第50話 運命の交差点――少年が救った名門令嬢
第50話 運命の交差点――少年が救った名門令嬢
土曜日の午後。
黒瀬怜司は、駅前の大型書店を訪れていた。
目的は、商売や資産管理についての本を探すことだった。
異世界での取引は順調に進んでいる。
だが、日本で資産を築くためには、まだ知識が足りない。
金貨や宝石の価値。
税金。
契約。
そして、資産の管理方法。
どれも、これまでの学校生活では深く考えたことのない内容だった。
「……難しいな」
怜司は、棚から一冊の入門書を手に取った。
ページを開く。
以前なら、知らない言葉が並んでいるだけで読む気をなくしていたかもしれない。
だが、今は違う。
《万象習得》の影響なのか、知らない分野でも少しずつ理解できるようになっていた。
もちろん、一度読めばすべて分かるわけではない。
それでも、学ぶことへの抵抗は確実に減っている。
「……これ、買ってみようかな」
怜司は本を手に取り、レジへ向かった。
◇ ◇ ◇
書店を出ると、駅前は多くの人で賑わっていた。
休日ということもあり、買い物客や学生の姿が目立つ。
怜司は、信号待ちの人々に混じって立ち止まった。
そのときだった。
向かい側の歩道に、一人の少女が立っていることに気づいた。
長い黒髪。
整った顔立ち。
上品な雰囲気を漂わせる少女だった。
年齢は、自分と同じくらいだろうか。
淡い色のブラウスに、落ち着いた色合いのスカート。
派手な服装ではない。
それでも、周囲の人々とはどこか違う存在感があった。
少女は、スマートフォンを手に誰かと話していた。
「……はい。分かりました」
その声は、柔らかく落ち着いていた。
「では、そちらで待っています」
通話を終え、少女は顔を上げた。
ちょうど、そのとき。
信号が青に変わった。
人々が横断歩道を渡り始める。
少女も、ゆっくりと歩き出した。
怜司も反対側から歩き始めた。
そして。
――キキィィィッ!
突然、鋭いブレーキ音が響いた。
「……え?」
怜司が顔を上げる。
交差点へ、一台の乗用車が突っ込んできていた。
速度は、明らかに速い。
車は交差点の手前で不自然にふらつき、そのまま横断歩道へ向かっていた。
「危ない!」
誰かが叫んだ。
人々が一斉に逃げ始める。
だが。
横断歩道の中央付近にいた少女は、突然の出来事に動けなくなっていた。
車が迫る。
距離は、もうほとんどない。
怜司の身体が、考えるより先に動いた。
◇ ◇ ◇
――間に合う!
怜司は、地面を強く蹴った。
周囲の景色が、一瞬で流れる。
《完全適応》によって高められた身体能力。
異世界で培った反応速度。
そして、幾度もの戦闘で身につけた判断力。
それらが、一つにつながった。
怜司は少女のもとへ到達した。
「失礼します!」
「……えっ!?」
少女が振り返る。
その瞬間、怜司は彼女の身体を抱き寄せた。
そして、車の進路から外れる方向へ跳んだ。
――ドンッ!
二人は、横断歩道の外側へ転がり込む。
次の瞬間。
――ガシャァァンッ!
乗用車が、交差点脇のガードレールへ衝突した。
大きな音が響く。
周囲から悲鳴が上がった。
「きゃああっ!」
「事故だ!」
「誰か、救急車!」
怜司は、少女を庇うように身体を起こした。
「……大丈夫ですか!?」
少女は、呆然としていた。
長い黒髪が乱れ、顔色は青ざめている。
だが、目立った怪我はなさそうだった。
「……わ、私……」
少女は、震える声で呟いた。
「……助かった、のですか?」
怜司は、ゆっくりと頷いた。
「はい。もう大丈夫です」
その言葉を聞いた瞬間。
少女の目に、涙が浮かんだ。
◇ ◇ ◇
怜司は、周囲の状況を確認した。
車はガードレールに衝突し、停止している。
運転席には、男性が座っていた。
意識はあるようだが、動きが鈍い。
近くにいた男性が、すでに救急車を呼んでいた。
怜司は、少女へ声をかけた。
「ここで待っていてください」
「……あの!」
少女が、怜司の袖を掴んだ。
その手は、まだ震えていた。
「……行ってしまうのですか?」
怜司は、少し驚いた。
そして、優しく答えた。
「すぐ戻ります。運転していた人も、怪我をしているかもしれないので」
少女は、怜司を見つめた。
そして、小さく頷いた。
「……はい」
怜司は、車へ向かった。
周囲の人々と協力しながら、運転手の状態を確認する。
無理に車外へ引き出すことはせず、救急隊が到着するまで声をかけ続けた。
「大丈夫ですか? 救急車が来ますから、動かないでください」
運転手は、かすかに頷いた。
数分後。
救急車と警察車両が到着した。
現場は慌ただしくなった。
怜司も警察官から事情を聞かれ、見たことを順番に説明した。
車がふらつきながら交差点へ入ってきたこと。
少女が横断歩道にいたこと。
危険を感じて助けに向かったこと。
そして、二人で道路脇へ避難したこと。
警察官は、驚いたように怜司を見た。
「……君が、あの女の子を助けたの?」
「……はい」
「怪我は?」
「俺は大丈夫です」
警察官は、怜司の身体を確認した。
「念のため、君も救急隊に診てもらおう」
怜司は頷いた。
自分は平気だと思っていても、事故の直後は痛みに気づかないこともある。
そのことは、怜司も理解していた。
◇ ◇ ◇
しばらくして。
怜司が救急隊による確認を終えると、先ほどの少女が近づいてきた。
「あの……」
怜司が振り返る。
「……はい?」
少女は、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
怜司は、慌てて首を横に振った。
「いえ、無事でよかったです」
少女は、ゆっくりと顔を上げた。
先ほどまで青ざめていた頬には、少しだけ血色が戻っている。
だが、その瞳にはまだ涙が残っていた。
「……私、何もできなくて」
怜司は、静かに答えた。
「突然だったんですから、仕方ないですよ」
「でも……」
「本当に、怪我がなくてよかったです」
少女は、怜司を見つめた。
そして、少しだけ微笑んだ。
「……お優しいのですね」
怜司は、少し照れくさくなった。
「そんなことないです」
少女は、首を横に振った。
「いいえ」
そして、真っ直ぐに怜司を見た。
「ご自分も危険だったのに、私を助けてくださいました」
怜司は、少し考えた。
確かに、普通なら危険な行動だった。
だが、自分には異世界で手に入れた力がある。
その力を使えば、助けられると思った。
だから、動いた。
「……助けられると思ったので」
怜司は、正直に答えた。
少女は、その言葉に少し驚いた。
そして、柔らかく微笑んだ。
「……素敵な方ですね」
怜司は、思わず頬を赤くした。
◇ ◇ ◇
そのとき。
「澪お嬢様!」
背後から、慌てた声が響いた。
振り返ると、黒いスーツを着た男性が駆け寄ってきていた。
四十代ほどの、落ち着いた雰囲気の男性だ。
だが、今は明らかに動揺していた。
「お嬢様! ご無事ですか!?」
少女は、ゆっくりと頷いた。
「ええ。大丈夫です」
「本当に……よかった……!」
男性は、深く息を吐いた。
そして、怜司へ視線を向けた。
「……こちらの方は?」
少女は、少しだけ微笑んだ。
「私を助けてくださった方です」
男性の表情が変わった。
「……あなたが?」
怜司は、少し戸惑いながら頷いた。
「はい。たまたま近くにいたので」
男性は、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「いえ、そんな……」
怜司は、慌てて手を振った。
その様子を見て、少女が小さく笑った。
そして、怜司へ向き直った。
「……申し遅れました」
彼女は、丁寧に頭を下げた。
「私、九条院澪と申します」
怜司は、目を見開いた。
――……九条院?
どこかで聞いた名前だった。
昨夜、資産について調べていたときに見かけた企業グループ。
その名前と同じだった。
だが、怜司はすぐに考え直した。
同じ名字の人がいても、不思議ではない。
「……黒瀬怜司です」
怜司も、頭を下げた。
「よろしくお願いします」
澪は、柔らかく微笑んだ。
「黒瀬怜司さん……」
そして、その名前を大切に確かめるように繰り返した。
「……レイジさん、ですね」
「はい」
澪は、少しだけ頬を赤くした。
「素敵なお名前ですね」
怜司は、思わず照れくさくなった。
「……ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
警察の確認が終わる頃には、空が少しずつ夕焼け色に染まり始めていた。
怜司は、そろそろ帰ろうと考えていた。
そのとき。
「レイジさん」
澪が声をかけてきた。
「……はい?」
「もし、ご迷惑でなければ……」
彼女は、少し緊張した様子で続けた。
「改めて、お礼をさせていただけませんか?」
怜司は、少し驚いた。
「お礼、ですか?」
「はい」
澪は、真剣な表情で頷いた。
「今日、あなたがいなければ、私は大きな怪我をしていたかもしれません」
そして、柔らかく微笑んだ。
「だから、きちんと感謝をお伝えしたいのです」
怜司は、少し考えた。
正直、お礼を期待して助けたわけではない。
だが、澪の気持ちを無下にするのも違う気がした。
「……それなら」
怜司は、少し笑った。
「また、普通にお話しできたら嬉しいです」
澪は、目を見開いた。
「……お話、ですか?」
「はい。お礼とか、そんなに気にしなくていいので」
その言葉に、澪はしばらく黙っていた。
そして、ふっと表情を和らげた。
「……分かりました」
彼女は、嬉しそうに微笑んだ。
「では、ぜひ。またお会いしたいです」
怜司も、自然に笑顔になった。
「はい」
その後、互いの連絡先を交換した。
澪は、スマートフォンの画面に表示された怜司の名前を見つめ、嬉しそうに微笑んでいた。
◇ ◇ ◇
その夜。
九条院家の邸宅。
澪は、自室のソファに座っていた。
事故のあと、念のため医療機関で診察を受け、幸い大きな怪我はないと確認されていた。
だが、彼女の心は、まだ落ち着いていなかった。
怖かった。
車が迫ってきた瞬間、身体が動かなかった。
もう駄目だと思った。
そのとき、自分を抱き寄せてくれた少年。
黒瀬怜司。
澪は、スマートフォンを手に取った。
連絡先に登録された名前を見つめる。
「……レイジさん」
小さく呟く。
彼は、自分の家柄を知らなかった。
知ろうともしなかった。
ただ、一人の人間として助けてくれた。
そのことが、澪には何より嬉しかった。
九条院家の令嬢として育った彼女は、幼い頃から多くの人に囲まれてきた。
だが、その中には、家の名前や財産を意識して近づいてくる者も少なくなかった。
だからこそ。
何の見返りも求めず、自分を助けてくれた怜司の姿が、強く心に残っていた。
「……また、お会いしたいです」
澪は、柔らかく微笑んだ。
◇ ◇ ◇
一方、黒瀬家。
怜司は、自室のベッドに座っていた。
スマートフォンには、新しく登録された連絡先が表示されている。
『九条院澪』
怜司は、少しだけ笑った。
「……不思議な人だったな」
綺麗な人だった。
上品で、落ち着いていて。
それでいて、時折見せる笑顔は、とても親しみやすかった。
怜司は、ふと思い出した。
昨日調べていた、九条院グループ。
もしかしたら、何か関係があるのかもしれない。
だが、今はそれほど気にならなかった。
自分にとって大切なのは、彼女が無事だったこと。
そして、また話してみたいと思える人に出会えたことだった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
澪からのメッセージだった。
『今日は本当にありがとうございました。レイジさんも、お身体に異常はありませんか?』
怜司は、少し驚いたあと、笑顔になった。
『大丈夫です。九条院さんも、ゆっくり休んでくださいね』
すぐに返信が届く。
『ありがとうございます。それから……よろしければ、澪と呼んでください』
怜司は、画面を見つめた。
そして、少し照れくさくなりながら文字を打った。
『分かりました。澪さん』
送信。
しばらくして、返信が届いた。
『はい。嬉しいです』
その短い言葉を見て、怜司は思わず微笑んだ。
異世界では、エリシアとの交流が少しずつ深まっている。
そして、日本でも、新しい出会いが生まれた。
黒瀬怜司、十五歳。
少年の世界は、さらに大きく広がろうとしていた。




