第76話 令嬢たちの思惑――始まりは一枚の企画書
第76話 令嬢たちの思惑――始まりは一枚の企画書
私立聖蘭学園。
その図書館の奥に設けられたグループ学習室では、六人の生徒が一つの机を囲んでいた。
「それじゃあ、改めて企画を整理しようか」
最初に口を開いたのは、一条蒼真だった。
机の中央には、昨日までにまとめられた企画書が置かれている。
題名は『子供たちのためのスポーツ体験会――運動を通じた交流と成長の研究』。
来月開催される学園研究発表会に向け、怜司たちが考えた企画だった。
「対象は小学生。学園の施設を利用して、運動が得意な子も苦手な子も楽しめる体験会を開く。その過程で、運動への意欲や他者との協力について調べる。ここまでは決まっているね」
「おう。で、俺は実技担当だな!」
神崎隼人が勢いよく手を挙げる。
「隼人、実技だけじゃ研究にならないよ」
「分かってるって。参加した子供たちに、楽しかったかどうか聞けばいいんだろ?」
「質問項目はもう少し工夫した方がいいですね」
藤宮詩織が静かに口を挟んだ。
「例えば、始める前と終わった後で、運動に対する気持ちが変わったか。初対面の子と協力できたか。そういう項目を用意すると、比較しやすいと思います」
「なるほど……」
怜司が感心したように頷く。
「詩織さん、すごいね。そこまで考えてなかったよ」
「……ありがとうございます」
詩織は控えめに微笑んだ。
その様子を、少し離れた席から見つめる少女がいた。
西園寺麗華。
名門西園寺家の令嬢であり、聖蘭学園でも優秀な生徒として知られる存在だ。
彼女は手元の資料に視線を落としながら、心の中で小さく息をついた。
(黒瀬さんは、本当に不思議な方ですわね)
この学園には、優秀な生徒が大勢いる。
知識を誇る者もいれば、才能を武器にする者もいる。
けれど黒瀬怜司は、誰かが自分より優れたことを示しても、少しも悔しそうな顔をしない。
むしろ、心から感心する。
そして、素直に教えを求めるのだ。
「麗華さんはどう思う?」
不意に名前を呼ばれ、麗華は顔を上げた。
怜司がこちらを見ている。
「え?」
「参加者の募集方法。麗華さんなら、何かいい案があるかなって」
「……そうですわね」
麗華は姿勢を正した。
「学園の名前だけで募集するより、地域の小学校や保護者の方々に、企画の目的をきちんと説明する方がよろしいと思います」
「確かに。知らない学校のイベントに子供を預けるのは、不安もあるよね」
「ええ。ですから、安全対策と責任者を明確にした案内を用意しましょう。それに、参加費は無料にしたいですわ」
蒼真が頷く。
「予算は僕が試算するよ。学校側の許可と協力が得られれば、十分実現できると思う」
「では、わたくしは保護者向けの説明文を担当いたします」
「ありがとう、麗華さん」
怜司は嬉しそうに笑った。
「やっぱりみんなと組んでよかった。俺一人じゃ、絶対ここまで考えられなかったよ」
その言葉を聞いた瞬間。
麗華の胸が、わずかに跳ねた。
(……あら?)
別に、特別なことを言われたわけではない。
ただ感謝されただけ。
それなのに、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
「麗華さん?」
「は、はい」
「無理しないでね。説明文って、かなり大変そうだから」
「ご心配には及びませんわ。こういった文章をまとめるのは得意ですもの」
「そっか。でも困ったら言って。俺も手伝うから」
あまりにも自然な言葉だった。
恩を売ろうとする様子も、相手を特別扱いするような態度もない。
ただ、仲間だから助けたい。
そう言っているのが分かる。
(……困りましたわね)
麗華は自分でも気づかないうちに、口元を緩めていた。
そのとき。
「レイジさん」
柔らかな声がした。
九条院澪だった。
「企画書の目的について、少しご相談してもよろしいですか?」
「もちろん。どうしたの、澪さん?」
怜司は迷いなく澪の方へ体を向ける。
その距離感は、ごく自然だった。
澪もまた、当たり前のように怜司の隣へ椅子を寄せる。
「運動が苦手な子供たちにも参加してほしいのでしたら、競争だけではなく、協力して達成する種目が必要だと思うんです」
「確かに。勝ち負けだけだと、苦手な子が楽しめないかもしれない」
「はい。ですから、みんなで一つの目標を達成するような競技を……」
二人は一枚の資料を覗き込んで話し始めた。
その光景を見て、麗華は目を細める。
(九条院さんと黒瀬さん……随分と親しいのですわね)
以前から、二人の仲が良いことは知っていた。
けれど、改めて目の前で見ると、思っていた以上に距離が近い。
澪が何かを話すと、怜司は真剣に耳を傾ける。
怜司が笑えば、澪も嬉しそうに微笑む。
そこには、他の友人とは少し違う空気があった。
「……西園寺さん?」
詩織に呼ばれ、麗華は我に返る。
「どうかなさいましたか?」
「いいえ。少し考え事をしていただけですわ」
麗華は微笑みを返した。
けれど、その胸の内には小さな疑問が残っていた。
なぜ、自分は二人の距離が気になるのだろう。
◇◆◇
話し合いは一時間ほど続いた。
最終的に、役割は次のように決まった。
蒼真は予算と施設利用の調整。
隼人は競技内容と当日の進行。
詩織はアンケート設計と研究データの整理。
麗華は募集案内と保護者向け資料。
澪は全体の企画構成と安全対策。
そして怜司は、各担当の補助と当日の運営を中心に動くことになった。
「レイジ、お前の担当が一番広くないか?」
隼人が苦笑する。
「そうかな?」
「そうだよ。全部に顔出すつもりだろ」
「みんなの仕事を少しでも手伝えたらいいなって」
「相変わらずだな、お前」
蒼真も笑った。
「でも、無理はしないでね。君が倒れたら困るのは僕たちだから」
「分かった。気をつけるよ」
怜司は素直に頷いた。
その姿を見て、麗華はふと思った。
(この方は、どうしてこんなにも自然に人のために動けるのでしょう)
名門の子息や令嬢の中には、人に親切にすることさえ、何かの計算につなげる者がいる。
だが、怜司にはそれがない。
できることをする。
困っている人を助ける。
感謝されたら、照れくさそうに笑う。
それだけなのだ。
話し合いが終わり、皆が荷物を片づけ始めたときだった。
「西園寺さん」
怜司が麗華の机の横に立った。
「募集案内の資料、俺にも一度見せてもらっていいかな?」
「もちろんですわ。ですが、まだ下書きもできておりませんのよ?」
「うん。だから、何か手伝えることがあればと思って」
「……では」
麗華は一瞬だけ迷った。
そして、微笑んだ。
「明日の放課後、少しお時間をいただけますか?」
「大丈夫だよ」
「それでは、一緒に資料を作っていただけると嬉しいですわ」
「もちろん!」
即答だった。
麗華は思わず目を瞬かせる。
そして、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます、黒瀬さん」
「こちらこそ。よろしくね」
怜司が去っていく。
その背中を見送りながら、麗華はそっと胸元に手を当てた。
(……おかしいですわ)
ただの共同作業。
ただの放課後の約束。
それなのに。
(明日が、こんなにも楽しみだなんて)
自分の気持ちに名前をつけるには、まだ少し早かった。
けれど、西園寺麗華の日常には、この日から確かな変化が生まれ始めていた。
そして、その変化を。
九条院澪は、静かに見つめていたのだった。




