第73話 令嬢との二度目の休日――近づく心と小さな約束
金曜日の放課後。
聖蘭学園の図書館で、黒瀬怜司は一冊の旅行雑誌を開いていた。
ページに並ぶのは、街の小さな美術館や水族館、庭園の写真。
隣には、スマートフォンとメモ帳が置かれている。
「……こっちの方がいいかな」
怜司は、写真を見比べた。
明日は、九条院澪と出かける約束をしていた。
前回は、澪が書店やカフェを案内してくれた。
だから次は、自分が行き先を考える。
そう約束したのである。
しかし、いざ計画を立ててみると、意外に難しかった。
澪が楽しめる場所。
落ち着いて話せる場所。
そして、あまり気を遣わせない場所。
考えれば考えるほど、候補が増えていく。
「……難しいな」
「何が難しいの?」
不意に声をかけられ、怜司は顔を上げた。
一条蒼真だった。
「蒼真」
「隣、いい?」
「もちろん」
蒼真は椅子へ腰を下ろし、机の上の雑誌を見た。
「お出かけ?」
「うん。明日、澪さんと」
蒼真の表情が、わずかに変わった。
「……なるほど」
「何?」
「いや、楽しそうだなと思って」
蒼真は、口元に笑みを浮かべた。
怜司は、少し顔を赤くした。
「別に、そういう……」
「僕はまだ何も言ってないよ?」
「……蒼真」
蒼真は、楽しそうに笑った。
そして、雑誌を覗き込んだ。
「水族館か。いいんじゃない?」
「そう思う?」
「うん。天候に左右されにくいし、展示を見ながら自然に話せるからね」
怜司は頷いた。
「俺も、それがいいかなって」
「ただし」
蒼真が人差し指を立てた。
「予定を詰め込みすぎないこと」
「……え?」
「全部見せようとすると、疲れちゃうからね。二人でゆっくり過ごす時間を残しておいた方がいいよ」
怜司は、少し考えた。
確かに、観光地を回ることが目的ではない。
澪と楽しい時間を過ごすことが、一番大切なのだ。
「……ありがとう、蒼真」
「どういたしまして」
蒼真は立ち上がった。
そして、少しだけ振り返る。
「あと、怜司」
「ん?」
「服装は、前に一緒に遊んだときの感じでいいと思うよ」
怜司は、目を丸くした。
「……何でそこまで分かるの?」
蒼真は笑った。
「顔に書いてあるから」
怜司は、思わず机に突っ伏した。
◇ ◇ ◇
翌朝。
待ち合わせ場所の駅前広場。
怜司は、少し早めに到着していた。
今日は、白いシャツに薄手のジャケット。
落ち着いた色のパンツを合わせている。
鏡で見たときは悪くないと思ったものの、やはり少し緊張していた。
「……早すぎたかな」
スマートフォンを見る。
約束の時間まで、あと十五分。
そのときだった。
「レイジさん!」
聞き慣れた声が響いた。
振り返ると、澪が歩いてきていた。
淡い水色のワンピース。
白いカーディガン。
長い黒髪は、普段より少し柔らかくまとめられている。
怜司は、一瞬言葉を失った。
「……澪さん」
澪は、嬉しそうに微笑んだ。
「おはようございます」
「おはようございます」
怜司は、少し照れくさくなった。
「……今日の服、すごく似合ってますね」
澪の頬が、ほんのり赤くなった。
「……ありがとうございます」
そして、怜司を見つめた。
「レイジさんも、とても素敵です」
今度は怜司が赤くなる番だった。
「……ありがとうございます」
二人は、少し照れくさそうに笑い合った。
「それで、今日はどちらへ?」
澪が尋ねる。
怜司は、笑顔で答えた。
「水族館へ行こうと思ってます」
澪の目が輝いた。
「水族館ですか!」
「はい。嫌じゃなければ」
「もちろんです!」
澪は、嬉しそうに頷いた。
「実は、しばらく行っていなかったので楽しみです」
怜司は、ほっと胸を撫で下ろした。
「……よかった」
◇ ◇ ◇
水族館へ到着すると、二人は大きな水槽の前で足を止めた。
青い光が、館内を静かに照らしている。
色鮮やかな魚たちが、ゆったりと泳いでいた。
「……綺麗ですね」
澪が、小さく呟いた。
怜司も頷いた。
「本当に」
水槽の中を、一匹の大きなエイが通り過ぎていく。
澪は、思わず目を輝かせた。
「レイジさん、見てください!」
「……あっ」
エイが、まるで空を飛ぶように泳いでいる。
怜司は、思わず笑った。
「すごいな」
澪も、楽しそうに笑った。
「本当に!」
その笑顔を見た瞬間、怜司は思った。
――……来てよかった。
普段の澪は、上品で落ち着いている。
学園でも、誰に対しても丁寧だ。
だが、今は少し違う。
目を輝かせ、純粋に楽しんでいる。
その姿が、怜司にはとても魅力的に見えた。
◇ ◇ ◇
クラゲの展示室。
薄暗い空間に、青白い光が浮かんでいた。
透明なクラゲたちが、ゆっくりと水中を漂っている。
澪は、静かに水槽を見つめていた。
「……不思議ですね」
「何がですか?」
「こうして見ていると、時間がゆっくり流れているみたいです」
怜司は、水槽へ目を向けた。
確かに、クラゲの動きは穏やかだった。
何かを急ぐわけでもなく、ただ静かに漂っている。
「……そうですね」
二人は、しばらく黙って水槽を眺めていた。
そのとき。
澪が、そっと口を開いた。
「……レイジさん」
「はい?」
「私、今日をとても楽しみにしていたんです」
怜司は、少し驚いた。
「……そうなんですか?」
「はい」
澪は、柔らかく微笑んだ。
「学園で毎日お会いできるようになって、それだけでも嬉しかったのですが……」
少しだけ頬を赤くする。
「こうして二人で出かけられるのは、やっぱり特別です」
怜司の胸が、少し高鳴った。
「……俺もです」
澪が顔を上げる。
怜司は、少し照れくさくなりながら続けた。
「学校で話すのも楽しいですけど、今日はもっとゆっくり話せますから」
澪は、嬉しそうに微笑んだ。
「……はい」
◇ ◇ ◇
昼食は、水族館に隣接したレストランで取ることにした。
窓からは、海が見える。
澪は、メニューを眺めながら言った。
「レイジさんは、いつもこういう場所を探されるのですか?」
「いえ、全然」
怜司は苦笑した。
「昨日、結構悩みました」
澪は、少し驚いた。
「……そうだったのですか?」
「はい。澪さんに楽しんでもらいたかったので」
澪は、ぴたりと動きを止めた。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……私のために?」
怜司は、少し照れくさくなった。
「……はい」
澪は、しばらく怜司を見つめていた。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
その声は、いつもより柔らかかった。
「とても嬉しいです」
怜司も、自然と笑顔になった。
◇ ◇ ◇
午後。
二人は、屋外の展望デッキへ向かった。
海から吹く風が、心地よい。
遠くには、船がゆっくりと進んでいる。
澪は、手すりの近くで立ち止まった。
「……素敵な景色ですね」
「そうですね」
怜司も、隣に立った。
しばらく、二人で海を眺める。
そのとき。
澪の髪が、風に揺れた。
怜司は、思わず横顔を見つめた。
整った顔立ち。
穏やかな表情。
そして、少しだけ楽しそうな笑み。
澪が、こちらを向いた。
「……レイジさん?」
怜司は、慌てて視線を逸らした。
「……あっ、いえ!」
澪は、少し不思議そうに首を傾げた。
そして、柔らかく微笑んだ。
「……どうかされました?」
怜司は、少し迷った。
だが、正直に答えた。
「……澪さん、綺麗だなって」
その瞬間。
澪の頬が、一気に赤く染まった。
「……えっ?」
怜司も、自分の言葉に驚いた。
「あっ……その!」
だが、もう遅かった。
澪は、恥ずかしそうに視線を落とした。
そして、小さな声で言った。
「……ありがとうございます」
怜司は、耳まで赤くなった。
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
だが、不思議と気まずくはなかった。
◇ ◇ ◇
帰り道。
二人は、駅へ向かって歩いていた。
夕方の街には、柔らかな光が差し込んでいる。
澪は、少しだけ歩く速度を緩めた。
「……レイジさん」
「はい?」
「今日は、本当にありがとうございました」
怜司は、笑顔で頷いた。
「こちらこそ。楽しんでもらえてよかったです」
澪は、嬉しそうに微笑んだ。
「……とても楽しかったです」
そして、少しだけ勇気を出したように続けた。
「……また、二人で出かけてもよろしいですか?」
怜司は、少し驚いた。
だが、すぐに笑顔になった。
「もちろんです」
澪の表情が、ぱっと明るくなった。
「……本当ですか?」
「はい」
怜司は、柔らかく笑った。
「俺も、また一緒に出かけたいです」
澪は、嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
そして、少しだけ頬を赤くした。
「……次も、楽しみにしています」
怜司も頷いた。
「俺もです」
駅の改札前。
二人は、名残惜しそうに別れた。
澪の姿が見えなくなったあと、怜司は小さく息を吐いた。
「……楽しかったな」
そして、自然と笑顔になった。
澪と過ごした時間。
その一つ一つが、心に残っていた。
一方。
帰宅した澪は、自室でスマートフォンを見つめていた。
画面には、今日撮った水族館の写真が並んでいる。
魚たち。
クラゲ。
海の景色。
そして、怜司と一緒に撮った写真。
澪は、その写真を見つめた。
「……レイジさん」
頬が、自然と赤くなる。
今日、怜司が言ってくれた言葉。
『澪さん、綺麗だなって』
思い出すだけで、胸が高鳴った。
澪は、スマートフォンを胸元へ抱きしめた。
「……私、やっぱり……」
小さく呟く。
その先の言葉は、まだ声にならなかった。
だが、自分の気持ちは、もうはっきりしていた。
黒瀬怜司。
あの日、自分を救ってくれた少年。
今は、それだけではない。
一緒に笑いたい。
一緒に過ごしたい。
もっと、彼のことを知りたい。
澪は、窓の外を見つめた。
そして、幸せそうに微笑んだ。
「……また、お会いしたいです」
少女の恋心は、確かに深まっていた。




