第96話 数字が教えてくれたこと
第96話 数字が教えてくれたこと
月曜日の夜。
黒瀬怜司は、自室の机に向かっていた。
開いているのは数学の教科書ではない。
経営の入門書と、一冊のノート。
そこには、異世界ルミエールで行った菓子の試験販売について、細かな数字が書き込まれていた。
「……売れたから成功、ってわけじゃないんだよな」
怜司はシャープペンシルを回しながら呟いた。
最初に用意したのは、三種類の菓子、合計六十個。
包装が美しい焼き菓子。
手軽に食べられる飴。
そして、甘さを抑えた小さな菓子。
どれも日本では珍しくない。
だが、ルミエールでは初めて見る商品として興味を持たれた。
問題は、その先だった。
何個売れたか。
いくらで売れたか。
仕入れにいくらかかったか。
ベルン商会への手数料を差し引くと、いくら残るのか。
さらに、売れ残りはどうするのか。
トーマスから受け取った帳簿をもとに計算してみると、想像していたより利益は小さかった。
「……商売って、難しいな」
だが、その声は不満ではなかった。
むしろ、少し楽しそうですらあった。
かつての怜司なら、難しい数字を見た時点で投げ出していただろう。
何をやっても上手くいかない。
どうせ自分には無理だ。
そんな考えが、いつも先に立っていた。
けれど今は違う。
分からないことがあるなら、学べばいい。
できないことがあるなら、練習すればいい。
その積み重ねが自分を変えることを、怜司は知っていた。
◇
「お兄ちゃん、まだ起きてる?」
扉の向こうから、陽菜の声がした。
「起きてるよ」
「入っていい?」
「うん」
扉が開き、妹がひょこりと顔を出した。
「何してるの?」
「ちょっと計算」
「えー、夜まで勉強?」
陽菜は机の上を覗き込んだ。
「……うわ、数字いっぱい」
「そんなに難しくないよ」
「お兄ちゃんがそう言うの、なんか変」
「ひどいな」
二人で笑う。
陽菜は机の横に立ったまま、ノートを眺めていた。
「これ、お店の計算?」
「まあ、そんな感じ」
「お兄ちゃん、お店やるの?」
怜司は少し考えてから答えた。
「いつか、何か自分でできたらいいなと思ってる」
「へえ!」
陽菜の目が輝く。
「じゃあ、ケーキ屋さん?」
「どうしてケーキ屋さん?」
「私が食べられるから!」
「それが目的か」
思わず笑ってしまう。
陽菜も楽しそうに笑った。
そして、不意に真面目な顔になった。
「でもさ、お兄ちゃん」
「うん?」
「最近、前よりずっと楽しそうだよね」
怜司の手が止まった。
「……そうかな」
「うん。前は部屋にいるとき、あんまり笑ってなかったもん」
何気ない言葉だった。
けれど、怜司の胸に静かに響いた。
妹は、ちゃんと見ていたのだ。
自分が苦しんでいた頃のことも。
少しずつ変わっていく姿も。
「……心配かけたね」
怜司が言うと、陽菜は首を振った。
「今が楽しそうなら、いいよ」
そして、いつもの調子で笑った。
「でも、ケーキの約束は忘れないでね!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい」
陽菜は満足そうに頷き、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
怜司はしばらく、その方を見つめていた。
「……頑張ろう」
小さく呟く。
大切な人が笑ってくれる。
それだけで、努力する理由としては十分だった。
◇
翌日の放課後。
怜司は聖蘭学園の図書室で、藤宮詩織と向かい合っていた。
「黒瀬君、前に話していた本、読んでみましたか?」
「はい。でも、ちょっと分からないところがあって」
怜司が開いたページを見せると、詩織は椅子を少し寄せた。
「どこですか?」
「ここです。利益が出ていても、お金が足りなくなることがあるって……」
「ああ、資金繰りですね」
詩織は頷いた。
「例えば、商品をたくさん仕入れたら、その時点でお金が必要になりますよね」
「はい」
「でも、売れるのは後かもしれません。しかも、全部売れるとは限りません」
怜司は考え込んだ。
「……つまり、帳簿上では儲かる予定でも、支払いが先に来たら困るってことですか?」
「そうです」
詩織は嬉しそうに微笑んだ。
「黒瀬君、理解が早いですね」
「詩織さんの説明が分かりやすいんですよ」
「……っ」
詩織の頬が赤くなった。
怜司はそれに気づかず、ノートへ書き込んでいる。
「じゃあ、売れるか分からないうちは、仕入れを増やしすぎない方がいいんですね」
「はい。それから、予備のお金も必要です」
「なるほど……」
怜司は真剣に頷いた。
異世界で実際に商売をしているとは言えない。
けれど、学んだことがそのまま役に立つのは確かだった。
「……すごく勉強になります」
詩織は彼の横顔を見つめた。
以前の黒瀬君は、どこか自分に自信がなさそうだった。
けれど今は、分からないことにも積極的に向き合っている。
その姿が、彼女には眩しく見えた。
「……黒瀬君」
「はい?」
「今度の図書館の約束、覚えていますか?」
「もちろんです」
怜司は笑った。
「楽しみにしてます」
詩織の胸が跳ねた。
「……私も、です」
彼女はそっと本へ視線を戻した。
文字が、少しだけ頭に入らなくなっていた。
◇
その夜。
怜司は《界渡り》を使い、ルミエールへ向かった。
ベルン商会では、トーマスが待っていた。
「レイジさん。ちょうどよいところへ」
「何かありましたか?」
「前回の商品を購入したお客様から、感想が届いております」
怜司は身を乗り出した。
「本当ですか?」
「ええ。こちらをご覧ください」
トーマスが差し出した紙には、商品ごとの反応がまとめられていた。
包装の美しい焼き菓子は、贈答品として評価が高い。
飴は、子供のいる家庭や旅人に好評。
一方、甘さを抑えた菓子は、珍しさこそ評価されたものの、価格に対する満足度が低かった。
「……なるほど」
怜司は数字を見つめた。
「次は、飴を少し増やした方がいいのかな」
「それも一つの考えです」
トーマスが頷く。
「ただし、人気があったからといって、急に十倍仕入れるのは危険ですぞ」
「はい。資金繰りもありますし」
トーマスが目を細めた。
「……ほう?」
「売れるまでに時間がかかるかもしれませんから。手元のお金を全部使うのは避けたいです」
しばらく沈黙が流れた。
やがて、トーマスが笑った。
「よく勉強されていますな」
「教えてもらったばかりですけど」
「学んだことをすぐに実践へ結びつける。それは大切な才能ですよ」
怜司は少し照れた。
「……ありがとうございます」
トーマスは新しい帳簿を取り出した。
「では、次の取引について考えましょう」
今回の売れ残りをどう扱うか。
次回の数量をどの程度にするか。
販売先を増やす必要があるか。
そして、品質と保存状態をどう管理するか。
一つずつ話し合った。
怜司は、売れた数だけでなく、売れなかった理由も記録することにした。
さらに、次の仕入れは小幅な増加に留める。
新しい商品を増やすのは、その後だ。
「……焦らない方がいいですね」
「その通りです」
トーマスは満足そうに頷いた。
「商売は、一度の大勝ちより、長く続けられる仕組みを作ることが大切です」
◇
商会を出る頃には、街に夕暮れが訪れていた。
怜司は石畳の道を歩きながら、今日の出来事を思い返した。
詩織に教わったこと。
トーマスに確認したこと。
そして、陽菜の笑顔。
別々の世界で起きた出来事が、一つにつながっている。
知識を学ぶ。
実際に使う。
失敗や結果を確かめる。
そして、また学ぶ。
「……これなら、少しずつ前へ進める」
怜司は空を見上げた。
まだ日本での資産形成には結びついていない。
異世界の利益を日本円に変えるための正当な方法も、これから調べなければならない。
だからこそ、今は基礎を固める。
商売を続けられる力。
数字を理解する力。
人と信頼関係を築く力。
それらは、どちらの世界でも無駄にならないはずだった。
怜司はノートを胸に抱え、静かに微笑んだ。
「……次は、もっといい結果を出そう」
その一歩は小さい。
けれど、確実に未来へ続いていた。




