第5話 家族に手を出すということ
校舎裏へは行かない。
そう決めたはずなのに、黒瀬怜司の足はなかなか前に進まなかった。
スマートフォンの画面には、鷹宮翔真から届いたメッセージが残っている。
『お前の妹、中学一年だよな』
『今日、どこの道通って帰るんだっけ?』
たった二行。
けれど、その二行だけで、怜司の胸の奥は冷たくなっていた。
自分が殴られることには、もう慣れてしまっていた。
もちろん、痛くないわけではない。
怖くないわけでもない。
だが、陽菜は違う。
あの子は何もしていない。
毎朝、笑顔で「行ってらっしゃい」と言ってくれる妹。
テストで九十二点を取ったと、嬉しそうに報告してくれた妹。
そんな陽菜が、もし自分のせいで怖い思いをすることになったら。
「……くそっ」
怜司は唇を噛んだ。
力を手に入れた。
レベルが上がった。
昨日までとは比べものにならない身体能力を得た。
それなのに、たった数通のメッセージで、こんなにも心が揺れる。
――俺は、まだ弱い。
怜司はそう思った。
だが、次の瞬間。
自分の中に、別の考えが浮かんだ。
――いや、違う。
怖いのは、弱いからじゃない。
大切なものがあるからだ。
守りたい人がいるからだ。
それなら、今やるべきことは決まっている。
怜司はスマートフォンを取り出した。
母からの返信をもう一度確認する。
『分かった。陽菜には連絡するね。怜司も気をつけて』
その下に、新しいメッセージが届いていた。
『陽菜と連絡が取れたよ。今日は私が迎えに行くから安心してね』
「……よかった」
胸の奥に溜まっていた息を、ゆっくりと吐き出した。
陽菜は無事だ。
少なくとも、今は。
怜司は画面を閉じようとして、指を止めた。
そして、翔真から届いたメッセージをもう一度開く。
消されても困らないように、画面を保存する。
送信時刻も、相手の名前も、会話の流れも分かるように。
昨夜から始めた記録。
これも、その一つになる。
「……絶対に、なかったことにはさせない」
怜司は小さく呟いた。
◇ ◇ ◇
「おい、黒瀬!」
背後から声が飛んできた。
振り返ると、廊下の向こうから堂島剛が歩いてくる。
その顔には、苛立ちが浮かんでいた。
「てめえ、何シカトしてんだよ」
怜司は足を止めた。
「……何が?」
「翔真が呼んでんだろうが。校舎裏に来いって言われただろ?」
「行かないって決めたから」
「あ?」
堂島の眉が吊り上がる。
「お前、マジで調子乗ってんな」
周囲には、部活動へ向かう生徒たちが何人かいた。
だが、堂島が声を荒げると、皆そそくさと通り過ぎていく。
いつもの光景だった。
怜司は、その背中を目で追った。
誰も関わりたくない。
それは分かる。
自分だって、逆の立場ならどうしただろう。
簡単に答えられることではなかった。
「……堂島」
「なんだよ」
「翔真に伝えてくれ」
怜司は静かに言った。
「妹のことを二度と口にするなって」
堂島の表情が一瞬止まった。
そして、にやりと笑う。
「ああ、あれ? 効いてんじゃん」
「…………」
「やっぱ家族のこと出されると怖いんだな、お前」
怜司の拳が、ゆっくりと握られた。
だが、すぐに力を緩める。
ここで殴れば、翔真たちの思うつぼだ。
彼らはきっと、喜んで教師に訴えるだろう。
そして田所は、また同じことを言う。
『黒瀬、お前にも原因があるんじゃないか?』
怜司は、もうその展開を繰り返したくなかった。
「……伝えてくれればいい」
「はっ。自分で言いに来いよ」
堂島が一歩近づいた。
怜司の胸元へ手を伸ばす。
だが、今度は触れられる前に、怜司が半歩下がった。
堂島の手が空を切る。
「……っ!」
その顔が歪む。
「また避けやがって!」
「触らないでくれ」
怜司は淡々と答えた。
「俺はもう、お前らの言うことを聞かない」
堂島が歯を食いしばった。
だが、周囲にはまだ生徒がいる。
朝の教室で手首を掴まれたことも、頭に残っているのだろう。
結局、堂島は怜司を睨みつけただけだった。
「……覚えとけよ」
吐き捨てるように言って、踵を返す。
怜司は、その背中を見送った。
心臓はまだ速く打っていた。
それでも、身体は震えていなかった。
「……一つずつだ」
怜司は自分に言い聞かせた。
一度に全部を変えようとしなくていい。
まずは、自分の意思で断ること。
そして、家族を守ること。
そこから始めればいい。
◇ ◇ ◇
職員室の前まで来たところで、怜司は足を止めた。
中から教師たちの話し声が聞こえる。
何度も来た場所だった。
いじめを相談するために。
助けを求めるために。
そのたびに、まともに取り合ってもらえなかった。
怜司は扉の前で深呼吸した。
――また、同じことになるかもしれない。
そう思うと、足がすくみそうになる。
だが、今日は違う。
手元には、翔真からのメッセージがある。
家族を脅すような内容。
そして、昨夜整理した過去の記録。
すべてを完璧に証明できるわけではない。
それでも、少なくとも何も持たずに訴えていた頃とは違う。
「……失礼します」
怜司は職員室の扉を開けた。
田所浩一は、自分の机で書類を整理していた。
「……黒瀬?」
怜司の姿を見て、露骨に面倒そうな顔をする。
「なんだ、また何かあったのか?」
「先生、少しお時間いいですか」
「……手短にな」
田所は椅子に座ったまま答えた。
怜司はスマートフォンを取り出した。
「鷹宮から、こういうメッセージが届きました」
画面を見せる。
田所は眉をひそめた。
「……妹?」
「はい。俺の妹の通学路を知っているような内容です」
「……ふむ」
「俺は、脅迫だと感じています」
田所はしばらく画面を見つめた。
そして、小さくため息をつく。
「黒瀬、これだけで脅迫と決めつけるのはどうなんだ?」
怜司は、言葉を失いかけた。
「……どういう意味ですか」
「ただ妹のことを聞いただけかもしれないだろう」
「その前に、校舎裏へ来いって言われています」
「それは、話し合いをしたかったんじゃないのか?」
怜司の胸の奥が、静かに冷えていった。
やっぱり。
また、これだ。
「……先生」
「なんだ?」
「もし、俺が同じことを鷹宮に送ったら、どうしますか?」
田所の手が止まった。
「……は?」
「鷹宮の家族の通学路を知ってるって、俺がメッセージを送ったら」
「そんなことをするな!」
田所の声が大きくなった。
近くの教師が、ちらりとこちらを見る。
怜司は静かに続けた。
「……どうしてですか?」
「どうしてって、お前……」
「危険なことだと思うからですよね?」
田所が口を閉じた。
怜司はスマートフォンを握りしめた。
「俺がされたら、ただの質問なんですか?」
「……黒瀬」
「鷹宮がされたら、問題になるんですか?」
田所の顔が赤くなった。
「お前、教師に向かって何だその態度は!」
怜司の心臓が跳ねた。
怖い。
怒鳴られることには、まだ慣れない。
それでも、目を逸らさなかった。
「……俺は、質問してるだけです」
「もういい。今日は帰れ!」
「……分かりました」
怜司はスマートフォンをしまった。
そして、もう一度口を開いた。
「先生」
「まだ何かあるのか!」
「今日、俺がこのメッセージを相談したこと、記録に残してください」
田所の表情が変わった。
「……何?」
「俺も、日時と相談内容を残します」
「黒瀬、お前……」
「家族のことなので」
怜司は頭を下げた。
「失礼しました」
そして、職員室を出た。
廊下に出た瞬間、膝から力が抜けそうになった。
「……はぁ……」
壁に手をつく。
怖かった。
今でも、手のひらには汗が滲んでいる。
それでも。
今日は、最後まで自分の言葉で話せた。
怜司はスマートフォンを取り出し、相談した時刻と田所の発言をメモに残した。
小さな一歩だった。
だが、昨日までの自分にはできなかった一歩だった。
◇ ◇ ◇
「ただいま」
家に帰ると、玄関には陽菜の靴があった。
怜司は、それを見ただけで胸が軽くなった。
「お兄ちゃん!」
リビングから陽菜が顔を出す。
「おかえり!」
「……ただいま」
怜司は思わず、陽菜の頭に手を置いた。
「わっ、なに?」
「……いや、なんでもない」
「変なお兄ちゃん」
陽菜は笑っている。
いつも通りの笑顔。
それが、今は何より嬉しかった。
キッチンから美咲が顔を出した。
「怜司、おかえりなさい」
「……母さん」
「陽菜のこと、何かあったの?」
その声には、明らかな心配が滲んでいた。
怜司は少し迷った。
また心配をかける。
父も母も、これまで何度も学校へ相談してくれた。
それでも何も変わらなかった。
だからこそ、もう言いたくないと思っていた。
だが。
――隠して、もし何かあったら?
怜司は深く息を吸った。
「……話したいことがある」
美咲の表情が引き締まる。
「……分かった」
その日の夕方。
怜司は母と陽菜に、翔真から届いたメッセージのことを話した。
陽菜は最初、意味が分からないような顔をしていた。
だが、内容を聞くうちに、少しずつ表情が曇っていった。
「……私のこと?」
「うん」
「……私、何もしてないのに?」
その言葉が、怜司の胸に刺さった。
「……そうだよな」
怜司は陽菜の前にしゃがんだ。
「ごめんな」
「……お兄ちゃんが謝ることじゃないよ」
陽菜は首を横に振った。
「悪いの、その人たちでしょ?」
怜司は目を見開いた。
陽菜は、真っ直ぐ怜司を見つめていた。
「私、お兄ちゃんが悪いことしたなんて思ってないよ」
「……陽菜」
「だから、謝らないで」
怜司は、何も言えなくなった。
その代わり、陽菜の頭をそっと撫でた。
「……ありがとう」
陽菜は少し照れたように笑った。
美咲は二人を見つめながら、静かに口を開いた。
「怜司」
「……うん」
「もう、学校だけに任せるのはやめましょう」
その声は、いつもの優しい母のものだった。
けれど、そこにははっきりとした怒りがあった。
「お父さんが帰ってきたら、全部話しましょう」
「……うん」
「必要なら、学校の外にも相談するわ」
怜司は頷いた。
これまで、家族に迷惑をかけたくないと思っていた。
けれど、それは違ったのかもしれない。
一人で抱え込むことが、必ずしも家族を守ることにはならない。
そう気づき始めていた。
◇ ◇ ◇
夜。
仕事から帰ってきた正臣は、怜司から話を聞くと、しばらく黙っていた。
食卓の上には、翔真からのメッセージを印刷した紙が置かれている。
正臣はその紙を手に取り、何度も読み返した。
「……学校には相談したのか?」
「うん。田所先生に」
「……何て言われた?」
怜司は、今日のやり取りをそのまま話した。
すると、正臣の表情が少しずつ険しくなっていった。
「……そうか」
短い返事。
だが、その声は低かった。
美咲が静かに言う。
「あなた、もう限界だと思う」
「ああ」
正臣は頷いた。
「俺もそう思う」
そして、怜司を見た。
「怜司」
「……うん」
「今まで、よく頑張ったな」
その一言で、怜司の胸が詰まった。
「……父さん」
「お前が何度も助けを求めていたのに、父さんたちは守りきれなかった」
「そんなこと……」
「いや」
正臣は首を振った。
「俺たちも、もっと早く動くべきだった」
怜司は唇を噛んだ。
父の目には、悔しさが浮かんでいた。
自分と同じように。
いや、もしかすると自分以上に。
「……でも、もう終わりにする」
正臣は静かに言った。
「学校が対応しないなら、教育委員会や外部の相談窓口も含めて、正式に動こう」
美咲も頷いた。
「陽菜の安全もあるもの。必要なら警察にも相談しましょう」
怜司は、二人の顔を見つめた。
自分を信じてくれる人がいる。
守ろうとしてくれる人がいる。
その事実が、胸の奥に温かく広がっていく。
「……ありがとう」
怜司は小さく頭を下げた。
「俺も、もう逃げない」
正臣は、少しだけ笑った。
「逃げてもいいんだぞ」
「……え?」
「危ないときは逃げろ。学校を休んでもいい。転校したっていい」
父は、怜司の肩に手を置いた。
「でも、自分が悪くないことまで認める必要はない」
怜司はゆっくりと頷いた。
「……うん」
その夜。
黒瀬家は初めて、学校の外へ助けを求めることを具体的に決めた。
そして、それは鷹宮翔真たちにとって、これまでとは違う事態の始まりでもあった。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
鷹宮家の広いリビングでは、翔真がソファに寝転がりながらスマートフォンを眺めていた。
「……チッ」
画面には、既読になったまま返信のないメッセージが表示されている。
黒瀬怜司。
いつもなら、呼び出せば必ず来た。
謝れと言えば謝った。
金を持ってこいと言えば、嫌そうな顔をしながらも従った。
それが今日は、違った。
手を伸ばしても避けられた。
堂島が掴んでも動かなかった。
挙げ句の果てに、校舎裏への呼び出しまで無視された。
「……調子乗りやがって」
翔真はスマートフォンを握りしめた。
そのとき、リビングの扉が開いた。
「翔真」
低い声。
父親の鷹宮隆臣だった。
地元で建設・不動産業を営む鷹宮開発の社長。
四十八歳。
金と人脈を使って、これまで数々の問題を片づけてきた男だった。
「……なんだよ、親父」
「学校から連絡があった」
翔真が顔を上げる。
「……は?」
「黒瀬という生徒のことで、また揉めているそうだな」
翔真は一瞬だけ眉をひそめた。
だが、すぐに笑った。
「ああ、あいつ? 勝手に騒いでるだけだよ」
「……そうか」
隆臣はソファの向かいに腰を下ろした。
「学校側は、今のところ問題ないと言っている」
「だろ?」
翔真が得意げに笑う。
だが、隆臣は笑わなかった。
「……ただし、余計な証拠は残すな」
翔真の笑みが止まった。
「……何?」
「最近は、くだらんメッセージ一つで騒ぎになる」
隆臣は息子を見つめた。
「相手に付け入る隙を与えるな」
翔真は舌打ちした。
「……分かってるよ」
隆臣はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、静かにグラスを持ち上げた。
彼にとって、黒瀬家は取るに足らない存在だった。
地元の企業に勤める父親。
パートで働く母親。
そして、学校で孤立している息子。
多少騒いだところで、どうにでもなる。
そう考えていた。
だが。
彼はまだ知らなかった。
黒瀬怜司が、すでに常識では測れない力を手にしていることを。
そして、黒瀬家がようやく学校の外へ動き始めたことを。
その小さな変化が、やがて鷹宮家の足元を大きく揺るがすことになるなど、このときの隆臣には想像もできなかった。




