第40話 崩れ落ちる鷹宮家の威信――父が下した決断
第40話 崩れ落ちる鷹宮家の威信――父が下した決断
鷹宮家の邸宅。
広々としたリビングに、重苦しい沈黙が落ちていた。
高価な家具。
大きなシャンデリア。
磨き上げられた大理石の床。
何不自由ない暮らしを象徴するような空間だった。
だが、今夜ばかりは、その豪華さが虚しく感じられた。
「……翔真」
鷹宮隆臣の低い声が響く。
ソファに座る翔真は、俯いたまま答えなかった。
隆臣は、机の上に一枚の書類を置いた。
「警察から、事情を聞いた」
翔真の肩が、わずかに震えた。
「……」
「年上の男たちに金を渡し、黒瀬怜司を襲わせようとした」
隆臣は、一つひとつ確かめるように言った。
「……間違いないな?」
翔真は、唇を噛んだ。
そして、小さく答えた。
「……ああ」
その瞬間。
隆臣は、深く息を吐いた。
「……そうか」
怒鳴り声はなかった。
だが、その静けさが、かえって翔真を怯えさせた。
「……父さん」
「黙れ」
隆臣は、短く言った。
翔真は、口を閉じた。
「私は、お前に何と言った?」
翔真は答えられなかった。
「二度と黒瀬に関わるなと、言ったはずだ」
「……」
「学校の問題がようやく落ち着き始めたところだった。それを、お前は自分から壊した」
翔真は、拳を握った。
「……だって」
隆臣の目が鋭くなる。
「……何だ?」
「……あいつが」
翔真は、震える声で言った。
「黒瀬が、俺を馬鹿にしたから……!」
その瞬間。
――バンッ!
隆臣が、机を強く叩いた。
「いい加減にしろ!」
翔真の身体が跳ねた。
「まだ分からんのか!」
隆臣の声が、リビングに響く。
「お前がやったことは、ただの喧嘩ではない!」
翔真は、顔を上げた。
隆臣は続けた。
「金を払って人を襲わせたんだぞ!」
その言葉に、翔真は何も言えなかった。
「相手が怪我をしていたらどうするつもりだった? 命を落としていたら?」
「……そんなつもりじゃ」
「そんなつもりでは済まされん!」
隆臣は、怒りを抑えるように深く息を吸った。
そして、ゆっくりと椅子へ座った。
「……私は、お前を甘やかしすぎたのかもしれんな」
その声には、深い疲労が滲んでいた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
鷹宮開発の本社では、緊急の役員会議が開かれていた。
議題は、社長の息子が関与した疑いのある暴行事件についてだった。
「社長。今回の件は、非常にまずい状況です」
役員の一人が、厳しい表情で言った。
隆臣は、黙って聞いていた。
「まだ報道は限定的ですが、関係者の間では噂が広がり始めています」
別の役員が続ける。
「以前の学校でのいじめ問題も、取引先の一部には知られていたようです」
隆臣は、ゆっくりと頷いた。
「……承知している」
「もし、会社が圧力をかけて事件を隠そうとしたと受け取られれば、信用問題になります」
その言葉に、会議室が静まり返った。
隆臣は、しばらく考えていた。
そして、顔を上げた。
「……隠蔽はしない」
役員たちが、一斉に視線を向ける。
「警察の捜査には全面的に協力する」
隆臣は、はっきりと言った。
「息子が関与した事実が確認されれば、相応の責任を負わせる」
その言葉に、役員たちは静かに頷いた。
隆臣は続けた。
「会社の資金を使って、息子の問題を処理することもしない」
会議室の空気が、わずかに変わった。
以前の隆臣なら、会社の名誉を守るために、まず情報を抑えようとしたかもしれない。
だが、今回は違った。
これ以上、息子の過ちを見逃すわけにはいかなかった。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
黒瀬家では、正臣が一通の連絡を受けていた。
相手は、鷹宮開発の顧問弁護士だった。
『鷹宮隆臣より、直接謝罪の機会を設けたいとの申し出がございます』
正臣は、静かに答えた。
「……謝罪ですか」
『はい』
「息子さんの件については、警察が捜査しています」
『承知しております』
「こちらとしては、まず安全の確保が最優先です」
正臣は、はっきりと言った。
「謝罪を受けるかどうかは、家族と相談して決めます」
『かしこまりました』
電話を切る。
正臣は、しばらく考えていた。
そこへ、怜司がやってきた。
「……父さん?」
正臣は顔を上げた。
「……ああ、怜司」
「何かあった?」
正臣は、少しだけ考えた。
そして、正直に話した。
「鷹宮の父親から、謝罪したいと連絡があった」
怜司は、少し驚いた。
「……そうなんだ」
「どうするかは、お前の気持ちも聞いて決めたい」
怜司は、黙って考えた。
翔真にされたこと。
教室での嫌がらせ。
家族を巻き込まれた恐怖。
そして、今回の襲撃。
簡単に許せることではない。
だが、ずっと憎み続けたいとも思わなかった。
「……父さん」
「うん?」
「俺、謝ってもらうために戦ってたわけじゃないんだ」
正臣は、静かに息子を見た。
「……そうか」
「ただ、普通に学校へ行きたかっただけなんだよ」
怜司は、ゆっくりと言葉を続けた。
「友達と話して、授業を受けて、家に帰って……そういう毎日が欲しかった」
正臣の表情が、少しだけ和らいだ。
「……ああ」
「だから、もう二度と同じことが起きないようにしてほしい」
怜司は、真っ直ぐに父を見た。
「それが、一番大事だと思う」
正臣は、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
そして、息子の肩へ手を置いた。
「お前の気持ちは、ちゃんと伝える」
◇ ◇ ◇
数日後。
学校では、鷹宮翔真に対する新たな対応が決定した。
警察の捜査は継続中。
その一方で、学校は翔真の校外での行動についても重大な問題と判断した。
保護者同席での事情確認。
被害生徒への接触禁止の再確認。
そして、一定期間の登校停止措置。
正式な処分内容は、校則に基づいて決定された。
校長の榊原は、職員会議で厳しい表情を見せていた。
「……今回の件を、学校として重く受け止めなければなりません」
教頭が頷く。
「被害生徒の安全確保を、最優先にすべきです」
担任の田所も、黙って話を聞いていた。
以前のように、見て見ぬふりをすることはできない。
それを、ようやく理解していた。
◇ ◇ ◇
その日の放課後。
怜司は、相沢と一緒に校門を出た。
「黒瀬」
「……ん?」
「最近、何か雰囲気変わったよな」
相沢が、少し笑った。
怜司は首を傾げた。
「……そうかな?」
「ああ。前より、ずっと堂々としてる」
怜司は、少し考えた。
確かに、自分でも変化を感じていた。
以前は、誰かに見られるだけで身構えていた。
人の笑い声が聞こえれば、自分のことを笑っているのではないかと不安になった。
だが、今は違う。
すべてが気にならなくなったわけではない。
それでも、自分を信じられるようになってきた。
「……いろいろあったからかな」
怜司が答えると、相沢は頷いた。
「……そっか」
そして、少し照れくさそうに言った。
「今度さ、休みの日に遊ばないか?」
怜司は、目を見開いた。
「……え?」
「いや、ほら。ゲームとか、映画とか」
相沢は、頭を掻いた。
「前から誘おうと思ってたんだけど、なかなか言えなくてさ」
怜司は、しばらく黙っていた。
友達から、休日に遊ぼうと誘われる。
そんな当たり前のことが、以前の自分には遠い世界の出来事だった。
だからこそ。
「……うん!」
怜司は、自然と笑顔になった。
「行こう!」
相沢も笑った。
「よし! じゃあ、また連絡する!」
二人は、校門の先で別れた。
怜司は、一人になってからも、しばらく笑顔のままだった。
――……友達と、遊ぶ約束か。
胸の奥が、温かかった。
◇ ◇ ◇
その頃。
鷹宮家。
翔真は、自室のベッドに座っていた。
スマートフォンは、父に預けるよう命じられている。
学校へも、しばらく通えない。
警察からの事情聴取も続いていた。
かつて、何でも自分の思いどおりになると思っていた。
父の会社。
家の金。
学校での立場。
それらがあれば、誰も逆らえないと信じていた。
だが、今は違う。
父は、自分を庇おうとしない。
堂島と三枝からも、連絡は来ない。
真壁たちは、自分が依頼したことを話してしまった。
翔真は、ゆっくりと顔を覆った。
「……何で、こんなことに」
その声は、誰にも届かなかった。
自分が何を間違えたのか。
それを本当に理解するには、まだ時間が必要だった。
◇ ◇ ◇
夕方。
黒瀬家。
「お兄ちゃん、おかえり!」
玄関を開けた怜司を、陽菜が迎えた。
「ただいま」
「今日ね、ママがオムライス作ってるよ!」
怜司は、思わず笑った。
「本当?」
「うん! 私がお願いした!」
「そっか」
陽菜は、嬉しそうに笑った。
「お兄ちゃんの分も、いっぱいあるよ!」
怜司は、妹の頭を優しく撫でた。
「ありがとう、陽菜」
「えへへ!」
その笑顔を見て、怜司は思った。
自分が本当に欲しかったもの。
それは、誰よりも強い力でも、誰かを見返すための地位でもなかった。
家族と笑って過ごせる時間。
友達と、当たり前に話せる毎日。
そして、自分の意思で未来を選べること。
異世界で手に入れた力は、その大切なものを守るために使いたい。
怜司は、そう思っていた。
その夜。
家族四人で囲む食卓には、温かな笑い声が響いていた。
長く続いたいじめの問題は、まだ法的な結論を待っている。
だが、怜司の日常には、確かな変化が訪れていた。
そして、その変化は、これから始まる新たな出会いへとつながっていく。
黒瀬怜司、十五歳。
少年の物語は、ようやく新しい一歩を踏み出そうとしていた。




