第92話 令嬢の本気、初めてのデート
第92話 令嬢の本気、初めてのデート
日曜日の朝。
西園寺麗華は、自室の鏡の前で何度も服装を確認していた。
淡いクリーム色のブラウス。
落ち着いた色合いのスカート。
小さなアクセサリー。
上品さを保ちながらも、普段の制服姿とは違う柔らかな雰囲気を意識した装いだった。
「……これで、よろしいでしょうか」
鏡の中の自分を見つめる。
いつもなら、服装を決めるのにこれほど時間はかからない。
けれど今日は違う。
黒瀬怜司との、初めての私的なお出かけ。
研究活動でも、学校の用事でもない。
ただ、二人で過ごすための時間だった。
「……落ち着きなさい、麗華」
自分に言い聞かせる。
けれど、胸の鼓動はなかなか静まらなかった。
◇
待ち合わせ場所に着くと、怜司はすでに来ていた。
「麗華さん!」
怜司が笑顔で手を振る。
「黒瀬さん。おはようございます」
「おはようございます」
怜司は麗華の姿を見て、少し目を見開いた。
「……すごく似合っていますね」
「え?」
「その服。いつもと雰囲気が違って、素敵です」
麗華は一瞬、言葉を失った。
そして、頬を染める。
「……ありがとうございます」
心の中では、思わず拳を握りたくなっていた。
今日のために何度も悩んだ甲斐があった。
「黒瀬さんも、とてもお似合いですわ」
「ありがとうございます」
二人は微笑み合った。
麗華は小さく深呼吸する。
今日は、九条院澪のことを考えすぎない。
自分と怜司の時間を、心から楽しむ。
そう決めていた。
◇
最初に向かったのは、街の書店だった。
麗華が以前から気になっていた専門書を探したいという。
「黒瀬さんは、最近どんな本を読まれていますか?」
「経営や会計の入門書ですね」
「まあ!」
麗華が目を輝かせる。
「以前から勉強なさっていましたものね」
「はい。まだ分からないことばかりですけど」
「それでしたら、私もおすすめの本がございますわ」
麗華は棚から一冊の本を取り出した。
「こちらは、商売の基本を分かりやすく説明しています」
「へえ……」
怜司は興味深そうに頁をめくった。
「図が多くて読みやすそうですね」
「ええ。最初から難しい本を読むより、基本を理解する方が大切ですもの」
「ありがとうございます。買ってみます」
麗華は嬉しそうに微笑んだ。
自分の知識が、怜司の役に立っている。
それだけで、胸が温かくなった。
◇
昼食は、落ち着いた雰囲気のレストランで取ることになった。
麗華が選んだ店だったが、必要以上に高級な場所ではなかった。
「黒瀬さんが気兼ねなく楽しめるところがよいと思いまして」
麗華が微笑む。
「ありがとうございます。すごく落ち着きます」
怜司は店内を見渡した。
柔らかな照明。
静かな音楽。
窓から見える街並み。
どれも心地よかった。
「麗華さんは、こういうお店によく来るんですか?」
「家族と訪れることはありますが、友人と二人で来るのは珍しいです」
「そうなんですね」
「ですから、今日は少し新鮮ですわ」
麗華は微笑んだ。
「……黒瀬さんとご一緒だから、かもしれません」
怜司は少し驚いた。
「僕と?」
「ええ」
麗華は視線を逸らさなかった。
「黒瀬さんとお話ししていると、自然体でいられるんです」
怜司は少し考えた。
「……僕も、麗華さんと話すのは好きですよ」
麗華の心臓が跳ねた。
「……ありがとうございます」
いつもなら、もっと気の利いた言葉を返せるはずだった。
けれど今は、それだけで精一杯だった。
◇
食事の後、二人は街を散策した。
雑貨店。
小さな公園。
路地裏の喫茶店。
麗華は普段なら通り過ぎてしまうような場所にも、興味を示していた。
「こうして歩くのも、楽しいものですわね」
「はい。僕もです」
怜司は微笑んだ。
「麗華さんって、もっと堅い人なのかと思ってました」
「まあ」
麗華が少し驚く。
「それは、どういう意味でしょう?」
「ごめんなさい。悪い意味じゃなくて」
怜司は慌てて首を振った。
「最初は、何でも完璧にこなす人だと思ってたんです」
「……今は違いますの?」
「今は、すごく頑張り屋で、優しい人だと思ってます」
麗華は足を止めた。
「……黒瀬さん」
「はい?」
「それは、少し反則ですわ」
「え?」
怜司が首を傾げる。
麗華は小さく笑った。
「何でもありません」
けれど、胸の奥では大きな喜びが広がっていた。
完璧な令嬢としてではなく、一人の人間として見てもらえている。
そのことが、何より嬉しかった。
◇
夕方。
二人は公園のベンチに腰を下ろした。
空は淡い橙色に染まっている。
「黒瀬さん」
「はい」
「今日は、本当にありがとうございました」
「こちらこそ。すごく楽しかったです」
麗華は少しだけ真剣な表情になった。
「……私、今日のお出かけを、とても楽しみにしていたんです」
「僕もですよ」
「それは嬉しいですわ」
麗華は微笑んだ。
「ですが、私にとっては、少し特別な意味がありました」
怜司は静かに耳を傾けた。
「黒瀬さんと、もっと親しくなりたかったんです」
その言葉に、怜司の胸が少し高鳴った。
「……麗華さん」
「学校では、どうしても周囲の目がありますから」
麗華はゆっくり続けた。
「今日は、一人の女の子として、黒瀬さんとお話ししたかったんです」
怜司は言葉を探した。
以前の自分なら、きっと冗談だと思っただろう。
けれど、今の麗華の表情は真剣だった。
「……ありがとうございます」
怜司は静かに答えた。
「僕も、今日の麗華さんをもっと知れた気がします」
麗華の目が、少し潤んだ。
「……そう言っていただけると、嬉しいです」
沈黙が訪れる。
けれど、それは気まずいものではなかった。
麗華はそっと、怜司の袖に触れた。
「……また、お誘いしてもよろしいですか?」
怜司は微笑んだ。
「もちろんです」
その返事に、麗華は心から笑った。
「……ありがとうございます」
◇
帰宅後。
麗華は自室で、今日のことを思い返していた。
書店での会話。
レストランでの時間。
公園で交わした言葉。
そして、次も会いたいと伝えられたこと。
「……本当に、好きですわ」
麗華は小さく呟いた。
その気持ちは、もう隠しようがなかった。
けれど、まだ告白するつもりはない。
もっと怜司を知りたい。
もっと自分を知ってほしい。
その時間を、大切にしたかった。
ふと、九条院澪の顔が浮かぶ。
彼女もまた、怜司を心から想っている。
麗華は静かに微笑んだ。
「……九条院さん。私も、本気ですわよ」
恋の勝負は、まだまだ続く。
そして、麗華はその勝負から逃げるつもりなど、少しもなかった。




