第7話 初めて守れた誰かの笑顔
男たちの笑い声が、森の中に響いていた。
「おいおい、見ろよ。木の棒一本で俺たちを相手にするつもりらしいぜ」
「しかも、なんだあの格好。貴族の坊ちゃんか?」
「いや、あの腹を見ろよ。まともに走れるのかも怪しいぞ」
下卑た笑い声。
黒瀬怜司は、黙って男たちを見つめていた。
見慣れない革鎧。
腰に下げた剣。
日に焼けた肌。
そして、獲物を見つけたような目。
明らかに、普通の人間ではない。
少なくとも、怜司が知っている日本の常識が通じる相手ではなかった。
男たちは三人。
その背後には、倒れた荷馬車と、怯えた少女がいる。
少女の淡い金髪は乱れ、頬には泥がついていた。
その手は小さく震えている。
「……お前、何者だ?」
中央に立つ大柄な男が、怜司を睨んだ。
左頬に傷跡のある男だった。
「……通りすがりだ」
怜司は答えた。
「その子を離してくれ」
男は一瞬きょとんとした後、腹を抱えて笑った。
「はははっ! 聞いたか、お前ら!」
「正義の味方気取りかよ!」
「おい坊主、命が惜しかったら消えな」
怜司は折れた木の枝を握り直した。
心臓が速く打っている。
怖い。
それは、紛れもない本心だった。
相手は本物の剣を持っている。
自分は、まだ戦い方を覚え始めたばかりだ。
レベルが上がったからといって、剣を受ければどうなるか分からない。
だが。
「……嫌だ」
怜司は小さく答えた。
「その子を置いて、逃げるわけにはいかない」
その言葉に、少女が顔を上げた。
青い瞳が、驚いたように怜司を見つめる。
「……あなた……」
男の一人が舌打ちした。
「面倒くせえな」
短い剣を抜く。
金属が鞘を擦る音が、妙に大きく響いた。
怜司の背筋に冷たいものが走る。
――本物だ。
学校で殴られるのとは違う。
あれが当たれば、命に関わる。
「……最後の警告だ。消えろ」
男が剣を構えた。
怜司は息を吸った。
「……断る」
次の瞬間。
男が地面を蹴った。
◇ ◇ ◇
「死ねや!」
剣が振り下ろされる。
怜司は反射的に横へ跳んだ。
ヒュンッ!
鋭い風切り音が耳元を通り過ぎる。
「……っ!」
怖い。
だが、見える。
男の腕の動き。
剣の軌道。
踏み込む足の位置。
すべてが、以前の自分なら考えられないほど鮮明だった。
怜司は相手の横へ回り込む。
「……なっ!?」
男が目を見開いた。
怜司は木の枝を振り抜こうとして、途中で動きを止めた。
――待て。
ホーンウルフを倒したときの感触が蘇る。
あの魔物は、一撃で地面に叩きつけられた。
今の自分が、同じ力で人間を殴ったら?
最悪の場合、殺してしまうかもしれない。
その迷いが、わずかな隙を生んだ。
「隙だらけだ!」
男が振り向きざまに剣を振るう。
「……っ!」
怜司は慌てて後ろへ跳んだ。
剣先が制服の胸元をかすめる。
布が裂けた。
「……危なっ」
怜司は胸を押さえた。
傷はない。
だが、あと少し遅れていたら。
男はにやりと笑った。
「へえ。意外と動けるじゃねえか」
怜司は息を整えた。
――落ち着け。
強く殴る必要はない。
相手を動けなくすればいい。
そう考えた瞬間、視界に小さな文字が浮かんだ。
【神級権能《万象習得》】
【観察した動作から戦闘技術の習得を補助します】
【基礎回避技術の習熟が進行しています】
怜司は目を見開いた。
――今も、成長してるのか。
ならば、考えろ。
相手の動きを見ろ。
ただ力任せに戦うな。
「……来いよ」
怜司が呟くと、男の顔が歪んだ。
「……てめえ!」
再び剣が振り下ろされる。
怜司は半歩だけ身体をずらした。
剣が空を切る。
その瞬間、怜司は男の手首へ木の枝を軽く打ちつけた。
「ぐあっ!」
男の指が開く。
剣が地面に落ちた。
怜司は間髪入れず、男の足元を払った。
「うおっ!?」
男が尻もちをつく。
怜司はそのまま距離を取った。
倒れた男は、呆然と自分の手を見つめていた。
「……な、なんだ今の……」
怜司自身も驚いていた。
できた。
相手を殺さずに、武器を落とさせることができた。
だが、安心する暇はなかった。
「調子に乗るなよ!」
別の男が、横から飛び込んできた。
今度は二人がかりだった。
◇ ◇ ◇
怜司は地面を蹴った。
身体が軽い。
想像していたよりも速く動く。
男の一人が剣を振る。
怜司は身を沈めてかわした。
もう一人が背後へ回り込む。
足音で位置が分かった。
「……そこ!」
怜司は振り返り、木の枝を相手の剣へ打ちつけた。
ガンッ!
強い衝撃。
枝にひびが入る。
だが、剣を握っていた男の方が大きくよろめいた。
「な、なんだこの馬鹿力!」
怜司は驚いた。
自分では、そこまで強く打ったつもりはなかった。
やはり、まだ力加減が難しい。
だが、今は考えている暇がない。
男が再び剣を構える。
怜司は地面に落ちていた小石を拾った。
そして、相手の足元へ投げる。
「うわっ!?」
石は男の足元の土を弾き、砂埃を巻き上げた。
男が一瞬、目を細める。
その隙に、怜司は距離を詰めた。
「……っ!」
木の枝を横から振る。
狙いは、剣を握る手。
パシンッ!
「ぐあっ!」
男の剣が地面に落ちた。
怜司はすぐに一歩下がる。
もう一人が背後から迫ってきた。
だが、その動きも見えていた。
怜司は身体を捻り、相手の腕を避ける。
そして、肩へ軽く手を当てた。
ほんの少し押しただけだった。
しかし。
「うわああっ!?」
男の身体が大きく後ろへ吹き飛んだ。
数メートル先の草むらへ転がる。
「……え?」
怜司は呆然とした。
今のは、ほとんど押しただけだ。
それなのに。
「……力加減、難しすぎるだろ……」
怜司は思わず呟いた。
倒れた男は呻きながら身を起こした。
どうやら命に別状はなさそうだ。
怜司は胸を撫で下ろした。
だが、そのとき。
「……動くな!」
鋭い声が響いた。
振り返る。
そこには、最初に倒したはずの男が立っていた。
そして。
その腕の中には、金髪の少女がいた。
「……っ!」
少女の首元に、短剣が突きつけられている。
「動いたら、このガキを殺すぞ!」
怜司の身体が固まった。
◇ ◇ ◇
「……やめろ」
怜司は低く言った。
「その子を離せ」
「うるせえ!」
男が怒鳴る。
「お前、何なんだよ! どこの冒険者だ!」
怜司は答えなかった。
少女は震えていた。
その目には、大粒の涙が浮かんでいる。
「……たす、けて……」
小さな声。
怜司の胸が締めつけられた。
――また、これか。
誰かが助けを求めている。
なのに、すぐには動けない。
学校で何度も感じてきた無力感が、胸の奥から蘇ってくる。
だが、今回は違う。
怜司は、男の手元を見つめた。
短剣。
少女の首。
男の腕。
わずかに震える指。
そして、足の位置。
――考えろ。
力任せでは駄目だ。
少女を傷つけずに助ける方法。
怜司はゆっくりと木の枝を地面に置いた。
「……分かった」
男が目を細める。
「……何?」
「抵抗しない」
怜司は両手を上げた。
「だから、その子には何もしないでくれ」
男は一瞬、安堵したように笑った。
「……はっ。最初からそうしてりゃよかったんだよ」
怜司は一歩、前へ出た。
「動くな!」
「……分かった」
足を止める。
男は少女を盾にしたまま、怜司を睨んでいた。
怜司は静かに息を整えた。
――距離は、まだある。
今の自分なら、一瞬で詰められるかもしれない。
だが、失敗すれば少女が傷つく。
そんな賭けはできない。
怜司は男の目を見た。
「……なあ」
「なんだ!」
「その子を離せば、追わない」
「……は?」
「逃げたいなら、逃げればいい」
男の表情が揺れた。
「……信用できるかよ!」
「……そうだよな」
怜司は頷いた。
「でも、その子を傷つけたら、俺も黙っていられない」
男の喉が動いた。
怜司の声は、決して大きくなかった。
それでも、先ほどまでとは違う何かがあった。
男は無意識に一歩後ずさる。
その瞬間。
少女が、男の腕の中で身体を捻った。
「……っ!」
短剣がわずかに首元から離れる。
ほんの一瞬。
怜司は、その隙を見逃さなかった。
地面を蹴る。
景色が、一気に流れた。
「……なっ!?」
男の目が見開かれる。
怜司は少女の身体を引き寄せながら、短剣を持つ腕を掴んだ。
そして、刃先が少女から離れる方向へ押し上げる。
「ぐああっ!」
男が悲鳴を上げた。
短剣が地面に落ちる。
怜司は少女を抱えたまま、後ろへ跳んだ。
着地。
少女をそっと地面に下ろす。
「……大丈夫?」
怜司が尋ねると、少女は震えながら頷いた。
「……は、はい……」
「……よかった」
その言葉を聞いた瞬間、怜司の肩から力が抜けた。
だが、背後で男が叫んだ。
「……この野郎!」
怜司は振り返った。
男が拳を振り上げて迫ってくる。
しかし、その動きはもう見えていた。
怜司は拳を避け、相手の腕を掴んだ。
そして、地面へ押さえつける。
「ぐっ……!」
男は必死にもがいた。
だが、怜司の手はびくともしない。
「……もう、やめろ」
怜司は静かに言った。
「これ以上、誰も傷つけるな」
男は歯を食いしばった。
しばらく抵抗していたが、やがて力を抜いた。
「……くそっ……」
怜司はすぐには手を離さなかった。
残りの二人も、こちらを見ている。
だが、誰も近づいてこなかった。
怜司は慎重に周囲を確認した。
そして、男の腰にあった縄を使い、三人の手をそれぞれ縛った。
初めての作業で、上手く結べたか自信はなかった。
それでも、少なくともすぐに武器を取れる状態ではなくなった。
怜司はようやく、大きく息を吐いた。
◇ ◇ ◇
「……あの」
背後から、小さな声が聞こえた。
振り返ると、金髪の少女が立っていた。
年齢は、自分と同じくらいだろうか。
十五歳か、十六歳ほどに見える。
淡い金色の髪は肩のあたりまで伸びていて、青い瞳が印象的だった。
衣服は泥で汚れていたが、丁寧に仕立てられたもののように見える。
「……助けていただいて、ありがとうございました」
少女は深く頭を下げた。
怜司は慌てた。
「い、いや! そんな、頭を下げなくても……!」
少女は顔を上げた。
そして、少しだけ微笑んだ。
「……でも、あなたが来てくれなかったら、私……」
その声が震えた。
怜司は、何も言えなくなった。
少女の目から、涙がこぼれ落ちる。
「……怖かった……」
その一言に、怜司の胸が締めつけられた。
分かる。
その気持ちは、痛いほど分かる。
誰も助けてくれないと思ったときの恐怖。
逃げ道を塞がれたときの絶望。
何度も、何度も味わってきた。
「……もう、大丈夫だよ」
怜司は静かに言った。
「少なくとも、今はもう、あいつらに何もさせないから」
少女は涙を拭いながら頷いた。
「……はい」
そして、少し迷ったように口を開く。
「あの……お名前を、お聞きしてもよろしいですか?」
「……俺?」
「はい」
怜司は少し照れた。
誰かに名前を尋ねられることが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。
「……黒瀬怜司」
「……クロセ、レイジ様?」
「あ、いや。怜司でいいよ」
少女は不思議そうに首を傾げた。
「レイジ……」
その名前を、確かめるように呟く。
そして、柔らかく微笑んだ。
「……素敵なお名前ですね」
怜司は思わず目を逸らした。
「……そ、そうかな」
顔が熱くなる。
学校では、名前を呼ばれるときは大抵、馬鹿にされるときだった。
こんなふうに、優しく呼ばれたことなどほとんどない。
少女は胸に手を当てた。
「私は、エリシアと申します」
「……エリシア」
「はい。エリシア・ルミナスです」
怜司はその名前を繰り返した。
この世界で初めて知った、人間の名前。
そして、自分が初めて守ることのできた誰かの名前だった。
「……よろしく、エリシア」
怜司がそう言うと、少女は少し驚いたように目を見開いた。
そして。
「……はい。よろしくお願いいたします、レイジ様」
花が咲くように、微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間。
怜司は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
誰かを助けることができた。
自分の力で。
昨日まで、誰かに助けてほしいと願うばかりだった自分が。
今日は、誰かの笑顔を守ることができた。
それが、たまらなく嬉しかった。
◇ ◇ ◇
「……ところで、レイジ様」
「ん?」
エリシアが、少し不安そうに尋ねてきた。
「……あなたは、冒険者なのですか?」
「……冒険者?」
怜司は首を傾げた。
「えっと……多分、違うと思う」
「……え?」
エリシアが目を丸くする。
「で、では、騎士様でしょうか?」
「いや、それも違う」
「……ええっ?」
少女は、ますます困惑した顔になった。
「で、では……あの強さは、一体……?」
怜司は言葉に詰まった。
異世界から来ました。
神様みたいな存在から能力をもらいました。
魔物を二匹倒したら、レベル16になりました。
そんな説明をして、信じてもらえるだろうか。
「……ちょっと、事情があって」
曖昧に答える。
エリシアは不思議そうに怜司を見つめた。
だが、無理に聞き出そうとはしなかった。
「……そうなのですね」
そして、少しだけ笑った。
「でも、レイジ様が助けてくださったことに変わりはありません」
「……うん」
「本当に、ありがとうございます」
怜司は照れくさくなって、頭を掻いた。
そのとき。
遠くから、馬の蹄の音が聞こえてきた。
怜司は顔を上げる。
「……ん?」
エリシアも振り返った。
すると、その表情が明るくなる。
「……あっ!」
木々の向こうから、数人の騎馬兵が姿を現した。
銀色の鎧。
青い紋章の入ったマント。
そして、腰に下げた長剣。
その先頭にいた男性が、エリシアの姿を見つける。
「……エリシア様!」
男が馬から飛び降りた。
そして、駆け寄ってくる。
「ご無事でしたか!」
「……はい!」
エリシアは安堵したように頷いた。
男は怜司を見た。
その目が、鋭く細められる。
「……貴様、何者だ?」
怜司の背筋が伸びた。
男の手が、剣の柄にかかる。
「エリシア様から離れろ!」
「……え?」
怜司は目を見開いた。
せっかく助けたのに、今度は自分が疑われている。
だが、その瞬間。
「待ってください!」
エリシアが、二人の間へ飛び出した。
「この方は、私の命の恩人です!」
男の動きが止まる。
「……何?」
「この方が、盗賊たちから私を助けてくださったのです!」
騎馬兵たちが、周囲を見回した。
倒れた荷馬車。
地面に落ちた剣。
そして、縛られた三人の男たち。
先頭の男性は、ゆっくりと怜司へ視線を戻した。
「……この少年が?」
その声には、明らかな疑念が含まれていた。
怜司は何も言わなかった。
すると、エリシアが一歩前へ出た。
「はい。間違いありません」
そして、真っ直ぐに言い切った。
「レイジ様は、私の命を救ってくださったお方です」
男性は、しばらく黙っていた。
やがて、剣の柄から手を離す。
「……失礼した」
深く頭を下げた。
「私は、ルミナス家に仕える騎士、ガルドと申す」
怜司は慌てて頭を下げ返した。
「……く、黒瀬怜司です」
ガルドは、怜司をじっと見つめた。
その目には、まだ警戒が残っていた。
だが、それ以上に。
何かを見極めようとするような、鋭い光が宿っていた。
「……黒瀬怜司殿」
ガルドが静かに言った。
「あなたには、ぜひ一度、ルミナス家へお越しいただきたい」
怜司は目を丸くした。
「……え?」
エリシアが嬉しそうに微笑む。
「ぜひ、私からもお願いいたします!」
怜司は、二人の顔を交互に見た。
ルミナス家。
騎士。
冒険者。
そして、エリシア。
知らない言葉ばかりだった。
だが、怜司はまだ気づいていなかった。
この出会いが、彼を異世界の貴族社会へと導くことになることを。
そして、エリシア・ルミナスという少女が、やがて彼の人生にとって、かけがえのない存在になっていくことを。




