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第三十四話 【その名は錦之丞】

蛎殻(かきがら)町の密談から既に四日、それまで目立った動きが無かった常盤橋にも遂に変化が訪れようとしている。


この日右近は、岡部左膳(さぜん)(もと)に呼び出された。


左膳(さぜん)は挨拶もそこそこに本題を切り出す。


「右近、先程霊岸島から使者が参ってな、松栄院(しょうえいいん)様が其方(そなた)に話があるそうじゃ。」


「話とは書状の首尾を(ただ)されたいのでしょうか?」


「今は分からぬ。それを確かめるためにも、急ぎ霊岸島に向かうのだ。」


「御意。されば早速参りまする。」


一刻後、右近の姿は霊岸島にあった。


「椿右近、(おお)せにより参上致しました。」


「良く来てくれました。急に呼び出したのは他でもない、当家継嗣の事です。」


「と申されますと?」


「今朝、水野越前守(えちぜんのかみ)の使者を名乗る者がこちらに参った。」


「!」


「その者が申すには、幕府が当家の継嗣を選ぶ事が決したそうだ。その上で望みがあれば申せと言うのが使者の口上であった。」


越前松平家の仕置(しおき)を決するのは西ノ丸と確信していた右近にとって、その名前は予想外であった。


「使者は確かに水野越前守(えちぜんのかみ)殿の意を受けて来たと言われたのですな?」


「しかと()()耳で聞いた。間違いない。」


「左様でございますか・・・」


幕府の内部事情を知る(よし)も無い右近にとって、これは理解に苦しむ展開である。


『幕府の返答は予想通りだ。そして()()松栄院(しょうえいいん)様に伝えられるまでは良い。されど()()を伝えて来た相手が、水野忠邦(みずのただくに)の使者というのが()せぬ。何故(なにゆえ)今になって本丸老中が出てくるのだ?』


「浮かぬ顔をしているが、何か(うれ)(ごと)があるのか?」


松栄院は右近の表情に困惑の色を感じ取っている。


「いえ、幕府がそのように申すのであれば、これで当家の存続が決まった事になり申す。大変めでたき話かと存じます。」


「そうであろう。ならば何故(なにゆえ)もっと喜ばない?」


「実はご家老と(それがし)は、此度(こたび)の件について西ノ丸の林肥後守(ひごのかみ)様に仲介をお願いしておりました。それ故、返答があるとすれば、林様からの使者であるのが道理。されど実際にご返答を頂いたのは、本丸老中である水野越前守(えちぜんのかみ)殿からの使者になり申す。」


「それは確かに()せぬ。」


「御意。一体幕府で如何(いか)なる事が起こったのか、これは林様ご承知の事なのか、これらが明らかにならぬ限り、手放しに喜べません。」


「左様であったか・・・それから使者への返答なのだが、相談する(いとま)も無かった(ゆえ)其方(そなた)達には申し訳ないが継嗣の心当たりを一人伝えました。」


「その心当たりとは、一体どなたでございますか?」


「御三卿(さんきょう)の一つ、田安徳川家の錦之丞(きんのじょう)殿です。」


『徳川錦之丞(きんのじょう)・・・』


右近にとって、その名を聞くのは初めてではなかった。

次回は8月27日(金)20時に公開予定です。

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