第89話 ベルン商会との新たな取引
第89話 ベルン商会との新たな取引
ルミエールの商業区。
大通りには、さまざまな店が並んでいた。
食料品。
衣服。
日用品。
そして、遠方から運ばれてきた珍しい品々。
怜司は人々の往来を眺めながら、一軒の商会へ向かっていた。
ベルン商会。
以前、日本から持ち込んだ菓子を買い取ってもらったことがある。
そのときから、商人のトーマス・ベルンには世話になっていた。
「……よし」
怜司は小さく息を吐き、商会の扉を開いた。
◇
「おや、レイジさん」
トーマスが笑顔で迎えてくれた。
「お久しぶりです」
「お久しぶりです、トーマスさん」
「今日は、どのようなご用件でしょう?」
怜司は少し緊張しながら答えた。
「実は、商売について相談したくて」
「商売、ですか?」
「はい」
怜司は頷いた。
「以前、商品を買い取っていただいたときから、ずっと考えていたんです」
トーマスは興味深そうに目を細めた。
「ほう」
「ただ物を売るだけじゃなくて、継続して取引できるようになりたいんです」
トーマスは少し考えた。
そして、椅子を勧めた。
「……詳しく聞かせていただきましょう」
◇
応接室。
怜司は持参したノートを広げた。
そこには、商品の種類や価格、仕入れに関する考えが書かれていた。
「まずは、小さな規模から始めたいと思っています」
「それは賢明ですね」
トーマスが頷く。
「商売は、最初から大きく始めればよいというものではありません」
「はい」
「大切なのは、需要を知ることです」
怜司は真剣に耳を傾けた。
「例えば、珍しい商品が一度売れたからといって、次も同じように売れるとは限りません」
「……なるほど」
「価格が高すぎれば、買える人は限られます。逆に安すぎれば、利益が残らない」
怜司はノートへ書き留めた。
「それから、商品の品質を一定に保つことも大切です」
「品質……」
「前回はよかったのに、次は悪かった。そうなれば信用を失います」
怜司は頷いた。
日本で勉強した内容ともつながっている。
商売は、ただ珍しい物を持ってくれば成功するわけではない。
買う人がいて、売る人がいて、その間に信頼が生まれる。
その積み重ねが大切なのだ。
「……勉強になります」
怜司が言うと、トーマスは微笑んだ。
「レイジさんは、素直に学ぼうとなさいますね」
「まだ分からないことばかりなので」
「それでよいのです」
トーマスは頷いた。
「分からないことを分からないと認められる人は、商人として成長できます」
◇
その後、二人は具体的な取引について話し合った。
怜司が持ち込める商品。
商会が扱いやすい数量。
販売価格。
売れ残った場合の対応。
そして、利益の分配。
「最初は、試験販売という形にしましょう」
トーマスが提案した。
「試験販売?」
「ええ。少量の商品を預かり、実際にどの程度売れるか確認するのです」
怜司は考えた。
「それなら、失敗したときの損失も小さくできますね」
「その通りです」
トーマスは満足そうに頷いた。
「ただし、仕入れや運搬にかかる費用は、きちんと記録してください」
「分かりました」
「利益が出た場合も、売上と混同しないことです」
怜司はノートへ大きく書き込んだ。
売上と利益は違う。
その基本を、忘れないように。
◇
商談が終わった後、トーマスは少し真剣な表情になった。
「レイジさん」
「はい」
「一つ、覚えておいていただきたいことがあります」
「何でしょう?」
「商売は、人との信用で成り立っています」
怜司は静かに頷いた。
「珍しい商品を持っていることは、確かに強みです」
「はい」
「ですが、それだけでは長く続きません」
トーマスは微笑んだ。
「約束を守ること。品質を保つこと。相手の立場を考えること」
怜司は真剣に耳を傾けた。
「その積み重ねが、やがて大きな財産になります」
「……ありがとうございます」
怜司は深く頭を下げた。
「僕、頑張ります」
「ええ。期待していますよ」
◇
商会を出た怜司は、街の大通りを歩いていた。
手元には、試験販売に関する簡単な契約書がある。
初めて、自分の意思で商売の約束を交わした。
まだ小さな取引だ。
利益が出るかどうかも分からない。
それでも、胸の奥には確かな高揚感があった。
「……一歩前進、かな」
怜司は小さく笑った。
冒険者として魔物と戦うこととは違う。
知識を使い、人と話し合い、互いに利益が出る方法を考える。
それもまた、新しい挑戦だった。
◇
その日の夜。
日本へ戻った怜司は、自室でノートを開いていた。
ベルン商会との取引。
商品の管理。
仕入れ費用。
利益の計算。
学ばなければならないことは山ほどある。
けれど、不思議と苦ではなかった。
「……楽しいな」
怜司は小さく呟いた。
以前の自分なら、こんなふうに勉強へ夢中になることはなかっただろう。
けれど今は、学んだことが現実の行動につながっている。
それが嬉しかった。
ふと、スマートフォンが震えた。
藤宮詩織からのメッセージだった。
『黒瀬君。先日お話ししていた会計の本、図書室にありました』
怜司は微笑んだ。
『ありがとうございます。今度、一緒に見てもらえますか?』
すぐに返事が届く。
『はい。喜んで』
怜司はスマートフォンを置いた。
日本でも、異世界でも。
自分を支えてくれる人がいる。
そのことが、今の怜司には何より心強かった。
「……もっと頑張ろう」
怜司は再びノートへ向かった。
少年の新しい挑戦は、まだ始まったばかりだった。




