第82話 令嬢が自覚した恋心
第82話 令嬢が自覚した恋心
西園寺麗華は、自分がこれほど一人の少年のことを考えるようになるとは、思ってもいなかった。
朝、制服に袖を通すとき。
登校する車の窓から街並みを眺めるとき。
授業の合間に、ふと視線を上げたとき。
気がつけば、黒瀬怜司の姿を探している。
「……困りましたわね」
自室の鏡に向かって、麗華は小さく呟いた。
彼は、特別に目立とうとする人ではない。
誰かに褒められたくて行動するわけでもない。
困っている人がいれば、当たり前のように手を差し伸べる。
そして、自分のしたことを誇らしげに語ったりしない。
その自然な優しさが、いつの間にか麗華の心に入り込んでいた。
◇
聖蘭学園。
放課後の研究室には、六人のメンバーが集まっていた。
「では、体験会当日の役割分担を最終確認しましょう」
九条院澪が資料を広げる。
子供たちのためのスポーツ体験会。
研究班が準備してきた活動も、いよいよ本番が近づいていた。
「受付と保護者への説明は、私が中心となって担当いたします」
麗華が言う。
「安全管理は私が確認します。運動中に体調が悪くなった子がいた場合の対応も、先生方と共有してあります」
澪が続けた。
「競技の進行は俺だな!」
隼人が元気よく手を挙げる。
「予算と備品の最終確認は僕がやるよ」
蒼真が頷く。
「アンケートは私が準備します」
詩織が静かに答えた。
最後に、怜司が口を開く。
「僕は、子供たちが安心して参加できるように、現場でサポートします」
麗華はその横顔を見つめた。
彼は、難しい役割を引き受けたという意識さえなさそうだった。
けれど、運動が苦手な子供に寄り添うことが、どれほど大切か。
麗華には分かっていた。
「黒瀬さん」
「はい、麗華さん」
「当日の子供たちへの声かけについて、少しご相談してもよろしいですか?」
「もちろんです」
怜司が笑顔で答える。
それだけで、麗華の胸がわずかに高鳴った。
以前なら、こんなことはなかった。
彼と話すことは楽しかったが、心が落ち着かなくなるほどではなかったはずだ。
なのに今は、笑顔を向けられるだけで嬉しい。
その変化を、麗華自身が一番よく分かっていた。
◇
打ち合わせが終わった後。
麗華と怜司は、教室に残って資料を整理していた。
「黒瀬さんは、子供たちへの接し方がとても自然ですわね」
麗華が言う。
「そうですか?」
「ええ。先日の準備でも、緊張していた子に優しく話しかけていらっしゃいました」
怜司は少し照れくさそうに笑った。
「僕も昔は、運動が苦手だったので」
「……そうなのですか?」
「はい。人前で失敗するのが怖かったんです」
麗華は静かに耳を傾けた。
怜司が過去のことを話すとき、時折見せる表情。
そこには、今の彼からは想像しにくい痛みがあった。
「笑われるのが嫌で、何かに挑戦すること自体を避けていた時期もありました」
怜司は資料を揃えながら続けた。
「だから、子供たちにはそうなってほしくないんです」
「……黒瀬さん」
「速く走れなくても、上手にできなくても、頑張ったことを認めてもらえたら嬉しいじゃないですか」
麗華は、すぐには答えられなかった。
彼は、自分が傷ついた経験を、誰かを傷つける理由にはしなかった。
むしろ、誰かを守るために使おうとしている。
そのことが、たまらなく眩しかった。
「……本当に、お優しいのですね」
「そんなことないですよ」
怜司は苦笑した。
「ただ、僕がしてほしかったことを、できるだけしてあげたいだけです」
麗華はそっと微笑んだ。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった感情が、はっきりと形を持った気がした。
◇
帰り道。
麗華は車の後部座席で、窓の外を見つめていた。
今日の怜司の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
優しい人だと思っていた。
尊敬できる人だとも思っていた。
けれど、それだけではない。
彼が笑うと嬉しい。
彼が誰かに褒められると、自分のことのように誇らしい。
そして、彼が九条院澪と楽しそうに話している姿を見ると、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
「……嫉妬、ですわね」
口にした瞬間、麗華は自分の頬が熱くなるのを感じた。
澪を嫌っているわけではない。
むしろ、心から尊敬している。
だからこそ、簡単には割り切れなかった。
澪もまた、怜司を大切に想っている。
そのことは、もう疑いようがなかった。
「……私は」
麗華は胸元に手を当てた。
「黒瀬さんが、好きなのですね」
初めて、その気持ちをはっきりと言葉にした。
不思議だった。
認めてしまえば、もっと苦しくなると思っていた。
けれど実際には、胸の中が少しだけ軽くなった。
自分の気持ちが分かったからだ。
◇
その夜。
麗華は机に向かい、研究発表会の資料を確認していた。
しかし、文字がなかなか頭に入ってこない。
ふと、スマートフォンへ視線を向ける。
怜司との連絡先。
研究に関する連絡なら、これまで何度もやり取りしてきた。
けれど、今は違う。
何でもない話をしてみたい。
彼が今日、何をしていたのか知りたい。
そんなことを考えている自分に、麗華は小さく笑った。
「……私らしくありませんわね」
けれど、悪い気はしなかった。
恋をしたからといって、自分らしさを失う必要はない。
西園寺麗華として、正々堂々と向き合えばいい。
そう考えたとき、ある決意が生まれた。
研究活動が終わったら。
今度は、学校の用事とは関係なく、怜司を誘ってみよう。
二人で街を歩き、話をして、彼のことをもっと知りたい。
「……九条院さん」
麗華は小さく呟いた。
「私も、簡単には譲れませんわ」
その声には、静かな強さが宿っていた。
恋を自覚した令嬢は、もう自分の気持ちから目を逸らさない。
そして翌日から、怜司を見つめる彼女の眼差しは、ほんの少しだけ変わっていくのだった。




