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第三十六話 【賭け】

右近が常盤橋に戻ったのは(さる)(こく)(午後四時)を過ぎた頃である。


常盤橋では岡部左膳(さぜん)が右近の帰りを今か今かと待ち構えていた。


「ようやく戻ったか、右近。待っておったぞ。」


帰着(きちゃく)が遅くなり申した。(それがし)の留守中、何か御座いましたか?」


「あった。其方(そなた)が霊岸島に向かったのと入れ違いに、林肥後守(ひごのかみ)様からの使者が参ってな、驚くべき事を申したのだ。」


「驚くべき事とは如何(いか)なる事でございますか?」


「まず幕府に継嗣を選んで欲しいという当家の願いが認められたとの事。これで当家の存続は事実上決まりだ。それはそれで大変めでたい事なのだが、使者の話には続きがあってな。」


「続きとは?」


「それがな、継嗣を選ぶのは西ノ丸ではなく本丸の将軍家だと言うのだ。(すなわ)ち継嗣選定について林様は手を引かれた事になる。こちらにとっては寝耳に水の話だ。」


左膳(さぜん)の予想に反して、右近は全く動じていない。

むしろ右近の返答により、左膳(さぜん)が驚かされる事になる。


「ご家老の話で謎が解け申した。」


「謎が解けた・・・如何(いか)なる意味だ?」


「本丸老中、水野越前守(えちぜんのかみ)様からの使者は、今朝(こんちょう)松栄院(しょうえいいん)様の(もと)に参っておられます。」


「何と!誠か!?」


「たった今お聞きした事と、水野様の使者が申した事に(へだ)たりはございませぬ。よってこの(のち)、当家の相手となるのは水野越前守(えちぜんのかみ)様になり申す。」


「・・・何故(なにゆえ)そうなる?」


「分かりませぬ、しかしこれで此度(こたび)の事が林様も御承知である事が明らかになり申した。」


「せっかく林様と(よしみ)を結んだが、これで振り出しに戻ってしまったな。」


「そうとも限りませぬ。本丸の公方(くぼう)様と松栄院(しょうえいいん)様は特に親しき間柄、むしろ公方(くぼう)様が相手の(ほう)が当家にとっては望ましき相手かも知れません。」


「そうだと良いが・・・」


「それが証拠に、水野様の使者は当家継嗣について松栄院(しょうえいいん)様に何か希望はあるかと尋ねたとの事。」


左膳(さぜん)(にわか)に表情を硬くして、右近に確認する。


「一体松栄院(しょうえいいん)様は何と答えられたのだ?」


「・・・実は松栄院(しょうえいいん)様は継嗣候補の名前を出されました。」


岡部左膳(さぜん)驚愕(きょうがく)の表情で絶句した(のち)、ようやく言葉を発する。


「・・・名を聞かせてくれ。」


「御三卿(さんきょう)一角(いっかく)、田安徳川家の錦之丞(きんのじょう)様でござる。」


幕府に伝えられたのが御三卿(さんきょう)の一員と聞かされた左膳(さぜん)は、(わず)かに表情を(ゆる)める。


「田安家の錦之丞(きんのじょう)様とは()()()()()お方か、其方(そなた)は存じておるのか?」


錦之丞(きんのじょう)様は田安家の当主、徳川斉匡(なりまさ)様の八男で、十一歳になられます。ご家老の懸念(けねん)(もっと)もなれど、錦之丞(きんのじょう)様は年齢・健康・才覚の全てを備えた、当家に相応(ふさわ)しき若君と拝察(はいさつ)致しまする。」


右近の説明を聞いた左膳(さぜん)は、明らかに安堵(あんど)の表情を浮かべる。


「左様な方であったか、流石は松栄院(しょうえいいん)様だな。」


「しかし当家が錦之丞(きんのじょう)様を継嗣に迎えるには、大きな(さわ)りがございます。」


(さわ)りとは?」


錦之丞(きんのじょう)は現在、伊予(いよ)松山藩の継嗣と決まっております。」


「何だと!?それでは初めから無理ではないか。」


(それがし)もその様に考えておりました。されど松栄院(しょうえいいん)様のお考えは違っていたのです。」


「どの様に違っていたと言うのだ?」


松栄院(しょうえいいん)様は『幕府が継嗣を決めるという一事が、不可能を可能にする奇貨(きか)となる』と申されました。困難(こんなん)は承知の上で、あえて幕府に一石(いっせき)(とう)じられた様です。」


「確かに幕府であれば既にある養子縁組を反故(ほご)にする事は可能だが・・・()けだな。(あと)は幕府の判断次第か。」


「御意。幕府に名前が伝わってしまった以上、もはや後戻りは出来ませぬ。この上は幕府の沙汰(さた)を待つのみかと存じます。」


こうして越前松平家は()けに出る事になった。

徳川家慶(いえよし)による最終判断は間近に迫っている。

次回は9月10日(金)20時に公開予定です。

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