第十五話 【伊崎長十郎】
「こちらも殊の外難儀しておる。」
「難儀とは如何なる?」
「実は此度の事で幕閣に直訴するなどと息巻く者が江戸詰めの中に居るのだ。」
「幕閣に直訴!?、それはまた無謀な・・・」
「左様、幕府から下されたご沙汰に対して直訴すると言うならともかく、何一つ決まっていない今、直訴に及ぶなど、百害あって一利なしではないか。」
「御意。そこまで見通されていながら何故止めないのですか?」
「そうしたいのは山々なれど、頭ごなしに抑えつければ、却って反発を強めて本当に直訴に及ぶかもしれぬ。そうなってはこちらの苦労が水の泡だ。更に困った事には、若い藩士の中に直訴に賛同する輩が日増しに増えているのだ。ここでもし直訴衆を厳しく処断すれば江戸詰めの意見が真っ二つに割れてしまう。」
「確かに難儀ですな・・・」
「おまけに直訴衆の首謀者は、直訴が聞き入れられなければ、江戸城の大手門で腹を切るなどとたわけた事を申しておる。それで当人は満足かもしれぬが、そんな事をされたら福井藩の改易は決定だ。全くどうにも手に負えぬ。」
左膳は心底困り果てたという表情で、右近に窮状を訴える。
「ところで直訴衆の首謀者とは誰なのですか?」
「徒士組の若手でな、名を伊崎長十郎と申す。」
「!!」
その名を聞いた右近は驚愕した。
伊崎長十郎
背は右近よりも頭一つ高い偉丈夫で、新影幕屋流免許皆伝の剣豪でもある。
長十郎とは国元での家も近く、遠縁にあたる伊崎家と椿家は親の代からの付き合いである。
右近は長十郎の元服前より何かと面倒を見ており、長十郎もまた七つ年上の右近を兄のように慕っていた。
そして右近が江戸で真っ先に助力を頼もうと考えていたのが、他ならぬ長十郎であったのだ。
右近は自信に満ちた口調で左膳に注進する。
「ご家老、某は伊崎長十郎を良く存じております。此度の件、某にお任せ頂きたい。」
「それは誠か!?是非頼む!」
左膳の返答は、もはや懇願に近かった。
用語解説
【徒士】
合戦の際に馬ではなく徒歩で戦う武士の事
【偉丈夫】
心身共に優れた男の事
【新影幕屋流】
新陰流を祖とする福井藩伝統の剣術流派の事
次回は4月16日(金)20時に公開予定です。




