第9話 伯爵家の歓待と、帰るべき場所
黒瀬怜司は、目の前に広がる光景に言葉を失っていた。
高い天井。
磨き上げられた大理石の床。
壁には見事な絵画が飾られ、天井からは幾つもの光を宿した豪華なシャンデリアが吊り下がっている。
そして何より、玄関ホールの両側に整列した使用人たち。
「お帰りなさいませ、旦那様。エリシアお嬢様」
一斉に頭を下げられ、怜司は思わず背筋を伸ばした。
「……す、すごい」
口から漏れたのは、そんな間の抜けた感想だった。
日本でも豪邸というものはテレビで見たことがある。
だが、実際に足を踏み入れたことなど一度もない。
ましてや、異世界の伯爵家の屋敷だ。
まるで映画の撮影現場に迷い込んだような気分だった。
「ふふっ」
隣から小さな笑い声が聞こえた。
振り向くと、エリシアが口元に手を添えて微笑んでいる。
「レイジ様、そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ」
「……いや、でも」
怜司は自分の制服を見下ろした。
袖は魔物との戦闘で裂け、胸元には盗賊の剣でできた傷がある。
靴には森の泥がこびりついていた。
そんな格好で、この美しい床を歩いていいのだろうか。
「……床、汚しちゃいそうで」
怜司が真剣に呟くと、エリシアは目を丸くした。
そして、今度は声を出して笑った。
「まあ!」
「……え?」
「申し訳ありません。ですが、レイジ様は本当にお優しいのですね」
「……なんで?」
「ご自分があれほど危険な目に遭われたのに、心配なさるのが床のことなのですから」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
怜司は気恥ずかしくなり、頭を掻いた。
すると、先ほど名乗った伯爵アルベルトが穏やかに笑った。
「気にする必要はない。床は磨けばよいが、娘の命は取り戻せない」
そして、怜司の肩にそっと手を置く。
「君は胸を張って、この屋敷に入ってくれればいい」
「……ありがとうございます」
怜司は小さく頭を下げた。
胸を張っていい。
その言葉が、不思議と心に残った。
学校では、できるだけ目立たないようにしていた。
背中を丸め、視線を下げ、誰とも目を合わせない。
そうすれば、少しは標的にされずに済むと思っていたからだ。
だが、この屋敷では違う。
誰も自分を笑わない。
誰も自分の体型を馬鹿にしない。
それどころか、感謝されている。
そのことが、まだ信じられなかった。
◇ ◇ ◇
案内されたのは、広々とした応接室だった。
大きな窓から柔らかな光が差し込み、窓の向こうには色とりどりの花が咲く庭園が広がっている。
中央には、重厚な木製のテーブル。
その周囲には、深い青色の布が張られたソファが並んでいた。
「どうぞ、こちらへ」
エリシアに促され、怜司は恐る恐る腰を下ろした。
ふわり、と身体が沈む。
「……うわっ」
思わず声が出た。
自宅のソファとは、まるで違う柔らかさだった。
「お気に召しましたか?」
エリシアが嬉しそうに尋ねる。
「……うん。すごく座り心地がいい」
「それはよかったです」
エリシアも向かいに腰を下ろした。
アルベルトは執事に何かを指示すると、怜司の隣ではなく、正面の席へ座った。
それだけで、怜司は少し安心した。
大人に囲まれて問い詰められるような形にならなかったからだ。
「さて、怜司殿」
「……はい」
「改めて礼を言わせてほしい」
アルベルトの表情が引き締まる。
「娘を救ってくれて、本当にありがとう」
「い、いえ……」
「ガルドから簡単な報告は受けた。盗賊三人を相手に、君一人で立ち向かったそうだな」
怜司は少し迷ってから頷いた。
「……はい」
「剣を持った相手に、木の枝一本で?」
「……そう、なります」
アルベルトはしばらく黙っていた。
その視線は、怜司の破れた制服へ向けられている。
「……怪我は?」
「あ、大丈夫です」
「本当に?」
「はい。どこも痛くありません」
それは事実だった。
戦闘中に服は破れたものの、身体には傷が残っていない。
魔物との戦闘で得た《完全適応》の恩恵もあるのだろう。
だが、その仕組みを説明するわけにはいかなかった。
アルベルトは少し不思議そうな顔をしたが、無理に追及しなかった。
「そうか。それなら何よりだ」
そして、少しだけ声を落とした。
「……実はな。あの街道では、最近になって盗賊の被害が増えている」
「……そうなんですか?」
「ああ。商人の荷馬車が襲われ、荷物を奪われる事件が続いていた。巡回を増やしていたのだが……まさか娘の馬車まで狙われるとは思わなかった」
アルベルトの手が、膝の上で強く握られる。
エリシアは静かに父を見つめていた。
「お父様……」
「すまない、エリシア」
アルベルトは娘へ向き直った。
「お前を危険な目に遭わせてしまった」
エリシアは首を横に振る。
「お父様のせいではありません」
「だが、護衛をもっとつけていれば……」
「それでも、盗賊たちが襲ってこなかったとは限りません」
エリシアは落ち着いた声で答えた。
そして、怜司へ視線を向ける。
「それに、レイジ様が助けてくださいました」
怜司は思わず姿勢を正した。
「……いや、俺は本当に、たまたま通りかかっただけで」
「その偶然に、私は救われたのです」
エリシアは微笑んだ。
怜司は何も言えなくなった。
そんなふうに言われると、どう反応していいのか分からない。
学校では、自分の存在が誰かの役に立つなど考えたこともなかった。
だが今、目の前の少女は心から感謝してくれている。
その事実が、くすぐったいほど嬉しかった。
◇ ◇ ◇
やがて、扉が静かに開いた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、白いエプロンを身につけた女性の使用人だった。
銀の盆には、湯気の立つ茶器と、美しく盛りつけられた焼き菓子が載っている。
甘い香りが部屋いっぱいに広がった。
「……いい匂い」
怜司は思わず呟いた。
エリシアが嬉しそうに笑う。
「こちらは、当家の料理長が作った蜂蜜菓子です。ぜひ召し上がってください」
「……いいの?」
「もちろんです」
怜司は差し出された小皿を受け取った。
小さな焼き菓子は、表面がきつね色に焼けていた。
一口食べる。
さくり、と軽い音がした。
次の瞬間、優しい甘さが口いっぱいに広がる。
「……うまっ」
思わず本音が漏れた。
エリシアがぱっと顔を明るくする。
「本当ですか?」
「うん。すごく美味しい」
「よかった!」
その笑顔が、あまりにも嬉しそうだったので、怜司も自然と笑ってしまった。
アルベルトはそんな二人を見て、目元を和らげていた。
「エリシアが、これほど楽しそうに客人と話すのは珍しいな」
「お、お父様!」
エリシアの頬が赤くなる。
「何をおっしゃるのですか!」
「いや、事実だろう?」
「もう……!」
エリシアは困ったように父を睨んだ。
怜司はそのやり取りを見て、思わず微笑んだ。
――仲がいいんだな。
自分の家族と少し似ている。
父の正臣が冗談を言い、母の美咲が笑い、陽菜が頬を膨らませる。
そんな、何でもない食卓の風景。
世界が違っても、家族の温かさは同じなのだ。
そう思った瞬間、怜司の胸に小さな寂しさが生まれた。
――母さんたち、今どうしてるかな。
怜司はそっと制服のポケットに手を入れた。
スマートフォンがある。
だが、この世界で通信ができるはずもない。
画面を確認すると、当然ながら圏外だった。
時刻は、午前十一時四十八分。
「……あれ?」
怜司は小さく呟いた。
異世界へ来たのは、午前十一時十二分だった。
それから森で戦い、少女を助け、馬車に乗り、屋敷へ到着した。
どう考えても、三十六分では足りない。
――時間の流れが違う?
怜司はスマートフォンを見つめた。
まさか。
だが、今までの出来事を思い返すほど、その可能性が高く思えてきた。
そのとき、視界の端に半透明の文字が浮かんだ。
【固有権能《界渡り》】
【世界間の時間流動差を検知】
【現在地の時間経過は、出発世界と一致していません】
「……っ!」
怜司は思わず息を呑んだ。
やはり、そうなのか。
この世界と日本では、時間の流れが違う。
それが常に一定なのか、場所によって変わるのかは分からない。
ただ一つ確かなのは、こちらで過ごした時間が、そのまま日本の時間になるとは限らないということだった。
――だったら、まだ少し余裕があるかもしれない。
しかし、怜司はすぐに考え直した。
――いや、油断するな。
時間差があるからといって、帰るのを遅らせていいわけではない。
家族には、異世界のことをまだ話していない。
突然いなくなれば、心配するに決まっている。
怜司はスマートフォンをしまった。
そして、アルベルトへ向き直った。
「……あの、伯爵様」
「うむ。何かな?」
「申し訳ないんですけど、そろそろ帰らないといけなくて」
アルベルトは少し驚いたようだった。
「もう帰るのか?」
「……はい。家族が待っているので」
エリシアの表情が、わずかに曇った。
「……そう、ですか」
その声が少し寂しそうに聞こえ、怜司は胸がちくりとした。
「……ごめん」
「いえ!」
エリシアは慌てて首を振った。
「レイジ様には、ご家族がいらっしゃるのですもの。引き止めるわけにはまいりません」
そして、少しだけ微笑んだ。
「……ですが」
「……ん?」
「また、お会いできますか?」
怜司は目を見開いた。
エリシアは膝の上で両手を重ね、少し不安そうにこちらを見つめている。
「もし、ご迷惑でなければ……」
その言葉を聞いた瞬間、怜司の胸が温かくなった。
また会いたい。
そんなふうに言ってもらえたのは、いつ以来だろう。
学校では、誰も自分を待っていなかった。
自分が休めば、翔真たちは面白くないと文句を言うかもしれない。
だが、それは会いたいからではない。
ただ、からかう相手がいなくなるからだ。
けれど、エリシアは違う。
純粋に、また会いたいと言ってくれている。
「……もちろん」
怜司は自然と微笑んだ。
「俺も、また会いたい」
エリシアの表情が、ぱっと明るくなった。
「……本当ですか?」
「うん」
「……嬉しいです!」
少女は、心から嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、怜司は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
◇ ◇ ◇
「ところで、怜司殿」
アルベルトが口を開いた。
「君には、まだ礼をしていなかったな」
「……え?」
「娘の命を救ってくれたのだ。何もせず帰すわけにはいかない」
そう言うと、アルベルトは執事へ視線を向けた。
「用意してくれ」
「かしこまりました」
執事が一礼し、部屋を出ていく。
怜司は慌てた。
「い、いや、本当に気にしないでください!」
「遠慮する必要はない」
「でも……」
「怜司殿」
アルベルトは穏やかに微笑んだ。
「君にとっては当然のことだったのかもしれない。だが、私たちにとっては、決して当然ではないのだ」
その言葉に、怜司は口を閉じた。
「娘が無事に帰ってきた。それだけで、私はどれほど救われたか分からない」
アルベルトの声は静かだった。
けれど、その目には確かな感情が宿っていた。
「父親として、どうか感謝を受け取ってほしい」
怜司は、しばらく何も言えなかった。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
アルベルトは満足そうに微笑んだ。
しばらくして、執事が小さな木箱を持って戻ってきた。
箱の中には、銀貨と金貨が丁寧に並べられていた。
「……えっ」
怜司は固まった。
アルベルトが説明する。
「金貨十枚だ。旅の費用にでも使ってほしい」
「……じゅ、十枚!?」
怜司は思わず大きな声を出した。
金貨。
ゲームなら何度も見たことがある。
だが、本物を見るのは初めてだった。
しかも、十枚。
この世界の物価を知らない怜司には、どれほどの価値があるのか分からない。
「……あの、これって……どのくらいの価値があるんですか?」
アルベルトは少し驚いた顔をした。
「……金貨の価値を知らないのか?」
「……すみません」
怜司は恥ずかしそうに頭を下げた。
エリシアがすぐに助け舟を出す。
「お父様。レイジ様は遠方からいらした方なのです」
「……ああ、そうだったな」
アルベルトは頷いた。
「この地方では、一般的な職人の月収が銀貨数十枚ほどだ。金貨一枚は銀貨百枚に相当する」
「……えっ」
怜司は再び箱を見た。
金貨十枚。
つまり、かなりの大金らしい。
「……そんなにもらえません!」
怜司は慌てて首を振った。
アルベルトは困ったように笑う。
「それでも、娘の命には代えられない」
「……でも」
「では、こうしよう」
アルベルトは少し考えてから言った。
「この金は、君が今後旅をするための資金として受け取ってほしい。必要がなければ、使わなくても構わない」
怜司は迷った。
正直、異世界では何をするにも金が必要になるだろう。
食事。
宿泊。
装備。
情報を集めることだって、金があれば有利になるかもしれない。
今後もこの世界を訪れるなら、確かに必要だ。
「……ありがとうございます」
怜司は深く頭を下げた。
「大切に使います」
アルベルトは嬉しそうに頷いた。
「うむ。それでよい」
怜司は木箱を受け取った。
ずっしりとした重みが、手のひらに伝わってくる。
――これが、異世界のお金か。
自分の人生が、本当に変わり始めている。
その実感が、また一つ増えた。
◇ ◇ ◇
帰る準備をしていると、エリシアが一枚の紙を持ってきた。
「レイジ様」
「……ん?」
「もし、またルミエールへいらっしゃることがありましたら、こちらをお持ちください」
差し出されたのは、青い紋章が描かれた紹介状だった。
「これは……?」
「ルミナス家の紹介状です。門の衛兵にお見せいただければ、私たちへ取り次いでもらえるはずです」
「……そんなものまで?」
怜司は驚いた。
エリシアは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「……また、お会いしたいので」
その一言で、怜司の心臓が跳ねた。
「……あ、ありがとう」
怜司は丁寧に紹介状を受け取った。
エリシアは嬉しそうに頷いた。
そして、少しだけ真剣な表情になる。
「……レイジ様」
「……うん?」
「どうか、無理はなさらないでくださいね」
怜司は目を瞬かせた。
「……え?」
「今日、私を助けてくださったときも、とても危険でした」
エリシアは静かに続けた。
「誰かを助けようとなさるお気持ちは、本当に素晴らしいと思います」
そして、少しだけ俯いた。
「……でも、レイジ様ご自身が傷ついてしまったら、悲しむ方がいらっしゃるでしょう?」
怜司は、言葉を失った。
父。
母。
陽菜。
三人の顔が浮かんだ。
エリシアは、怜司の目を見つめた。
「私も……悲しいです」
「……っ」
怜司の胸が強く締めつけられた。
たった今日出会ったばかりの少女。
それなのに、こんなにも真剣に自分の身を案じてくれている。
怜司は、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
そして、少しだけ笑った。
「ちゃんと気をつけるよ」
エリシアは安心したように微笑んだ。
「……約束ですよ?」
「うん。約束」
二人は、自然と笑い合った。
◇ ◇ ◇
屋敷を出た後、怜司は街の外れまで馬車で送ってもらった。
そこから先は、一人で帰ることにした。
もちろん、本当の帰り道を知られるわけにはいかない。
日本へ戻るためには、《界渡り》を使う必要がある。
そのことを、今はまだ誰にも話せなかった。
「……また来ます」
怜司がそう言うと、ガルドは深く頷いた。
「お待ちしております、怜司殿」
そして、少しだけ表情を和らげる。
「……それと」
「……はい?」
「エリシア様を助けてくださったこと、改めて感謝いたします」
怜司は頭を下げた。
「……こちらこそ、ありがとうございました」
ガルドは小さく笑った。
その笑顔を見て、怜司も少し安心した。
最初に会ったときは、剣を抜かれそうになった相手だ。
それが今では、こうして礼を言ってくれている。
人との関係は、少しずつ変わるものなのかもしれない。
怜司は馬車を見送った。
そして、人目のない森の中へ足を踏み入れる。
「……さて」
周囲を確認する。
誰もいない。
鳥の鳴き声だけが聞こえている。
怜司は小さく呟いた。
「……界渡り」
すると、目の前に淡い光の輪が現れた。
その向こうには、見慣れた自分の部屋が見える。
「……帰れる」
怜司は胸を撫で下ろした。
そして、一歩を踏み出した。
◇ ◇ ◇
「……戻った」
足元には、自室の床。
机。
ベッド。
壁にかかった制服の上着。
すべて、いつもの光景だった。
怜司は深く息を吐いた。
「……なんか、すごい一日だったな」
異世界へ渡り。
魔物を倒し。
盗賊から少女を助け。
伯爵家に招かれた。
そのすべてが、つい先ほどの出来事だ。
怜司はスマートフォンを取り出した。
時刻は、午前十一時五十三分。
「……やっぱり」
異世界での出来事に比べ、日本ではほとんど時間が経っていない。
怜司はベッドに腰を下ろした。
そして、視界にステータスを表示する。
【個体名:黒瀬怜司】
【種族:人間/特異個体】
【レベル:16】
【生命力:成長中】
【魔力:成長中】
【筋力:成長中】
【耐久:成長中】
【敏捷:成長中】
【知力:成長中】
【精神:成長中】
【神級権能:無限成長/完全適応/万象習得】
【固有権能:界渡り】
【肉体最適化率:16%】
怜司は、表示をじっと見つめた。
レベル16。
まだ二度しか魔物を倒していない。
それなのに、ここまで成長した。
だが、力が増えたこと以上に、大きな変化があった。
――エリシア。
あの少女の笑顔が、頭に浮かぶ。
自分を信じてくれた。
感謝してくれた。
そして、また会いたいと言ってくれた。
「……嬉しかったな」
怜司は小さく微笑んだ。
学校では、誰にも必要とされていないと思っていた。
自分がいなくなっても、誰も困らない。
そんなふうに考えたことさえあった。
けれど、それは違った。
父も母も、陽菜もいる。
そして今は、異世界にも自分との再会を望んでくれる人がいる。
そのことが、何より嬉しかった。
怜司は、ふと机の上に目を向けた。
そこには、昨夜まとめた学校の記録が置かれている。
鷹宮翔真。
堂島剛。
三枝悠斗。
田所浩一。
彼らの顔が、順番に浮かんだ。
怜司の表情が、ゆっくりと引き締まる。
「……こっちも、終わらせないとな」
異世界では、少しずつ自分を変えられている。
だが、日本での問題はまだ何も解決していない。
翔真たちは、きっとまた何かを仕掛けてくる。
田所も、簡単には態度を変えないだろう。
それでも。
もう、ただ耐えるだけの日々には戻らない。
怜司は机に向かい、ノートを開いた。
これまでの出来事。
保存したメッセージ。
学校とのやり取り。
そして、今後必要になるかもしれない証拠。
一つずつ整理していく。
その作業を進めながら、怜司は思った。
力があるだけでは、すべてを解決できない。
知識も必要だ。
判断力も必要だ。
そして、信頼できる人の力を借りることも。
「……もっと、学ばないと」
怜司は小さく呟いた。
異世界で強くなる。
日本では、知識と証拠を積み重ねる。
その両方が、自分には必要なのだ。
◇ ◇ ◇
その頃。
黒瀬家の一階では、正臣が電話を受けていた。
「……はい。黒瀬です」
相手は、怜司の通う高校の教頭だった。
『このたびは、ご心配をおかけして申し訳ありません』
形式的な謝罪。
正臣は黙って続きを待った。
『ただ、現時点では生徒間の認識に食い違いがあるようでして……』
正臣の眉が動いた。
「……認識の食い違い、ですか」
『はい。鷹宮君の方にも確認しましたが、本人はいじめの事実を否定しております』
正臣は静かに息を吐いた。
「……では、息子に送られたメッセージについては?」
『そちらについても、本人に確認を進めております』
「娘の通学路を示唆する内容です」
『……はい』
「学校として、どのように受け止めておられますか?」
電話の向こうが、少し静かになった。
『……慎重に対応すべき事案だと認識しております』
「では、具体的な対応を文書でいただけますか」
『……文書、ですか?』
「はい」
正臣の声は落ち着いていた。
「これまで何度も相談してきました。そのたびに、問題はない、様子を見る、と言われてきました」
少し間を置く。
「ですが、状況は悪化しています」
『……それは』
「今回は、娘の安全にも関わっています」
正臣は手元の記録を見た。
「ですから、学校が何を確認し、どう判断し、どのような対応を取るのか。きちんと記録として残していただきたい」
電話の向こうで、教頭が息を呑む気配がした。
『……校長とも相談いたします』
「お願いいたします」
正臣は静かに答えた。
そして、最後に一言だけ付け加えた。
「なお、こちらも外部機関への相談を進めます」
『……え?』
「息子と娘の安全を守るためです」
正臣は、それ以上説明しなかった。
電話を切る。
リビングには、しばらく静寂が流れた。
美咲が心配そうに尋ねる。
「……どうだった?」
正臣はゆっくりと首を振った。
「……相変わらずだな」
そして、机の上に置いた書類を見つめた。
「だが、もう学校だけには任せない」
その声には、確かな決意が込められていた。
黒瀬家は、静かに動き始めていた。
そして、その動きはやがて、学校だけでなく、鷹宮家そのものへと届いていくことになる。
◇ ◇ ◇
一方、異世界。
ルミナス伯爵家の庭園では、エリシアが一人、夕暮れの空を見上げていた。
手元には、怜司が座っていた応接室の席に置かれていた小さな菓子皿がある。
片づけようとした使用人に、なぜか自分で運ぶと言ってしまったのだ。
「……レイジ様」
エリシアは、その名前を小さく呟いた。
不思議な少年だった。
強い。
それなのに、偉そうにしない。
自分を助けたことを、当たり前のように話す。
父に頭を下げられれば慌て、屋敷の床を汚すことを心配する。
そして何より。
自分が無事だったことを、心から喜んでくれた。
「……また、お会いしたいです」
エリシアは小さく微笑んだ。
その頬は、ほんのりと赤く染まっていた。
そのとき、背後から声が聞こえた。
「……エリシア」
「……お父様?」
振り返ると、アルベルトが立っていた。
「怜司殿のことを考えていたのか?」
「……っ!」
エリシアの顔が、一気に赤くなる。
「そ、そんなことは……!」
アルベルトは楽しそうに笑った。
「ははは。分かりやすいな」
「もう! お父様!」
エリシアは頬を膨らませた。
アルベルトは笑いながらも、少しだけ真剣な表情になった。
「……だが、あの少年は確かに不思議だ」
「……はい」
「ガルドの報告によれば、剣を持った盗賊三人を、ほとんど傷つけずに制圧したという」
エリシアは頷いた。
「本当に、お強い方でした」
「……それほどの力を持ちながら、名の知れた冒険者でも騎士でもない」
アルベルトは遠くの空を見つめた。
「……一体、何者なのだろうな」
エリシアは少し考えた。
そして、柔らかく微笑んだ。
「……私には、分かりません」
「……そうか」
「ですが、一つだけ分かることがあります」
アルベルトが娘を見る。
エリシアは胸元に手を当てた。
「レイジ様は、とてもお優しい方です」
その言葉に、アルベルトは少しだけ目を細めた。
「……そうだな」
そして、静かに頷いた。
「少なくとも、娘を命懸けで守ってくれたことだけは、確かな事実だ」
夕暮れの風が、庭園を優しく吹き抜けた。
エリシアは空を見上げる。
その先には、二つの月が淡く浮かび始めていた。
まだ出会ったばかりの少年。
けれど、その存在はすでに、少女の心に小さな光を灯していた。
そして、同じ頃。
日本の小さな部屋では、黒瀬怜司が机に向かい、静かにペンを走らせていた。
二つの世界。
二つの人生。
そのどちらでも、少年の運命は確実に動き始めていた。




