第二十五話 【目通り】
「椿右近?初めて聞く名よな。」
岡部左膳からの書状を読み終えた松栄院の問いに対し、奥向女中が曖昧に返答する。
「普段は国元暮らしのため、江戸にはいないとか。」
「そのような者が江戸の事情に通じているとは思えぬが・・・」
「お断りしますか?」
ところが松栄院は首を横に振る。
「この書状には椿右近の事を『大変役に立つ』と書いてあります。どの様な者か、会って確かめましょう。」
「畏まりました。」
松栄院はこの時三十五歳、落飾前の文政二年に浅姫として松平越前守斉承に嫁してより、この霊岸島を住居にしている。
それから二十年近くが過ぎ、今や霊岸島の女主人とも言える松栄院は、奥向女中を従えて表の大広間に移動すると、そこで右近と相対した。
右近は平伏し、口上を述べ伝える。
「某は国元で御所院番を拝命している椿右近と申します。此度は松栄院様のご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます。」
「福井より遠路はるばるよくぞ来られた。其方、江戸は初めてと聞いたが?」
「御意、江戸には昨日到着したばかりです。」
それは松栄院にとって予想通りの返答である。
『やはり江戸は初めてか・・・ならば岡部左膳は、何故この男を推挙する?』
「其方と左膳は旧知の仲なのか?」
「いえ、ご家老と親しくお話ししたのは、昨日が初めてです。」
『益々分からぬ・・・二人が旧知の仲でないとすれば、岡部左膳はたった一日でこの男に才ありと見切ったとでも言うのか?』
松栄院は自身の内心を一切表情に出さないまま、話を続ける。
「左膳に頼まれていた兄上への書状は既に書き終えています。」
松栄院の言葉を受けて、傍らに控えていた奥向女中が右近に書状を差し出す。
「お預かりします。」
そう言いながら右近は受け取った書状を一向に仕舞おうとしない。
『どういうつもりか?』
松栄院は右近の振る舞いを不審に思いつつも、その場では指摘しない。
「これから如何するつもりです?」
「まずはお預かりした書状を幕府に届けます。」
「そのために書いたのだから、そうであろう。尋ねているのはその先です。」
「幕府に書状を届けた後は、こちらから動く事は暫く控えまする。」
「何と!何もしないと申すか。其方本気か?」
「御意、こういった事は闇雲に動けば良いというものでもございません。そもそも我等陪臣は殿中への立ち入りを許されておりません。」
「さればどうする?」
「まずこれまでの幕府の動きを見る限り、幕府は構えて当家の改易を望んでいないと思われます。もし幕府がそのつもりなら、今頃は沙汰が下っておりまする。今に至るも返答が無いというのは、幕府が当家への仕置に迷っている何よりの証かと存じます。」
「幕府は何に迷うていると言うのだ?」
「ご定法です。此度の事は定法に従えば、当家を改易せざるを得ません。もし定法を曲げてまで当家の存続を許したとなれば、今後も同じような扱いを求める者が続出するは必定。それ故幕府は決めかねているのでしょう。」
「続けよ」
松栄院は右近の話に次第に引き込まれて行く。
「そうであるなら、当家の改易を反故にするだけの正当な理由があれば良いのです。」
「そんなものが有るのか?」
「ございませぬ。されど無いものは作れば良いだけの事。」
「・・・其方、一体何を考えておる。」
話が核心に迫っている事を直感した松栄院は緊張した面持ちで、身動ぎもせずに右近の次の言葉を待った。
用語解説
【陪臣】
家臣のそのまた家臣の事を指す。
将軍や大名の直接の家臣である「直臣」の対語。
越前松平家を始めとした大名は、厳密には将軍の家臣ではないが、この場合「将軍家の直臣ではない」という意味で使われている。
次回は6月25日(金)20時に公開予定です。




