第79話 陸上少女の胸騒ぎ――いつもの笑顔が違って見えた日
第79話 陸上少女の胸騒ぎ――いつもの笑顔が違って見えた日
「よーし! じゃあ、実際にやってみよう!」
放課後の聖蘭学園。
校庭の一角で、橘美月が元気よく声を上げた。
今日は研究発表会に向けた、スポーツ体験会の試験運営の日だった。
企画チームの六人に加え、運動部の協力者として美月が参加している。
「まずは障害物リレー! ただし、速さだけを競うんじゃなくて、二人で協力するのがポイントね!」
美月は地面に置かれたコーンを指さした。
「二人一組でボールを運んで、途中の障害物を避けながらゴールを目指すの。片方だけ速くても駄目。息を合わせないとね」
「なるほど。子供たちにも分かりやすそうだ」
怜司が頷く。
「でしょ? あたし、こういうの考えるの結構好きなんだ!」
美月は得意げに胸を張った。
運動が得意な彼女にとって、体を動かす企画はまさに本領発揮だった。
「じゃあ、試しにやってみる?」
「いいね」
「よし! 怜司、あたしと組んで!」
「うん、よろしく!」
あまりにもあっさりと了承され、美月は一瞬だけ目を瞬かせた。
「……あ、うん!」
普段なら何とも思わないはずだった。
けれど、今日はなぜか少しだけ落ち着かない。
(……何だろ、これ)
隼人が笑いながら声をかける。
「美月、怜司に負けるなよ!」
「協力する競技なんだけど!?」
「そうだったな!」
皆の笑い声が校庭に響いた。
◇◆◇
試験競技が始まった。
「怜司、右!」
「了解!」
「次、左! ちょっと速度落として!」
「分かった!」
二人は息を合わせてコーンの間を抜けていく。
美月は走りながら、思わず感心していた。
(……すごい)
怜司の動きは無駄がない。
けれど、それ以上に驚いたのは、こちらに合わせるのが上手いことだった。
美月が速度を上げれば、自然についてくる。
少しバランスを崩せば、すぐに歩幅を調整する。
相手を引っ張るのではなく、相手が動きやすいように合わせてくれる。
「よし、ゴール!」
二人は最後までボールを落とさず、無事に走り切った。
「やった!」
美月が笑顔で手を上げる。
怜司も笑って、その手に軽く触れた。
ぱんっ。
乾いた音が響く。
ただのハイタッチ。
それだけなのに。
(……え?)
美月の胸が、どきんと跳ねた。
「美月さん?」
「えっ!?」
「どうしたの?」
「な、何でもない!」
美月は慌てて手を引っ込めた。
怜司は不思議そうに首を傾げる。
「そっか。あ、でも今の競技、ちょっと難しくないかな?」
「え?」
「俺たちはできたけど、小学生だとボールを落としやすいかもしれない」
「あ……確かに」
美月は競技用のボールを見た。
少し大きく、滑りやすい。
「じゃあ、もっと柔らかくて軽いボールにしようかな」
「いいと思う。それに、途中で落としても最初からやり直しじゃなくて、その場所から再開できたら楽しそう」
「それ、いい!」
美月は勢いよく頷いた。
「怜司って、結構こういうの考えるの得意だよね」
「いや、美月さんが元の競技を考えてくれたからだよ」
「……そ、そう?」
「うん。子供たち、きっと喜ぶと思う」
その笑顔を見た瞬間。
美月は、また胸が跳ねるのを感じた。
(……何なのよ、もう)
◇◆◇
試験運営は順調に進んだ。
ただ、一つ問題が見つかった。
運動が苦手な子供にとっては、競技の説明が少し複雑だったのだ。
「うーん……」
美月は腕を組んだ。
「簡単にしすぎると、今度は得意な子が退屈しちゃうんだよね」
「そうだね」
怜司はしばらく考えた。
そして、地面に置かれたコーンを一つ持ち上げる。
「じゃあ、難易度を選べるようにしたらどうかな?」
「難易度?」
「うん。短いコースと長いコースを用意して、好きな方を選べるようにするんだ」
「……あ!」
美月の目が輝いた。
「それなら、みんな自分に合った挑戦ができる!」
「それに、途中でコースを変えてもいいことにすれば、無理しなくて済むよ」
「いいじゃん、それ!」
美月は思わず怜司の腕をつかんだ。
「怜司、天才!」
「いや、そんな大げさな」
怜司が照れくさそうに笑う。
その顔を見て、美月はようやく自分が腕をつかんだままだと気づいた。
「あっ!」
慌てて手を離す。
「ご、ごめん!」
「え? 全然大丈夫だよ」
「そ、そう……」
美月は顔を背けた。
(……やばい)
頬が熱い。
こんなこと、今までなかった。
男子と一緒に練習することも、肩を組んで喜ぶことも、別に珍しくない。
それなのに。
(何で怜司だと、こんなに意識しちゃうんだろ)
◇◆◇
片づけが終わる頃、澪が美月のもとへやって来た。
「橘さん、今日はありがとうございました」
「ううん! あたしも楽しかったよ!」
「おかげで、競技の改善点がたくさん見つかりました」
「そう言ってもらえると嬉しいな」
美月は笑った。
そのとき、少し離れた場所から怜司の声がした。
「澪さん!」
「はい、レイジさん」
「安全対策の資料、あとで一緒に確認してもらっていい?」
「もちろんです」
澪は嬉しそうに微笑む。
怜司も自然に笑い返した。
その光景を見た瞬間。
美月の胸に、小さな痛みが走った。
(……あれ?)
別に、二人が仲良くしているのは知っている。
今までも何度も見てきた。
それなのに、どうして今日は気になるのだろう。
「橘さん?」
澪に呼ばれ、美月は慌てて笑顔を作った。
「あ、ごめん! ちょっとぼーっとしてた!」
「お疲れですか?」
「全然! 元気元気!」
美月は両手を振った。
澪は安心したように微笑む。
「それならよかったです」
その優しさに、美月は少しだけ胸が苦しくなった。
(……澪って、本当にいい子なんだよね)
だからこそ、余計に戸惑う。
自分が何を感じているのか、まだはっきり分からない。
けれど。
怜司が澪に向ける笑顔を見て、少しだけ寂しくなった。
その事実だけは、否定できなかった。
◇◆◇
帰り道。
美月は一人、夕暮れの空を見上げた。
「……はあ」
思わずため息が漏れる。
「何やってんだろ、あたし」
走ることなら得意だ。
競争だって嫌いじゃない。
目標があれば、迷わず全力で向かっていける。
なのに。
自分の気持ちのことになると、こんなにも分からなくなる。
「……怜司、か」
小さく名前を呟く。
すると、さっきの笑顔が頭に浮かんだ。
楽しそうに笑う顔。
真剣に考える横顔。
自分の意見を、まっすぐ受け止めてくれる声。
美月は両手で頬を押さえた。
「……うわ、何これ」
心臓が、また速くなる。
走ってもいないのに。
全力疾走した後みたいに。
「……もしかして、あたし」
そこまで言って、美月は口を閉じた。
まだ認めるには、少しだけ勇気が必要だった。
けれど、確かなことが一つある。
明日も、怜司に会いたい。
そして、できるなら。
また一緒に笑いたい。
橘美月の胸に芽生えた感情は、まだ小さなものだった。
だが、その鼓動はもう、昨日までとは違っていた。




