第97話 藤宮詩織の小さな勇気
第97話 藤宮詩織の小さな勇気
土曜日の午前十時。
藤宮詩織は、市立図書館の入口前で小さく深呼吸をしていた。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせる。
今日は、黒瀬怜司と二人で勉強する約束をしている。
学校の図書室では、何度も一緒に本を読んだ。
けれど、休日に二人きりで会うのは初めてだった。
それだけで、胸が落ち着かない。
詩織はスマートフォンの画面を確認した。
待ち合わせまで、あと十分。
少し早く着きすぎてしまった。
「……服、変じゃないかな」
薄い水色のブラウスに、落ち着いた色のスカート。
派手ではない。
けれど、いつもより少しだけ時間をかけて選んだ服だった。
髪も丁寧に整えている。
黒瀬君は、気づいてくれるだろうか。
そう考えた瞬間、顔が熱くなった。
「……何考えてるんだろう、私」
詩織は小さく首を振った。
勉強をするために来たのだ。
それなのに、朝から服装のことばかり気にしている。
そんな自分がおかしくて、少しだけ笑ってしまった。
「詩織さん!」
声が聞こえた。
顔を上げると、怜司がこちらへ歩いてくるところだった。
「おはようございます」
詩織が頭を下げる。
「おはようございます。待たせちゃいましたか?」
「いえ。私も、今来たところです」
言ってから、少しだけ後ろめたくなった。
本当は、十五分近く前から待っていた。
けれど、そんなことを知られたら、余計に緊張してしまいそうだった。
怜司は柔らかく笑った。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ……」
そして、怜司が少し首を傾げた。
「……あれ?」
「え?」
「今日の服、すごく似合ってますね」
詩織の思考が止まった。
「……えっ」
「学校で見る雰囲気と違って、いいなって」
怜司は何気なく言った。
だが、詩織にとっては何気ない言葉ではなかった。
気づいてくれた。
しかも、似合っていると言ってくれた。
「……あ、ありがとうございます」
声が小さくなる。
怜司は微笑んだ。
「じゃあ、入りましょうか」
「……はい」
詩織は俯きながら、その隣を歩いた。
頬の熱は、しばらく引きそうになかった。
◇
図書館の学習スペースは、静かな空気に包まれていた。
二人は並んで座り、それぞれ持参した本を開いた。
怜司が勉強しているのは、経営と会計の基礎。
詩織は学校の課題を進めながら、時折彼の質問に答えていた。
「……詩織さん」
「はい」
「この固定費って、売上がなくてもかかるお金のことですよね?」
「そうです。例えば、家賃などですね」
「じゃあ、商品を売るたびに増える費用は?」
「変動費です」
「なるほど……」
怜司はノートへ書き込んだ。
詩織はその横顔を見つめる。
真剣な目。
分からないことを、恥ずかしがらずに聞く姿勢。
説明を聞くと、必ず礼を言ってくれるところ。
そんな一つ一つが、彼女には好ましかった。
「……黒瀬君」
「はい?」
「どうして、そんなに頑張れるんですか?」
怜司は少し驚いた。
「え?」
「最近、勉強も運動も、すごく頑張っていますよね」
詩織は静かに続けた。
「何か、理由があるのかなって」
怜司はしばらく考えた。
「……そうですね」
そして、少し照れくさそうに笑った。
「前の自分が、あまり好きじゃなかったからかもしれません」
詩織は黙って耳を傾けた。
「何かを始める前から諦めてばかりで。できない理由を探すのが、癖になってたんです」
「……」
「でも、今は少し違うんです」
怜司はノートを見つめた。
「昨日よりできることが増えたら、嬉しいなって」
詩織の胸が、静かに締めつけられた。
彼が以前、つらい思いをしていたことは知っている。
けれど、その苦しみをすべて理解できているわけではない。
だから、簡単な慰めを言うつもりはなかった。
「……黒瀬君」
「はい?」
「私は、今の黒瀬君が素敵だと思います」
怜司が目を見開いた。
詩織は勇気を出して続けた。
「でも、前の黒瀬君が、全部駄目だったわけじゃないと思うんです」
「……え?」
「だって、今の優しい黒瀬君は、突然生まれたわけじゃないでしょう?」
怜司は言葉を失った。
「きっと、前から持っていたものも、たくさんあると思います」
詩織は小さく微笑んだ。
「だから……あまり、昔の自分を嫌わないであげてください」
しばらく、沈黙が流れた。
怜司はゆっくりと視線を落とした。
昔の自分。
太っていて、運動も苦手で、いじめられていた頃の自分。
何もできないと思い込んでいた少年。
あの頃の自分に、価値なんてないと思っていた。
けれど、詩織は違うと言ってくれた。
「……ありがとうございます」
怜司は静かに笑った。
「そんなふうに言ってもらえたの、初めてかもしれません」
詩織の胸が温かくなる。
「……よかったです」
その後、二人はしばらく言葉を交わさず、同じ机で本を読んだ。
けれど、その静けさは以前よりずっと親密なものに感じられた。
◇
昼になり、二人は図書館近くのカフェへ移動した。
「何にしますか?」
怜司がメニューを差し出す。
「……私は、サンドイッチにします」
「じゃあ、僕もそれにしようかな」
「黒瀬君は、もっと食べなくて大丈夫ですか?」
「え?」
「最近、運動もしているみたいなので」
怜司は少し笑った。
「確かに、前よりお腹が空くようになりました」
結局、怜司はサンドイッチに加えてスープも注文した。
食事が運ばれてくると、詩織はほっとしたように微笑んだ。
「……よかった」
「何がですか?」
「ちゃんと食べてくれて」
怜司は驚いた。
「そんなに心配してくれてたんですか?」
「……少しだけ」
詩織は俯いた。
本当は、少しどころではない。
以前より痩せて、顔つきも変わってきた怜司。
その変化が健康的なものなのか、時折心配になる。
「ありがとうございます」
怜司は優しく笑った。
「無理な食事制限はしてないので、大丈夫ですよ」
詩織は安心した。
「……それなら、よかったです」
食事をしながら、話題は学校生活へ移った。
好きな本。
得意な科目。
苦手なこと。
休日の過ごし方。
詩織は、自分が昔から人前で話すのが苦手だったことを打ち明けた。
「大勢の前に出ると、頭が真っ白になってしまうんです」
「研究発表のときは、すごく落ち着いて見えましたよ」
「……練習したんです」
詩織は少し笑った。
「皆さんに迷惑をかけたくなかったので」
「迷惑なんて思ってませんよ」
怜司は即座に答えた。
「詩織さんがまとめてくれた資料、すごく助かりました」
「……本当ですか?」
「はい。僕一人じゃ、あんなに分かりやすくできなかったと思います」
詩織は嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
怜司は首を振った。
「お礼を言うのは、僕の方です」
その言葉に、詩織はまた頬を赤くした。
◇
午後。
図書館へ戻った二人は、残りの勉強を進めた。
予定していた範囲が終わった頃には、窓の外が少しオレンジ色に染まり始めていた。
「……終わりましたね」
詩織が言う。
「はい。おかげで、かなり理解できました」
怜司はノートを閉じた。
「今日は本当にありがとうございました」
「いえ……」
詩織は少し迷った。
このまま帰れば、今日の時間は終わる。
それが、少し寂しかった。
もっと話したい。
もっと一緒にいたい。
けれど、その気持ちを言葉にするのは怖い。
断られたらどうしよう。
迷惑だと思われたらどうしよう。
そんな考えが浮かぶ。
だが、ふと怜司の言葉を思い出した。
『昨日よりできることが増えたら、嬉しいなって』
詩織は小さく息を吸った。
「……黒瀬君」
「はい?」
「次は……」
声が震える。
それでも、続けた。
「次は、勉強じゃなくても、一緒に出かけてみたいです」
怜司は目を瞬かせた。
「勉強じゃなくて?」
「はい」
詩織は勇気を振り絞った。
「本屋さんとか、映画とか……」
言葉が途切れる。
胸の鼓動がうるさい。
「……私と、一緒に」
怜司はしばらく彼女を見つめた。
そして、柔らかく笑った。
「もちろんです」
詩織が顔を上げる。
「……本当ですか?」
「はい。今日も楽しかったですし」
怜司は少し照れくさそうに続けた。
「詩織さんと、もっといろんな話をしてみたいです」
その瞬間。
詩織の胸に、温かなものが広がった。
「……はい!」
思わず、大きな声が出てしまった。
図書館の静かな空気を思い出し、慌てて口元を押さえる。
怜司は小さく笑った。
詩織も、つられて笑った。
◇
帰り道。
二人は駅まで並んで歩いた。
夕方の風が、少しだけ涼しい。
「今日は、本当にありがとうございました」
詩織が言う。
「こちらこそ」
怜司は微笑んだ。
「また連絡しますね」
「……はい」
改札の前で別れ、詩織は電車へ乗り込んだ。
窓際の席に座ると、そっと胸元に手を当てる。
まだ、心臓が速く動いていた。
「……言えた」
小さく呟く。
好きだとは、まだ言えなかった。
けれど、自分から次の約束をお願いできた。
それだけでも、詩織にとっては大きな一歩だった。
スマートフォンが震える。
怜司からのメッセージだった。
『今日はありがとうございました。次のお出かけも楽しみにしてます』
詩織は画面を見つめた。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
『私も楽しみにしています』
送信する。
窓の外を流れる景色が、いつもより明るく見えた。
藤宮詩織の小さな勇気。
それは、彼女自身の世界を、確かに変え始めていた。




