第10話 守るための覚悟――黒瀬家の反撃
黒瀬怜司は、鏡の前に立っていた。
「……やっぱり、変わってる」
制服のシャツを軽く引っ張る。
以前は腹のあたりが窮屈だった。
椅子に座れば生地が張り、ボタンの隙間が開いてしまわないか気になることもあった。
だが今は、少し余裕がある。
頬も、首元も、以前より引き締まっていた。
もちろん、まだ太っている。
鏡に映るのは、相変わらず大柄な少年だ。
けれど、その変化は確実だった。
「……レベル16、か」
怜司は小さく呟いた。
異世界で倒した魔物は、まだ二匹だけ。
それなのに、身体は少しずつ変わり始めている。
だが、本当に変わったのは見た目だけではなかった。
昨日までなら、鷹宮翔真の名前を思い浮かべるだけで、胃の奥が縮むような感覚に襲われていた。
今も怖さが消えたわけではない。
けれど、あの金髪の少女を助けたときのことを思い出すと、不思議と背筋が伸びた。
――エリシア。
自分を見て、笑ってくれた少女。
何度も礼を言い、また会いたいと言ってくれた少女。
あの笑顔を守れたことが、怜司にとって大きな自信になっていた。
「……俺にも、できることがある」
怜司は鏡の中の自分に向かって呟いた。
そして、ゆっくりと制服から部屋着へ着替えた。
今日は学校を休んでいる。
父と母が、自分と陽菜を守るために動いてくれているからだ。
だが、ただ待っているつもりはなかった。
自分にできることを、一つずつ進めよう。
そう決めていた。
◇ ◇ ◇
昼食を終えた頃。
リビングのテーブルには、正臣がまとめた書類が並んでいた。
これまで学校へ相談した日付。
怜司が受けた暴力や嫌がらせ。
金銭の要求。
そして、翔真から送られてきた妹への脅迫を思わせるメッセージ。
正臣は書類を一枚ずつ確認していた。
「……怜司」
「うん?」
「少し、話せるか?」
「……うん」
怜司は父の向かいに座った。
美咲も隣へ腰を下ろす。
「まず、学校から連絡があった」
正臣が静かに言った。
「教頭からだ。校長にも報告するとは言っていたが、今のところ具体的な対応は示されていない」
「……そうなんだ」
怜司は驚かなかった。
むしろ、予想通りだった。
「それでな」
正臣は一枚の紙を取り出した。
「外部の相談窓口に連絡を入れた。今日の夕方、改めて詳しく話をする予定だ」
怜司は目を見開いた。
「……もう?」
「ああ」
正臣は頷いた。
「今回は陽菜の安全にも関わる。待っているだけでは駄目だと思った」
美咲が怜司の手にそっと触れた。
「怜司、怖かったでしょう?」
「……うん」
怜司は素直に頷いた。
「でも、陽菜に何もなくてよかった」
「本当にね」
美咲は小さく息を吐いた。
その顔には、まだ不安が残っていた。
怜司は胸が痛くなった。
母にこんな顔をさせたくなかった。
父にも、仕事を休ませたくなかった。
陽菜には、何も知らずに笑っていてほしかった。
けれど。
もう、家族に隠して済む段階ではない。
「……父さん」
「ん?」
「俺、今までのこと、もっと詳しく書くよ」
正臣が顔を上げた。
「……大丈夫か?」
「うん」
怜司は頷いた。
「嫌なことを思い出すのは、正直つらいけど……」
少しだけ間を置く。
「でも、なかったことにされる方が嫌だから」
正臣は、しばらく怜司を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
その声には、父親としての信頼が込められていた。
「無理のない範囲で頼む。思い出せないことは、無理に埋めなくていい」
「……うん」
「大事なのは、正確なことだ」
怜司は頷いた。
感情だけで訴えても、相手は言い逃れをする。
だからこそ、事実を積み重ねる。
それが、今の自分たちにできる戦い方だった。
◇ ◇ ◇
午後。
怜司は自室の机に向かっていた。
ノートパソコンを開き、これまでの出来事を時系列で整理していく。
最初に翔真から目をつけられたのは、高校へ入学して間もない頃だった。
きっかけは、些細なことだった。
体育の授業で、走るのが遅かった。
ただ、それだけ。
『おい、黒瀬。お前、転がった方が速いんじゃねえの?』
翔真が笑った。
周囲の生徒も笑った。
最初は、ただの悪ふざけだと思おうとした。
笑って流せば、すぐに終わると思っていた。
だが、終わらなかった。
次第に、からかいは命令へ変わった。
飲み物を買ってこい。
荷物を持て。
金を貸せ。
断れば、堂島が肩を掴んだ。
三枝が周囲に嘘を広めた。
そして翔真は、いつも笑っていた。
『嫌なら断ればいいじゃん。俺たち友達だろ?』
その言葉を思い出した瞬間、怜司の指が止まった。
「……友達、か」
何度、その言葉を使われただろう。
友達だから。
冗談だから。
本気じゃないから。
その言葉で、どれほどのことを正当化されてきたか。
怜司は深く息を吸った。
そして、もう一度キーボードへ指を置いた。
日時が曖昧な出来事には、その旨を記す。
目撃者がいた場合は、覚えている範囲で名前を書く。
保存してあるメッセージは、元のデータを残したまま別の場所にも複製する。
分からないことは、分からないと書く。
嘘を混ぜる必要はない。
事実だけで十分だった。
しばらくすると、怜司はふと気づいた。
「……あれ?」
作業が、異様なほど速い。
文章を読み返しても、内容がすぐに頭へ入ってくる。
記憶を整理する際も、以前よりずっと考えがまとまりやすかった。
視界の端に、半透明の文字が浮かぶ。
【神級権能《万象習得》】
【情報整理能力の習熟が進行しています】
【論理的思考能力の習熟が進行しています】
怜司は思わず笑った。
「……こんなところでも役に立つんだな」
異世界では、武器の扱い方や言葉を学んだ。
日本では、勉強や情報整理に使える。
この能力は、想像以上に幅広い。
だが、それは何もせずに正解が分かるという意味ではない。
実際、記録を整理してみると、曖昧な記憶も多かった。
いつだったか。
誰が見ていたか。
何を言われたか。
思い出せないこともある。
怜司は、そこを無理に埋めなかった。
――確かなものを、確かなまま残そう。
それが大事なのだと、父から教わったばかりだった。
◇ ◇ ◇
午後三時過ぎ。
スマートフォンが震えた。
画面には、見覚えのない通知が表示されている。
怜司は眉をひそめた。
クラスの連絡用グループだった。
そこに、三枝悠斗が一枚の画像を投稿していた。
『黒瀬、今日サボり?』
続けて、翔真のメッセージ。
『昨日あれだけイキってたのに、もう逃げたんだ?』
さらに堂島。
『明日はちゃんと来いよな笑』
怜司は画面を見つめた。
胸の奥が、じわりと重くなる。
クラス全員が見る場所で、また自分を笑いものにしている。
以前なら、慌てて何か言い返したかもしれない。
あるいは、怖くなって通知を消していただろう。
だが、今は違った。
「……また、自分から残してくれるのか」
怜司は静かに呟いた。
画面を保存する。
投稿者。
時刻。
前後の会話。
すべて分かるように。
そして、返信はしなかった。
言い争えば、相手に都合のいい部分だけを切り取られる可能性がある。
今は、余計な言葉を増やす必要はない。
そのとき。
新しいメッセージが届いた。
送り主は、相沢直人だった。
『黒瀬、大丈夫か?』
怜司は指を止めた。
相沢。
昨日、昼休みに話しかけてきたクラスメイト。
いじめを見て見ぬふりしていたことを謝ってきた少年だ。
怜司は少し迷った。
相沢を信用していいのか。
まだ分からない。
昨日謝ってくれたからといって、すべてを許せるわけでもなかった。
それでも。
怜司は短く返信した。
『大丈夫。ありがとう』
すぐに既読がつく。
そして、少し間を置いて返信が届いた。
『昨日のこと、俺も見てた』
怜司の心臓が跳ねた。
『朝、堂島が黒瀬を掴もうとしたところ』
『田所先生が来る前のことも』
怜司は画面を見つめた。
相沢は、あの場にいた。
確かに、昨日の教室には何人もの生徒がいた。
だが、誰も助けてくれなかった。
その中の一人が、今こうして連絡してきている。
『……それで?』
怜司は慎重に返信した。
しばらくして、相沢から長めの文章が届いた。
『俺、今まで何もできなかった』
『鷹宮に目をつけられるのが怖かったから』
『でも、昨日の黒瀬を見て、このままでいいのかって思った』
怜司は息を止めた。
次のメッセージ。
『もし必要なら、俺が見たことは話す』
怜司は、しばらく動けなかった。
誰かが。
自分のために、証言してくれると言っている。
それが、どれほど大きなことなのか。
怜司には分かっていた。
だが、同時に不安もあった。
もし相沢が翔真たちに知られたら。
次の標的になるかもしれない。
それに、まだ相沢の本心を完全には信じられない。
怜司は慎重に文章を打った。
『ありがとう。でも、無理はしなくていい』
『相沢まで狙われたら困るから』
送信する。
少し間を置いて、返信が届いた。
『分かった』
『でも、俺が見たことは嘘にしたくない』
怜司は、その言葉を何度も読み返した。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……相沢」
昨日までは、教室に味方など一人もいないと思っていた。
だが、もしかすると。
少しずつ、何かが変わり始めているのかもしれない。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
高校の職員室では、田所浩一が不機嫌そうに椅子へ座っていた。
「……まったく、面倒なことになったな」
机の上には、教頭から渡された書類が置かれている。
黒瀬家からの正式な申し入れ。
いじめの事実確認。
生徒の安全確保。
そして、学校側の対応について文書での説明を求める内容だった。
「……たかが生徒同士の揉め事だろうに」
田所は小さく呟いた。
すると、背後から声がした。
「田所先生」
振り返ると、教頭が立っていた。
「……はい」
「黒瀬君の件ですが、校長先生がお呼びです」
田所は顔をしかめた。
「……今からですか?」
「ええ。鷹宮君の保護者からも連絡がありまして」
その言葉に、田所の表情が変わった。
「……鷹宮君の?」
「はい」
教頭は声を落とした。
「どうやら、黒瀬君との間で何か問題が起きていると聞いたようです」
田所は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「……分かりました」
校長室へ向かう廊下。
田所の頭には、一人の男の顔が浮かんでいた。
鷹宮隆臣。
地元で大きな影響力を持つ実業家。
学校の設備更新にも寄付をしている人物だ。
そして、翔真の父親。
「……厄介だな」
田所は小さく呟いた。
黒瀬家が外部へ相談を始めた。
その事実が、ようやく学校側にも重くのしかかり始めていた。
◇ ◇ ◇
夕方。
陽菜が美咲と一緒に帰宅した。
「ただいまー!」
元気な声が玄関から響く。
怜司は机から顔を上げた。
「……おかえり」
「お兄ちゃん!」
陽菜がぱたぱたと走ってくる。
「今日ね、学校で友達に褒められたんだよ!」
「……何を?」
「数学!」
陽菜は得意げに胸を張った。
「この前のテスト、九十二点だったでしょ? 先生がみんなの前で褒めてくれたの!」
「……すごいじゃん」
怜司は自然と笑った。
「頑張ったな」
「えへへ!」
陽菜は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、怜司は胸を撫で下ろした。
無事に帰ってきた。
それだけで、こんなにも安心する。
怜司は改めて思った。
――絶対に守る。
翔真たちが何を考えているのかは分からない。
だが、陽菜を怖がらせることだけは、二度と許したくなかった。
もちろん、だからといって感情に任せて殴り込むつもりはない。
家族を守るためには、冷静さも必要だ。
怜司は陽菜の頭をそっと撫でた。
「……今度、数学で分からないところがあったら聞いていいぞ」
陽菜が目を丸くする。
「……えっ?」
「……何?」
「お兄ちゃん、数学苦手じゃなかった?」
怜司は一瞬固まった。
確かに、以前の自分は数学が得意ではなかった。
だが今は、《万象習得》がある。
教科書を読めば、驚くほど理解が進む。
「……最近、ちょっと勉強してるんだ」
怜司は苦笑した。
陽菜は、ぱっと笑顔になった。
「じゃあ、今度教えてね!」
「……うん」
怜司は頷いた。
そして、ふと思った。
この力を使えば、妹の勉強も手伝える。
父や母の役に立つことだってできるかもしれない。
強くなること。
それは、誰かを殴り倒すことだけではない。
大切な人を支えることも、強さの一つなのだ。
◇ ◇ ◇
その夜。
怜司は自室の窓から、静かな住宅街を見下ろしていた。
街灯が、道路を淡く照らしている。
遠くから車の走る音が聞こえる。
いつもの日本の夜だった。
だが、怜司の中では、何もかもが変わり始めていた。
異世界では、エリシアという少女と出会った。
日本では、家族が本格的に動き始めた。
そして、相沢直人というクラスメイトが、初めて自分のために声を上げようとしてくれている。
少しずつ。
本当に少しずつだが。
孤独だった世界に、変化が生まれていた。
「……俺、もっと強くなりたい」
怜司は小さく呟いた。
ただ、翔真たちを見返すためではない。
父を安心させたい。
母を笑顔にしたい。
陽菜を守りたい。
そして、エリシアとの約束も守りたい。
そのためには、まだ足りない。
力も。
知識も。
経験も。
怜司は拳を握った。
「……明日、また異世界へ行こう」
もっと、この世界のことを知りたい。
魔物との戦い方を学びたい。
そして、いつか。
誰かに助けを求めるだけだった自分から、本当に誰かを守れる人間になりたい。
そう思ったとき。
スマートフォンが震えた。
「……ん?」
画面を見る。
送り主は、鷹宮翔真だった。
怜司の表情が、ゆっくりと引き締まる。
そこには、短い文章が表示されていた。
『お前、親に泣きついたんだって?』
続けて、もう一通。
『明日、学校来いよ』
そして。
『逃げたら、お前の家族がどうなっても知らねえぞ』
怜司は、しばらく画面を見つめていた。
胸の奥に、冷たい怒りが広がっていく。
だが、手は震えていなかった。
怜司は静かに画面を保存した。
そして、父へ見せるために立ち上がる。
「……翔真」
小さく呟いた。
「お前、本当に分かってないんだな」
自分を殴るだけなら、まだ耐えられた。
自分を笑いものにするだけなら、これまで何度も経験してきた。
だが。
家族を脅す。
それだけは、絶対に見過ごせない。
怜司はスマートフォンを握りしめた。
そして、静かに部屋の扉を開けた。
黒瀬家の反撃は、まだ始まったばかりだった。




