第三十七話 【抜刀】
本丸老中・水野忠邦の使者が予告無しに霊岸島を訪れて以来、幕府が再び松栄院に接触を計る場合に備えて、右近は長十郎と共に霊岸島へ日参している。
右近と長十郎は朝方に霊岸島へ到着すると、そのまま夕刻まで留まり、常盤橋に戻ってから岡部左膳と互いの情報を交換するという日々である。
その日もいつもと同じ時間に、右近達は霊岸島から常盤橋への帰途に就いた。
だがそこから先はいつもと同じではなかった。
右近達が屋敷の門を出て越前堀を渡り、最初の角を曲がったところで、二人の行く手を遮るように、一人の男が立ち塞がっている。
二人は、その男の顔に見覚えがあった。
『富岡武兵衛!』
「待っておったぞ。」
武兵衛はニヤリと笑ったが、その目は殺気に満ちており、今にも刀を抜きそうな気配である。
右近の予想は悪い意味で当たった。
相手がここまで執拗に狙うとなれば、もはや対決は避けられない。
しかし右近はこの場を長十郎に任せる事を躊躇していた。
確かに剣技そのものは右近より長十郎の方が腕が立つ。
それ故長十郎には自らの剣技に驕るきらいがあり、右近はそこに危うさを感じていた。
右近はこの場を、剣技だけで全てが決まる訳ではない事を長十郎に示す好機と捉えた。
既に越前松平家の存続は決定している。
さらに継嗣についても、後は幕府の決定を待つだけであり、右近に思い残しは無い。
そして何より、侍としての右近の血が燃えていた。
御家の為とは言え、江戸に来てからの気遣いと駆け引き、更には付け届けという日々に飽き飽きしていたのだ。
「某がお相手しよう。」
右近の言葉は有無を言わせぬ迫力に満ちており、血気盛んな長十郎であっても逆らう事は出来ない。
「良かろう。まずはお主から料理してくれる。」
武兵衛は素早く草履を脱ぐと、抜刀する。
「長十郎、手を出すなよ。良く見ておれ。」
そう伝えた右近もまた遅れて抜刀し、いよいよ両者は対峙した。
斬り合いが始まろうとしている。
次回は9月17日(金)20時に公開予定です。




