第93話 静かな少女の大胆な一歩
第93話 静かな少女の大胆な一歩
月曜日の放課後。
聖蘭学園の図書室には、柔らかな夕日が差し込んでいた。
怜司は窓際の席で、会計の入門書を開いていた。
隣には藤宮詩織が座っている。
「ここは、売上と利益を分けて考えるんです」
詩織がノートを指さした。
「例えば、商品が一万円分売れても、仕入れや経費が八千円かかっていれば、利益は二千円です」
「なるほど……」
怜司は真剣に頷いた。
「売れた金額だけ見て喜んじゃ駄目なんですね」
「はい。それから、在庫の管理も大切です」
「在庫……」
「売れ残った商品も、仕入れた時点ではお金がかかっていますから」
怜司は感心した。
「詩織さん、説明が上手ですね」
「……そうですか?」
「はい。すごく分かりやすいです」
詩織は少し頬を染めた。
「……ありがとうございます」
怜司は再びノートへ視線を戻した。
詩織はその横顔を、そっと見つめる。
真剣に学ぼうとする姿勢。
分からないことを素直に聞くところ。
そして、理解できたときの嬉しそうな笑顔。
その一つ一つが、詩織には愛おしく感じられた。
◇
勉強が一段落すると、怜司は大きく息を吐いた。
「ふう……。今日はかなり理解できた気がします」
「よかったです」
詩織が微笑む。
「黒瀬君は、どうしてそんなに商売の勉強をしているんですか?」
怜司は少し考えた。
「……将来、自分の力で稼げるようになりたいんです」
「稼ぐ、ですか?」
「はい。家族に安心して暮らしてほしいし、やりたいことを諦めたくないので」
詩織は静かに頷いた。
「……黒瀬君らしいですね」
「そうかな?」
「はい。自分のことだけじゃなくて、周りの人のことも考えているところが」
怜司は照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます」
詩織は少しだけ視線を落とした。
そして、意を決したように口を開く。
「……黒瀬君」
「はい?」
「今度の休み、時間はありますか?」
怜司は目を瞬かせた。
「今度の休み?」
「はい」
詩織は胸の前で手を握った。
「もしよかったら、一緒に本屋さんへ行きませんか?」
怜司は少し驚いた。
「本屋さん?」
「はい。商業関係の本も見たいですし……」
そこで言葉が止まる。
本当は、それだけではない。
怜司と二人で出かけたい。
学校の外で、もっといろいろな話をしたい。
その気持ちを、きちんと伝えたかった。
「……それから」
詩織は顔を上げた。
「黒瀬君と、ゆっくりお話ししたいんです」
怜司は彼女を見つめた。
いつも控えめな詩織が、真剣な表情でこちらを見ている。
その勇気が、自然と伝わってきた。
「……はい。ぜひ」
怜司は微笑んだ。
「僕も、詩織さんとゆっくり話したいです」
詩織の顔が、ぱっと明るくなった。
「……ありがとうございます!」
その声は、いつもより少し大きかった。
怜司は思わず笑った。
「楽しみにしてます」
「……はい!」
◇
図書室を出た後。
詩織は一人で廊下を歩いていた。
胸の鼓動が、まだ落ち着かない。
「……誘えた」
小さく呟く。
今までの自分なら、きっとできなかった。
九条院澪や西園寺麗華のように、自然に距離を縮めることができない。
そんなふうに思っていた。
けれど、待っているだけでは何も変わらない。
自分の気持ちを大切にしたい。
そう決めたからこそ、今日の一歩が踏み出せた。
「……頑張ろう」
詩織は小さく拳を握った。
◇
一方、その頃。
怜司は教室へ戻る途中、澪と麗華に出会った。
「レイジさん」
「黒瀬さん」
二人がほぼ同時に声をかける。
「澪さん、麗華さん」
怜司は笑顔で挨拶した。
「図書室にいらしたのですか?」
澪が尋ねる。
「はい。詩織さんと勉強してました」
「藤宮さんと?」
麗華の目が、わずかに細くなる。
「はい。会計の勉強を教えてもらって」
怜司は嬉しそうに続けた。
「それで、今度一緒に本屋さんへ行くことになったんです」
澪と麗華の動きが、一瞬だけ止まった。
「……本屋さんへ?」
澪が静かに聞き返す。
「はい。詩織さんが誘ってくれたので」
麗華は小さく微笑んだ。
「……そうなのですね」
その笑顔は、いつも通り上品だった。
けれど、内心は穏やかではない。
詩織が、ついに自分から動いた。
しかも、怜司は嬉しそうに話している。
澪も同じことを考えていた。
藤宮詩織。
控えめで、優しい少女。
けれど、その静かな性格の奥には、確かな強さがある。
「……藤宮さんも、頑張っていらっしゃるのですね」
澪が小さく呟いた。
「え?」
怜司が首を傾げる。
「いえ、何でもありません」
澪は微笑んだ。
「楽しんできてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
麗華も頷いた。
「素敵な一日になるとよろしいですわね」
「ありがとうございます」
怜司が去った後、二人は顔を見合わせた。
「……九条院さん」
「はい、西園寺さん」
「藤宮さん、思った以上に積極的ですわね」
「ええ」
澪は静かに微笑んだ。
「私たちも、油断できませんね」
麗華は小さく笑った。
「……本当に」
◇
その日の夜。
詩織は自室で、次の休みの予定を考えていた。
本屋さん。
カフェ。
できれば、少しだけ散歩もしたい。
けれど、あまり欲張りすぎるのもよくない。
「……どうしよう」
詩織は机に向かい、ノートを開いた。
そこには、読みたい本の題名がいくつか書かれている。
しかし、気づけば別のことを考えていた。
怜司は、どんな服で来るのだろう。
何を話せば喜んでくれるだろう。
自分の服装は、どうしよう。
「……これじゃ、勉強どころじゃない」
詩織は小さく笑った。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、こんなふうに誰かとの時間を楽しみにする自分が、少し嬉しかった。
その頃。
澪は自室で、怜司と手をつないだ日のことを思い返していた。
麗華は、初デートで交わした言葉を大切に胸にしまっていた。
そして詩織は、初めて自分から誘った約束に胸を高鳴らせている。
三人の少女たちの想いは、少しずつ、しかし確実に強くなっていた。
その中心にいる怜司は、まだ自分がどれほど大切に想われているのか、十分には理解していなかった。




