幸福の器
この後のことは予想がつくでしょう。僕がここで今、貴方と話していることがその答えです。
死ねなかったのです。というのも、突如、僕の体が前からの衝撃を受けて後方に吹っ飛んだからです。
こめかみにつけていた銃口から頭が離れ、頭蓋を割るはずの弾丸は土壁に穴を穿っていました。
強かに背を地面に打ちつけ、呼吸ができなくなりました。
痛みを堪えながら目を開けると、入り口からの光を背にして、何か柔らかく黒い塊が僕の上に乗っかっています。
僕は目を白黒させつつ、目を細めると黒い塊が赤軍の兵士だと気づきました。それから、その影が先ほど話していた二等兵だと気づきました。
ー何を。
と僕は声を出しました。死ぬことを阻止されたことへの怒りはなく、ただ疑問を持っていたのです。
ーいきなり何をする。
そう、口にしようと開きましたが、声は出ませんでした。
それよりも早く二等兵の泣き声が聞こえてきたからです。それも子供のようにおいおいと声をあげて泣くのです。
僕の胸に顔を埋めて、しゃくりあげながら声を出すのです。
「死なないでください。死なないでください」
泣き声に紛れてそんな言葉が聞こえてきました。
阿呆のように何度も何度も叫ぶのです。彼の涙を見た時から、僕の中から死ぬ気持ちが萎えてきました。
自分の行いを恐れたのではありません。ただ、死ぬ前に涙を見せられては後生が悪かったのです。
右手に握られている銃を遠くに放り投げました。壕の壁に当たり、鉄の音が聞こえました。
また、悪魔の声が聞こえて来ました。言葉ではなく笑い声でした。それも溌剌とした気持ちの良いものではなく、鼻を鳴らした嘲笑でした。
悪魔は人を殺す存在ではありません。目的は自分の快楽のみです。悪魔の快楽とは何か、人の苦しみに他ならないでしょう。それも、刹那の快楽主義者です。
僕は死にたかったというのに、死ねなかったんです。あの時に死ななかったからこそ今、ここで貴方と話せているのですから、悪魔も先を見て動いている訳ではないのです。ただ、人間の欲求に対して、反対の行動を囁くのです。
次第に悪魔の笑い声は遠ざかり、兵士の泣き声が大きく聞こえてきました。
ーもういい、離せ。
五体を地面に投げ出しました。何もしたくなく、酸素も吸いたくなかった。このまま泥の中で眠るように死ねたらどれほど楽だろうかと思いました。
やがて、腹の上の重みが消えました。目を開けると、僕の隣で座り込みまだ涙を流しています。これまでのような声のある涙ではなく、しくしくと痛みに耐えるかのように涙を流していました。
「何で死のうとしたんですか。せっかく生き残ったのに何で死のうとしたんですか」
当たり前の問いですね。せっかく命を拾ったというのに、自分から捨てようとするのですから疑問を持つでしょう。あの悲惨な戦場を走ったものならその疑問も一層でしょう。
ー疲れたんだ。ただそれだけだ。
事情を一から説明しても良かったのですが、あまりに長すぎますし、彼らとのつながりをあまり吹聴するような真似はしたくなかった。
「ならば飯を食いましょう。眠りましょう。そうすれば疲れも取れます。僕たちは戦果をあげたのですから、それぐらいの褒美は出るでしょう」
ーそれでもまた疲れるだろう。疲れて癒えて、それで何になる。飯を食っても糞になるだけだ、眠れば起きるだけだ。良くも悪くもならないじゃないか。生きていても何もならないだろ。
自分で話していても意味がわかりませんね。
漠然としているというか不明瞭というか、話が見えてきませんね。ただ、維持になっていたのです。
死にたい人間にただ生きろというのは、無限の苦痛を味わえというのと同じです。
生きていればいいことがあるなんていう楽観にも縋れなくなった人間が自殺するのです。
「それをあなたが言うのですか。僕に、感情よりも行動と理性を説いた貴方が」
険しい声でした。その言葉でわかりました。
彼にとって僕はいえ、僕と仲間は神のように尊敬していたのです。その身を持って兵士とは、人間とはこうあるべきと身をもって示した僕たちに憧憬を抱いていたのです。
「この世界は地獄ではありません。そうでしょう?罰を受け続けるのではなく、幸福にもなれるはずです。自分自身のために生きられるはずです」
それは悪魔の証明です。先の人生の幸福を証明することは誰にもできず、ないことを証明することもできない。それ故に、人間は真に幸福に生きられず、絶望に死ぬこともできないのです。
ただ、僕は確信を持っていました。一時の深い幸福に包まれていた僕の中で、幸福の器は広がり、そして、中身を失いました。拡大された幸福の器だけが残ってしまいました。
きっともうこの後の人生でこの器が満たされることは二度とないでしょう。深い愛情も溢れんばかり情動も、仲間と僕を包んでいた幸福と比べれば矮小に思え、真の意味で喜ぶことは出来ません。
ー俺の人生に残されたのは灰色の生活だ。仲間の影を追いかけ続ける苦しみだ。
目尻が下がっていくのがわかりました。
今、自分がどんな顔をしているのかわかりませんでした。もしかしたら、自棄になって笑っているかもしれません。悲観し涙を流しているかもしれません。
問答に終着はありません。死ぬと言い生きろと言われる。
終わりのない会話に意味なんてありません。
兵士の言葉を無視し、腰に巻き付けてあった水筒を口につけました。水筒の中身は仰向けのままですので、勢いよく水筒から水が流れ込み、むせました。
「それでも貴方達は英雄なんです。あの赤旗は恐怖に呑まれる僕たちに、生きる道を示してくれたんです」
無視しました。いえ、言葉を返せなかったんです。
生きる道を示した人間が、死ぬなんて話になりません。
言葉の裏には僕たちのために生きてくれという思いが隠れていたと思います。言い換えれば、自らの生のために誰かを利用しているのです。
しゃらくさく思いましたが、面と向かって貴方は正しい人間だ。と言われれば、誰だって言葉は返せないでしょう。
むくりと僕は立ち上がりました。ここか立ち去ろうと思いました。兵士の目に見える僕への期待と敬意に気がついたからです。
「どこへ行かれるのですか…?」
ー安心しろ。死にはしない。
壕の出口に足をかけた時に後ろから声がしました。
「救われた人はたくさんいます。生きて欲しいと思っている人はたくさんいます。亡くなった仲間達もそう思っているはずです。それだけは忘れないでください」
その一言が僕の心を鉛のように重くしました。
再三言っておりますがね、死人の心は誰にもわかりません。
故に、自由に解釈して己が生きる大義に出来るのです。それが生者の特権です。僕が戦場で心に傷を負い、戦えなくなった兵士たちに死者の言葉を伝えていたのも同じことです。
ですが、それは僕が伝えていたからこそすぐに効果を得ていたのではないかと思います。聖職者の口から出る死者の思いはさも的を得ているように聞こえるものです。
ならば、僕に死者の真意を伝えてくれるのは一体誰なのでしょうか。誰が僕に救いを与えてれるのでしょうか。生きていても良いと思えるには何がいるのでしょうか。
二等兵からは離れられましたが、言葉が耳の中で響き続けました。
生きて欲しいと思っている人はたくさんいる。その言葉が不思議と聞き流すことができず、かといって受け止める言葉が出来ませんでした。おりを見ては、声が甦りました。
はて、どこかで聞き覚えがあると思い、腕を組んで塹壕の一角に座り込んでいました。
何人かが通りがかっては珍奇なものを見るかのように、顔は動かさず、目玉だけを動かして横目で僕を観察していました。
やがて日が暮れかかり、空が赤く染まりました。
僕の眼前には半かけらの黒パンと豆のスープが置かれていました。30分ほど前に兵士の1人が配膳してきたものでした。
すでにスープは冷め切っておりました。スプーンで底を掬い上げると、思っていたよりも多くの豆が浮かび上がりました。それをまた底に沈め、また掬い上げました。そんなことを何十回と繰り返していました。
腹は空いていましたが何も食べたくなかったのです。
通りかかる兵士を呼び止め、
ー要らないから食え。
と言いますが、誰も受け取らず僕に一礼だけして通り過ぎて行きます。
皆空腹は同じはずなのに、誰も受け取ろうとしないのです。それも、1人や2人ならわからなくもありませんが、皆、口裏を合わせたように「結構です」と答えるのです。
ここまでくれば気味が悪くも感じます。
足を引き摺りながら通り過ぎる兵士が視界に入りました。
ーおい、そこのお前、ちょっ待て。
僕の声にビクリと体を震わせた兵士はこちらを向きました。
「なんでしょう?」
ーやる。
顎で地面に置かれたスープとパンをしゃくりました。兵士は僕の言葉の裏に隠された真意を考えているようで、狼狽えていました。
何をそんなに悩んでいるのだと思いました。
ー試してはいない。食べたから叱ったりはしない。
ごくりと生唾を飲む音が聞こえました。スープの器を持ち上げ、差し出しました。
ゆるりと兵士の手が器に近づき、触れそうになりました。それでいい、こんなものしかやれないのが心苦しかったです。
兵士は器に触れる寸前で手を引っ込めました。
「結構です。貴方が食べてください」
ーなぜ食べない、腹を空かしているだろう。
「腹は空いておりますが、それは貴方の飯です。食べてください」
ーその俺がやると言っているんだ。不都合は何もないだろう。他に何か訳があるのか。
兵士は困ったように眉を寄せました。
やがて、周囲を見まわしました。誰も他に人がいないことを確認していました。それから、ずいっと僕の耳元に顔を近づけ、内緒話をするように口の横に手をかざしました。
「二等兵から貴方に飯を食わせるように言われているのです。もし、差し出されても断るようにと」
二等兵と言われ、すぐに誰のことかは察しました。さっき壕の中で僕の自殺を阻止したあの男です。
顔が思い浮かび、腹が立ちましたが、それよりも兵士の皆が律儀に命令を守っていることに驚きました。
戦場では常に皆、空腹です。食事といっても水のように薄いスープと一欠片のパンくらいのものです。それも後方から運ばれてくるのでスープは冷めきっており、パンはカチカチに固くなっていました。それに戦況次第によっては何日も届かないこともよくありました。
敵塹壕に強襲をかければ、例え戦闘中でも敵の食糧を貪り食いながら戦うことも珍しくないほどでした。
皆飢えていたのですから、食料がもらえるとなれば一言返事で受け取るのが普通でした。上官より禁じられたことであっても兵士である以前に人間です。飢えには耐えられないのが人間です。
ー律儀に守る必要もないだろう。胃に入れてしまえば証拠も残るまい。安心しろ。
「いえ、いえ、いけません。貴方は生きないといけない人です。飯を食ってください」
そう言って、兵士は僕の胸にタバコと酒を押し付けて、駆けるように僕の前から去って行きました。
二等兵が言っていた皆が生きて欲しいと願っているのは、口から出まかせではなかったのです。
確かに駆けていった兵士の目には畏敬の色が見えました。随分とおどおどしていたのも、恐怖からではなく、謹厳さからくる緊張だったのでしょう。
部下に生きろと言われ、飯を食えとも言われてしまっては、怒りの湧きようがありません。きっと、押し付けられたタバコと酒も、どこぞの兵士から持って行くようにと渡されたものなのでしょう。
手に握られた器を口につけ、一息にスープを飲み干しました。それから、黒パンにかぶりつき、酒で流し込みました。暴れるように喰い、飲み込みました。
ものの1分足らずで食べ終わり、タバコに火をつけ、吸いました。肺に入れず、口の中でぷかぷかと煙を回して遊びました。煙を吐き出し、酒を飲みました。
いきなり胃の中に食べ物を流し込んだので、違和感を覚えました。腹が迫り上がってくるような感覚になり、体を横たえました。
久々の満腹感からか横になると待つまでもなくうつらうつらとしてきました。
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