悪魔の囁き
奪還作戦は想定以上の成果を挙げました。当初の目的通り、奪われた前線1本分の奪還のみならず、そこから更に数キロ先まで前線を押し上げることに成功したのです。
前線基地のお偉方は大喜びだったと思いますよ。これまでの作戦は敗北とは言わないまでも、勝利には程遠いという曖昧な戦果ばかりだった。それが久しぶりに完全勝利を得たのですから。
きっと従軍している記者達も久々に誇張の無い記事を書けることでしょう。
そんな風に自軍の兵士たちが浮かれている中、僕は奪い返した高台の塹壕で壁を背に僕は座り込んでいました。どこかに傷を負ったとかそういうのではありません。ただ、死ぬと思っていた緊張が急に解けて腰が抜けたのです。恐れはしていなくとも緊張は酷いものでしたから。
作戦開始されたのが夜明けの時間で、完了したのが半日ほど経過した真っ昼間だったと記憶しております。
目の前では兵士たちが戦場の後始末をしていました。敵も味方も関係なく、地面に転がっている死体を仰向きに転がし、首の認識表を回収していました。
酷く疲れました。体の節々が痛く、疲労困憊といった様相でした。青い空を見ながら呆けていますと、誰かが隣に座り込みました。チラリと見ると、見覚えのある顔でした。どこで見たものかと、記憶を探っていると、
「煙草吸いますか?」
僕の鼻っ面にタバコ差し向けてきました。頭を軽く下げて礼を示し、受け取りました。
「貴方が助けた兵士たちですがね、皆命は拾いましたよ」
その言葉でようやくわかりました。この戦場で出会った仮設中隊所属の二等兵でした。僕の記憶にあるおびえた顔とは違い、随分と柔らかくなり、話す口ぶりも軽いものでした。
ー随分と顔が変わったな。誰かわからなかったぞ。
僕がどの時の顔を言っているのかわかったらしく、恥ずかしげに視線を外しました。僕がタバコを咥えると、マッチの火を近づけてくれました。
ーちょうどいい、聞きたいことがあったんだ。
「どうぞ、なんなりと」
ーお前達は中程で停滞していただろう。それがなんで最前線まで進軍していたんだ?
二等兵は首の裏に手を当てて、恥ずかしげで意味深に笑いました。自嘲気味な笑みでしたね。
「恥ずかしい話なのですがね、生き残りの兵士たちを集めて、どうやって撤退するかを考えていたんです」
彼は戦場の後始末をしている仲間の兵士達に目を向けました。皆、彼と同じような凛々しい顔つきをしていました。
「その時に前線から獣のような声が聞こえたんです。なんの動物だったのかわかりませんが、酷く怒っている様子でしたね。その声を聞いた時に、僕の体が勝手に前線に向けて歩き出したんです。ゆっくりとですが、銃を構えて一歩一歩と。仲間達も同じだったようです」
すぐに思い当たりました。その声は間違いなく仲間達の怒りの叫びです。ただ己の怒りを空に吐き出した声が、風に乗って彼らの元へ届いたのです。
「途端に逃げる気なんかは失せてしまいました。捨て鉢になったと言いますか、命なんてどうでもいいと諦めたんです。
それで、どうせなら行ける場所まで行こうかなんて話して、前進することにしたのです。
今思えば心変わりしたのはあの獣の声を聞いた時からでした。声を通して魅入られたのかもしれません。
とにかく、そうして前線まで出張ってくれば、遠目に赤旗が翻り、少人数が突撃を敢行しているのです。かっこよかったですよ。こんな言い方すると子供じみていますが、英雄に見えました。そして、僕も英雄になりたいなんて気が湧いてきました。出兵前の心がまた燃え始め、僕の体を突き動かし、敵陣へと走り始めたのです」
一息に話しきった二等兵は、煙草を吸いました。
「貴方でしょう?赤い旗を持っていたのは」
ー顔が見えていたのか?
「いや、でもそうだといいなと思っていました」
兵士の顔を見ると、白い歯を見せて笑っていました。僕は居た堪れなくなりました。
そんな顔とそんな目で見てほしくありません。英雄だなんて言われたくありませんでした。ただこの世に一人で取り残された僕は、迷子から乞食になってしまったのですから。
ー俺は英雄じゃない。ただの死に損ないだ。中身のない死体だ。
ふらりと立ち上がり、その場を後にしました。二等兵が呼び止める声が聞こえた気がしましたが、振り返りませんでした。
行く当てもなくただふらふらと幽鬼のように壕を歩きました。どこを通っても、見覚えのある光景が続いています。友との記憶が蘇り、僕の孤独を際立たせました。
次第に目頭が熱くなって来ました。まだ、周囲には兵士がたくさんいます。早足に近くにあった掩蔽壕に入りました。
中には誰もおらず、ただ散乱した家具があるばかりでした。そのうちの一つの椅子に腰掛け、静かに涙を流しました。
勝利したというのに心の中は虚しさが領していました。
勘違いしてほしくないのですが、この戦いが無意味に感じたのではありません。友は勇敢に戦い、見捨てられた兵士にはおよそ予想もできないほどの戦果をあげました。
無駄死になどではなく、大変、意味のある命の使い方だったと誰もが思うでしょう。
僕が虚しいのは、自分の命が助かってしまったからでした。
皆と共にどこへでもついていくと言い、あれほど深い連帯感を持っていたというのに、僕は一人になってしまったんです。
僕の中で膨れ上がっていた仲間との記憶は、今やその外郭を残して空洞になっていました。もう、どうやってもこの空洞を埋めることはできないと思えば、虚しくもなります。
そのまま消えたかったのです。本当に運命というやつは偏屈な奴です。死にたいという人間は殺さず、生きる理由だけはしっかりと奪っていくんですから。
頭に死がよぎりました。皆と共に死ぬはずの僕が生き残ってしまったのです。これほどの裏切りはないでしょう。
僕が戦えと煽り立てておきながら、僕だけが生き残るなんて、彼らに対する侮辱です。
悲劇の舞台に1人だけ取り残されたんです。いえ、僕1人だけではありませんでしたね。足元には小銃が転がっていたのです。
あの時、僕には悪魔が囁いていたんです。奇しくも前に悪魔と出会ったのと似た壕の中でした。
耳元で誰かが呟きます。
「皆死んだんだろう。なんでお前1人だけ生きているんだ。お前は何も出来ぬ阿呆だ。自分の命一つ満足に出来ぬ、何も持ち得ない畜生にも劣る乞食よ」
確かにそうです。自分の命は自由だと仲間に大見えを切ってきたというのに、死ぬこともできず、それでいて生きようとも思えないのです。生命に対する大いなる侮辱です。
「ならば死ぬ理由を教えてやろう。聖職者らしい無意味で自己満足の死だ。
神と崇めた仲間は全て死んだんだ。なら、最後の忠義を見せよ、殉死せよ。そのピストルで頭を打ち抜け」
すとんと悪魔の言葉が胸に落ちました。そうです。今こそ僕の最後の死場所なんじゃないかと気づきました。
無意味な死ですが、僕にとっては大きな意味があります。周囲もわかってくれるでしょう。僕が生きたとしてもきっと、碌でもない人生で生き恥を晒すのは目に見えています。
仲間の勇姿に僕が泥を塗るわけには行きません。
僕にも死んだ仲間にも有意義な命の使い所です。
足元に転がる拳銃に手に取ろうとかがみました。見たことのない拳銃であるところから、ドイツ兵の落としものだったのかもしれません。
あれほど、忌避していた銃は僕の手に吸い付くように手の中に収まりました。鋼鉄の感触が手のひらに伝わりました。周囲の冷気によって冷えた鉄の冷たさとは別に、手に取るものの熱を奪いとるような異質の冷たさを感じました。
子供が初めての玩具を見る時のように、おっかなびっくり、それでいて興味津々に手の内で拳銃を弄びました。
存外、銃を持ったことにショックを受けていない自分がいました。
硬い撃鉄を下ろし、引き金に指をかけました。銃を持つ手が震えて来ましたので、もう片方の手で震える腕を押さえて、こめかみに銃口を当てました。
ようやくこれで仲間の元へ行ける。少し遅刻をしてしまいましたが、仕事を十分に果たし、仲間の勇姿をその目に焼き付けた者もいます。
僕が仲間の誇りを守らずとも、あの姿を見た者たちは、敵味方関係なく永久に語り継がれるでしょう。仲間達は永遠の命を手に入れたのです。
不思議なもので、死の間際に僕の脳裏をよぎったのは、父でも母でも、郷愁溢れる故郷の景色でもありませんでした。ただ、空を切る弾丸と、轟音と共に破裂する砲弾、そして、死体が横たわる赤い塹壕でした。
呼吸一つ、引き金にかける指に力を込めました。




