第98話 橘美月は負けず嫌い
第98話 橘美月は負けず嫌い
「怜司! こっちこっち!」
日曜日の午前。
市営総合運動公園の入口で、橘美月が大きく手を振っていた。
「おはよう、美月さん」
「おはよ!」
美月は満面の笑みで駆け寄ってきた。
今日は、以前約束していたスポーツの日だ。
軽いランニングをして、その後は公園内の運動施設を利用する予定になっている。
美月は動きやすいスポーツウェア姿だった。
いつもより高い位置で結んだ髪が、元気よく揺れている。
「怜司、ちゃんと運動できる格好で来たね」
「もちろん。美月さんに誘ってもらったから」
「へへっ、よろしい!」
美月は得意そうに笑った。
だが、次の瞬間。
彼女は怜司をじっと見つめた。
「……ねえ」
「何?」
「また、ちょっと変わった?」
「え?」
「なんかさ、前より身体が締まってない?」
怜司は自分の腕を見下ろした。
「……そうかな」
「そうだよ!」
美月は遠慮なく言った。
「肩とか背中とか、前よりしっかりしてる」
実際、《完全適応》による身体の変化は、今も続いていた。
ただ体重が落ちるだけではない。
姿勢。
筋肉の使い方。
動作の無駄。
それらが、少しずつ整えられている。
もちろん、怜司自身も運動を続けていた。
能力に任せて何もしないのではなく、学んだ身体の使い方を日常の中で確かめている。
「最近、走るのが楽になった気はするかな」
怜司が答えると、美月はにやりと笑った。
「ほほう?」
「……何?」
「じゃあ、今日はちょっと本気出してもいいってこと?」
「え?」
「勝負!」
美月は勢いよく指を差した。
「まずは、ランニングコース一周!」
怜司は苦笑した。
「いきなり?」
「もちろん、準備運動してからね!」
美月は笑った。
「怪我したら意味ないし!」
怜司も笑顔で頷いた。
「分かった。よろしくお願いします」
◇
準備運動を終え、二人はランニングコースへ向かった。
公園内には、休日を楽しむ家族連れや、練習に励む学生たちの姿がある。
「じゃあ、最初は軽くね」
美月が言う。
「うん」
二人は並んで走り始めた。
最初の数分は、会話をしながらのゆっくりしたペースだった。
「そういえば、怜司」
「何?」
「最近、勉強も頑張ってるんだって?」
「うん。経営とか、会計とか」
「へえ!」
美月は驚いた。
「なんか大人っぽいことしてるね」
「まだ、全然分からないことばかりだけど」
「でも、すごいじゃん」
美月は笑った。
「私は数字ばっかり見てたら眠くなりそう」
「僕も前はそうだったよ」
「本当?」
「うん。でも、何のために勉強するか分かると、少し面白くなるんだ」
美月はしばらく考えた。
「……なるほどね」
そして、楽しそうに笑った。
「じゃあ私も、走る意味を教えてあげよう!」
「走る意味?」
「そう!」
美月は少しだけペースを上げた。
「速く走るだけじゃなくて、自分の身体が思った通りに動くようになるのが楽しいんだよ!」
怜司は隣を走りながら頷いた。
「……分かる気がする」
以前は、少し走っただけで息が切れていた。
身体が重く、思ったように動かなかった。
けれど今は、地面を蹴る感覚が違う。
呼吸が安定し、身体が自然に前へ進む。
それが、純粋に楽しかった。
◇
「よーし!」
一周を終えた美月が、勢いよく振り返った。
「じゃあ、次は短い距離で勝負!」
「本当に勝負するの?」
「当たり前!」
美月は笑った。
「でも、手加減は禁止ね!」
怜司は少し困った。
自分の身体能力は、以前とは比べものにならないほど高まっている。
全力で走れば、どの程度の速度が出るのか。
それを、一般の運動施設で試すつもりはなかった。
「じゃあ、フォームを意識して走ってみようかな」
「いいね!」
美月は頷いた。
「勝ち負けだけじゃなくて、動きを見てあげる!」
短い距離を、二人は何度か走った。
美月は一歩目の反応が鋭い。
腕の振りも大きく、地面を蹴る動作に迷いがない。
怜司はその動きを観察した。
そして、自分でも試してみる。
無理に力を入れず、身体の軸を保つ。
足を前へ投げ出すのではなく、地面を後ろへ押す。
「……あ」
走り終えた怜司が、思わず声を漏らした。
「どうした?」
「今、すごく走りやすかった」
美月は嬉しそうに笑った。
「でしょ!」
彼女は怜司の横へ並んだ。
「さっきより、肩の力が抜けてたよ」
「本当?」
「うん。あと、目線も安定してた」
怜司は感心した。
「……美月さん、よく見てるね」
「そりゃあね!」
美月は胸を張った。
「私、走るの大好きだから!」
怜司は笑った。
「すごいな」
「……えへへ」
美月は少し照れた。
褒められることには慣れている。
陸上部でも、後輩たちから頼りにされている。
けれど、怜司に褒められると、なぜかいつもより嬉しかった。
◇
昼前。
二人は公園内のベンチで休憩していた。
自動販売機で買った飲み物を手に、木陰で風に当たる。
「いやー、楽しかった!」
美月が笑う。
「僕も」
怜司は頷いた。
「美月さんに教えてもらうと、分かりやすいね」
「本当?」
「うん。何を意識すればいいか、はっきりするから」
美月は満足そうに微笑んだ。
「よかった!」
しばらく、二人は周囲を眺めていた。
小さな子供が、父親と一緒にボールを追いかけている。
少し離れた場所では、家族連れが芝生にシートを広げていた。
穏やかな休日だった。
「……ねえ、怜司」
美月が口を開く。
「何?」
「最近さ、九条院さんとか西園寺さんと、よく出かけてるんでしょ?」
怜司は少し驚いた。
「うん。そうだけど」
「……楽しい?」
「うん。すごく」
即答だった。
美月の胸が、ちくりと痛んだ。
別に、悪いことではない。
九条院澪も、西園寺麗華も、いい人だ。
怜司と仲良くすることに、文句を言う理由なんてない。
それなのに。
どうして、こんなに気になるのだろう。
「……そっか」
美月は笑った。
けれど、少しだけ声が小さくなった。
怜司が首を傾げる。
「美月さん?」
「ん?」
「どうかした?」
「……別に!」
美月は慌てて笑った。
「ただ、人気者だなーって思っただけ!」
「そんなことないよ」
怜司は苦笑する。
「僕なんて、まだまだだし」
「……そういうところだよ」
「え?」
「何でもない!」
美月は飲み物を一口飲んだ。
胸の奥が、少し落ち着かない。
◇
午後は、軽くボールを使った運動をすることになった。
美月が持参した柔らかいボールを、二人で投げ合う。
「いくよー!」
「うん!」
美月の投げたボールを、怜司が受け止める。
次は怜司が投げ返す。
最初は普通のキャッチボールだった。
だが、美月は途中から少しずつコースを変え始めた。
「ほいっ!」
右へ。
「次!」
左へ。
怜司は素早く反応し、ボールを受け止める。
「……えっ」
美月が目を丸くした。
「今のも取るの?」
「うん?」
「いや、結構意地悪なところに投げたんだけど!」
怜司は笑った。
「ちょっと見えたから」
「……ちょっと?」
美月はじっと彼を見つめた。
以前の怜司なら、こんな動きはできなかったはずだ。
反応が速い。
足運びに無駄がない。
何より、身体のバランスが崩れない。
「……怜司って、ほんと変わったよね」
美月が呟く。
怜司は少し照れた。
「そうかな」
「うん」
美月は頷いた。
「でもさ」
「何?」
「昔の怜司も、別に嫌いじゃなかったよ」
怜司は目を見開いた。
「……え?」
美月は少しだけ視線を逸らした。
「今みたいに運動できなくても、ちゃんと人のこと考えてたし」
彼女は小さく笑った。
「研究のときだって、子供たちのこと一番気にしてたじゃん」
怜司は黙って聞いていた。
「そういうところ、いいなって思ってた」
言ってから、美月は自分の言葉に気づいた。
「……あっ」
顔が熱くなる。
「い、いや! 変な意味じゃなくて!」
怜司は優しく笑った。
「ありがとう、美月さん」
その笑顔を見た瞬間。
美月の心臓が、大きく跳ねた。
……ああ。
そういうことか。
胸の奥で、何かが静かに形を持った。
◇
帰り道。
二人は公園の出口まで並んで歩いた。
「今日はありがとう」
怜司が言う。
「こちらこそ!」
美月は笑った。
「また一緒にやろうね!」
「うん。ぜひ」
別れ際。
美月は思わず怜司を呼び止めた。
「……怜司!」
「何?」
振り返った彼を見て、言葉が詰まる。
本当は、もう少し一緒にいたい。
次は運動じゃなくてもいい。
そう言いたかった。
けれど、まだ勇気が出なかった。
「……また、連絡する!」
結局、そう言うのが精いっぱいだった。
怜司は笑顔で頷いた。
「うん。待ってる」
その言葉に、美月は胸がいっぱいになった。
◇
帰宅後。
美月はベッドへ倒れ込んだ。
「……あー、もう!」
枕へ顔を埋める。
何だろう、この気持ちは。
九条院澪と出かけたと聞くと、落ち着かない。
西園寺麗華と二人で過ごしたと聞くと、胸がざわつく。
怜司に褒められると、嬉しい。
笑ってもらえると、もっと嬉しい。
そして、別れたばかりなのに、もう会いたい。
「……これって」
美月はゆっくり顔を上げた。
答えは、もう分かっていた。
「……好きなんだ」
声に出した瞬間、頬が熱くなった。
橘美月は負けず嫌いだ。
走ることでも、勝負でも、簡単に諦めたくない。
けれど、恋愛はスポーツとは違う。
勝ったからといって、相手の心が手に入るわけではない。
それでも。
「……何もしないで終わるのは、嫌だな」
美月はスマートフォンを手に取った。
怜司とのメッセージ画面を開く。
少し迷った後、文字を打った。
『怜司! 今日は楽しかった! 今度は運動じゃなくて、普通に遊びに行かない?』
送信。
「……送っちゃった!」
美月は再び枕へ顔を埋めた。
しばらくして、スマートフォンが震える。
『僕も楽しかったよ。もちろん! どこに行こうか?』
美月は画面を見つめた。
そして、思わず笑った。
「……よし!」
小さく拳を握る。
まだ、恋の勝負は始まったばかり。
けれど、橘美月はようやく、自分の本当の気持ちを認めることができたのだった。




