魔女狩りのメシア⑩
自分の目指した希望の道はもう、消えてしまったのか?
そんなはずはない。
この小さな拳でも掴めるはず。
この小さな足でも歩けるはず。
今まで目を瞑って、見ない振りをしていた世界の歪な秩序。
こんな理不尽な秩序なんて、ぶち壊してやるんだ。
あたしが変えてみせるんだ。
希望の道を諦めてしまうのは、生きることを否定することと同じ。
死ぬことと同じだから。
ジュェンはつい最近まで一緒に暮らしていた家族の顔を思い出す。
おっとりして、ちょっと怠け者なところがあるけど、とても優しい父さん。
反対にせっかちで、気が強くて怖いことも多かったけど、大切に愛してくれた母さん。
父さんや母さんにそっくりな顔で、いつも元気に笑っていた妹たち。
歳の離れた、まだ学校にも行ってなかった小さな末っ子の弟。
家族全員でにぎやかに囲んだ食卓。
あの平穏だった日々はもう、二度と帰ってこない。
大切な家族を、故郷を奪った仇である男。
その仇敵の前で膝をつく屈辱は、ジュェンの心に更なる大きな火をくべた。
嵐を操るこの男の魔法はもう、絶対に使わせる訳にはいかない。
もうこれ以上、何の罪もない、他所の国の戦争に関係ない人たちが巻き込まれるなんて、不幸な目に合わせるなんて絶対に許さない。
自分のような思いをする人間はもう、出したくないんだ。
でも、この男は魔法を使うのを止めない。
世界の秩序は、魔女を使うことを止めない。
だったら、やはり殺すしかない。
どんな手を使ってでも。
この世界を蝕む魔女なんて、全部いらない!
ジュェンが消えたのを見て、再び飛騨は戦闘の構えを取る。
臨機応変な対応のし易い中段に刀を構え、辺りの気配を伺う。
頬を伝う汗と血が、飛騨の制服を汚していった。
数秒の時がたってから、背後に人の気配を感じた飛騨は体ごと振り返る。
「動くな!!!」
振り向いた飛騨に浴びせられる、鬼気迫る少女の声。
その言葉はベトナム語で、飛騨には理解できなかった。
だが、現れた少女の姿を見て、先程の叫び声が何を意味するのかを察することはできた。
飛騨の後ろから少し離れた場所で、ずっと気を失って倒れていた川崎の横に座り、彼女の喉元にナイフの先端を突き付けていた。
その光景に、飛騨の眉間の皴が強く、深く刻まれる。
「……救世主が……聞いて呆れる。
こんな姑息な手を使うとはな」
普段の彼からは決して出ない、吐き捨てるような荒い声。
内心とは裏腹に、これまでずっと理性と平静を保ち続けた飛騨の瞳にも、ついぞ押さえきれない怒りの炎が込み上げる。
少女は龍の逆鱗に触れた。
川崎の喉元に突き付けたナイフを持っていない左手で、ジュェンは背中のリュックを探る。
出て来たのは、透明な液体が入った瓶とライター。
口を使って瓶の蓋を開けると、瓶の口に布ようなもので栓がされているのがちらりと見えた。
色からして恐らく中身の液体は灯油。
火をつけれて投げれば簡易な焼夷弾になる。
つまり火炎瓶だ。
ジュェンは瓶の口に詰められた布を抜き、中身を川崎の体に振りかける。
そして左手のライターを点火し立ち上がる。
いつでもこの女を火達磨にできるぞ、という脅しであった。
少女はゆっくりと川崎から離れ、飛騨に歩み寄って行く。
言葉は発しないが、その行動が、その目が、彼女の言いたい事を飛騨に伝える。
飛騨もまた、言葉を発する事無く、少女を見据えた両の目に憤怒の光を湛え、右手に掴んでいた愛刀を手放す。
刀が床に落ち、ゴトンと鈍い音を立てると、それを合図とばかりにジュェンは走り出す。
その様子を目に捉えた次の瞬間、飛騨の左胸に激痛が走る。
ジュェンの助走をつけた刺突の勢いと痛みに、飛騨はそのままの態勢で少女もろとも後ろに倒れた。
左胸を刺されたが、即死はしていない。
心臓には届かず、肋骨に当たったか。
分厚い外套と勲章のついた将官の制服も、多少は防弾ベストの役割を果たしてくれただろうか。
ナイフの刺さった部分の肋骨が折れたのか、ズキンズキンと灼熱を伴う鈍い痛みが骨に響く。
川崎へ危害を加えられないこの距離まできた少女を捕まえたいが、胸の痛みと倒れた衝撃で腕が痺れ、思うように動かない。
飛騨の胸にナイフを刺したまま、ジュェンは上半身を起こす。
馬乗りになる形で、少女は小さな拳を振り上げた。




