第81話 令嬢たちの静かな攻防
第81話 令嬢たちの静かな攻防
放課後の聖蘭学園。
窓から差し込む秋の日差しが、机の上に広げられた資料を明るく照らしていた。
「まず、研究発表会の進捗を確認しよう」
一条蒼真がノートパソコンを開いた。
「学校側から企画の実施許可が下りた。ただし、保護者の同意、安全管理体制、参加人数の上限を明確にすることが条件だ」
「よっしゃ! ようやく本格的に動けるな!」
神崎隼人が嬉しそうに拳を握る。
「まだ喜ぶのは早いよ、隼人。ここからが大変なんだから」
怜司が苦笑すると、隼人は豪快に笑った。
「分かってるって! でもさ、こういうのってワクワクするだろ?」
「それは僕も同じだよ」
今回の企画は、子供たちが運動の楽しさを知るためのスポーツ体験会だ。
運動が得意な子も、苦手な子も、一緒になって楽しめる場所を作る。
その理念に、怜司は心から共感していた。
かつての自分は、運動することが嫌いだった。
正確には、運動そのものが嫌いだったわけではない。
失敗を笑われること。
周囲と比較されること。
そして、何をしても馬鹿にされることが怖かったのだ。
だからこそ、今回の企画には特別な思いがあった。
「レイジさん?」
隣から声をかけられ、怜司は顔を上げた。
九条院澪が、少し心配そうにこちらを見ている。
「何か気になることがありましたか?」
「あ、いえ。参加する子供たちが、楽しかったって思える会にしたいなって」
「ふふっ。レイジさんらしいですね」
澪は柔らかく微笑んだ。
その表情を見て、怜司も自然と笑みを返す。
そんな二人の様子を、西園寺麗華は静かに見つめていた。
以前なら、特に気に留めなかった光景だろう。
けれど今は違う。
二人の間に流れる親密な空気が、妙に気になってしまうのだ。
「九条院さん」
「はい、西園寺さん」
「安全管理について、一つ提案がございますわ」
麗華は手元の資料を開いた。
「今回の参加対象は小学生ですから、年齢によって競技の難易度を変えるべきだと思いますの。それから、保護者の方にも事前に詳しい説明を行いたいですわ」
「素晴らしい提案だと思います」
澪はすぐに頷いた。
「私も安全対策を考えていましたが、保護者の方への説明はもう少し充実させる必要がありそうですね」
「ありがとうございます。そこで、黒瀬さんにもご意見を伺いたいのですけれど」
「僕ですか?」
「ええ。黒瀬さんは、いつも参加する方の立場で物事を考えていらっしゃいますから」
「そんな大したことは……」
「ご謙遜なさらないでくださいませ」
麗華は優雅に微笑んだ。
「私、黒瀬さんのそういうところを信頼しておりますのよ」
「ありがとうございます。僕でよければ、喜んで」
怜司が笑うと、麗華の胸が小さく跳ねた。
――本当に、自然に笑われる方ですわね。
そんなことを考えていると、澪が穏やかに口を開いた。
「それでしたら、レイジさん。私がまとめた安全管理の資料も、後ほど一緒に確認していただけますか?」
「もちろんです、澪さん」
「ありがとうございます」
澪が嬉しそうに微笑む。
麗華はその様子を見て、少しだけ目を細めた。
「九条院さん。黒瀬さんもお忙しいでしょうから、時間を分けてお願いした方がよろしいのでは?」
「そうですね。では、先に西園寺さんの資料を確認していただきましょう」
「あら、よろしいのですか?」
「ええ。募集案内が完成しなければ、参加者も集められませんもの」
「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えますわ」
二人は微笑み合った。
言葉遣いは丁寧で、態度も穏やか。
しかし、そのやり取りを聞いていた隼人は、なぜか落ち着かない様子だった。
「……なあ、蒼真」
「何だ?」
「なんか、すげえ高度な会話してないか?」
「普通の打ち合わせだろう」
「いや、そうなんだけどさ」
隼人は声を潜める。
「なんかこう、見えない火花が散ってるような……」
「だったら見なかったことにしておけ」
「お前、絶対分かってるだろ!」
蒼真は涼しい顔で資料をめくった。
「僕たちの仕事は企画を成功させることだ。余計なことに首を突っ込む必要はない」
「……なるほどな」
隼人は妙に納得した。
もっとも、怜司本人だけは、二人の令嬢の間にある微妙な変化にまったく気づいていなかった。
◇
打ち合わせが終わった後。
怜司は麗華と並んで資料の確認をしていた。
「こちらが、保護者向けの説明文ですわ」
「すごいですね。もうここまで完成しているんですか?」
「まだ修正したい部分はございますけれど」
麗華が差し出した資料には、企画の目的から安全対策まで、丁寧な文章が並んでいた。
怜司は一通り目を通すと、ある部分で手を止めた。
「麗華さん。ここなんですけど」
「はい?」
「『競技能力の向上』って書いてありますよね」
「ええ」
「それも大事だと思うんです。でも、僕は運動が苦手な子にも、楽しいって感じてもらいたいんです」
麗華は静かに耳を傾けた。
「だから、『上手にできなくても大丈夫』っていうことを、もっと伝えられたらいいなって」
「……なるほど」
麗華は少し考え込んだ。
「確かに、能力の向上ばかりを強調すると、運動が苦手なお子様は参加をためらうかもしれませんわね」
「はい。僕も昔は運動が苦手でしたから」
「黒瀬さんが?」
麗華は思わず聞き返した。
現在の怜司からは、とても想像できない。
「はい。体育の時間なんて、正直あまり好きじゃありませんでした」
「……そうでしたの」
麗華はそれ以上、無理に聞こうとはしなかった。
ただ、彼が少しだけ寂しそうな顔をしたことが気になった。
「では、こういたしましょう」
麗華はペンを取った。
「『運動が得意な子も、苦手な子も。みんなで楽しみながら、新しい自分を見つけよう』」
「……いいですね!」
怜司の表情が明るくなる。
「それ、すごくいいと思います!」
「ふふっ。ありがとうございます」
麗華は嬉しそうに笑った。
自分の考えを認めてもらえたことが、こんなにも嬉しい。
その事実に、彼女自身が驚いていた。
◇
一方、少し離れた席では、澪が詩織とアンケートの内容を確認していた。
「藤宮さん。この質問、とても分かりやすいですね」
「ありがとうございます。黒瀬君にも意見をもらったんです」
「レイジさんに?」
「はい。小さい子供でも答えやすいようにって」
詩織は少し照れくさそうに微笑んだ。
「黒瀬君と一緒に考えていると、自分では気づかなかったことに気づけるんです」
「……そうなのですね」
澪は優しく頷いた。
詩織の表情から、彼女が怜司との時間を大切にしていることが伝わってくる。
麗華だけではない。
怜司の周囲には、彼の優しさに惹かれている少女がいる。
そのことを、澪は改めて実感した。
けれど、不思議と焦りはなかった。
自分には、自分だけが怜司と積み重ねてきた時間がある。
水族館で一緒に過ごした日。
二人で歩いた帰り道。
何気ない会話の中で見つけた、彼の優しさ。
それらは、誰かと比べるものではない。
「九条院さん?」
「何でもありません。続きを確認しましょう」
澪は微笑んだ。
◇
夕方。
資料の確認を終えた怜司が帰り支度をしていると、麗華が声をかけてきた。
「黒瀬さん」
「はい?」
「今日はありがとうございました。おかげで、とても良い資料になりましたわ」
「僕は少し意見を言っただけですよ。ほとんど麗華さんが考えたことですから」
「……そういうところですわ」
「え?」
「いえ。何でもございません」
麗華は小さく笑った。
そこへ澪が近づいてくる。
「レイジさん、日曜日の件ですが」
「ああ、備品の確認ですね」
「はい。午前十時頃からではいかがでしょう?」
「大丈夫です」
「ありがとうございます。では、駅前でお待ちしていますね」
麗華はその会話を聞きながら、静かに考えた。
澪は怜司と二度もデートをしている。
二人の間には、すでに確かな信頼関係がある。
それは簡単に追いつけるものではないだろう。
しかし。
――だからといって、諦める理由にはなりませんわ。
「黒瀬さん」
「はい、麗華さん」
「私も、来週の資料確認を楽しみにしております」
「はい。僕もです」
その返事を聞いて、麗華は心の中で小さく微笑んだ。
そして、澪へ視線を向ける。
澪もまた、静かに麗華を見つめ返した。
互いの気持ちを知っているからこそ、余計な言葉は必要なかった。
誰かを傷つけて手に入れる恋など、二人とも望んでいない。
けれど、自分の想いまで譲るつもりもない。
放課後の教室で始まった静かな攻防。
それは、二人の令嬢が初めて自分自身の恋心と向き合う、大切な時間でもあった。




