は迎えられないでしょう。生きながらえながら、誰に恥じることなく胸を張って生きられるようにする必要があります。
勇敢に戦いながら命も守るというのは余程の胆力と幸運がいることなのです。
兵士たちは僕の言葉に顔から色を失いました。驚いているわけで怒っているわけでも、ましてや、悲しんでいるわけでもありません。
心中で生まれた感情を内側で押し留めるために殊更、無表情を装っていたのです。
そんなこと出来るわけがない、冗談に聞こえたのでしょう。兵士たちは表には出しませんでしたが、きっと心の中では僕の言葉のおかしさを笑っていたのでしょう。
ー未来はきっと素晴らしいものだろうから。
何の根拠もない言葉でした。それどころか残りの人生で僕を待つのは、永遠に満たされない渇きだと察していました。
それでも降参の機会を失っていました。
死んだ仲間のために、僕が死んだ時に彼らが満足する物を渡すために、生きるしかないのです。
無限の可能性という悪魔の証明に縋りながらでも生きると誓ったのです。
僕の言葉からわずかに間をおいて、静かな笑い声が浮かびました。
喉の奥を鳴らすようなくぐもった不敵な笑い声が、兵士たちの間から出ていました。
ついに耐えられなくなったのでしょう。皆が口を開けて大笑いを始めました。普通、戦場では誰も大笑いはしません。不思議ですが、皆、口を歪めたような笑い方をするのです。ですが、この時ばかりは10年来の親友と話しているかのように、声をあげて兵士たちは笑いました。
兵士の1人が立ち上がり、周りを見回しながら声をあげました。
「おい聞いたか、牧師様が言ってくれたぞ。俺たちの未来は神が保証してくれる」
小馬鹿にした笑いだったか、心からの笑いだったかは分かりません。
僕の言葉が精一杯の皮肉に聞こえ、笑いが堪えきれなくたなったのでしょう。
「俺たちの未来に」
高らかな声が響きました。1人の兵士が酒瓶を掲げていました。
習うように皆が酒瓶を掲げ始めました。僕も同じように酒瓶を掲げました。
ー死んだ仲間とこれからの素晴らしい未来へ。
ぱっと笑声が広がり、瓶同士のぶつかる小気味の良い響きがなりました。
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