第32話 消された証人――商会を蝕む黒い取引
ルミエール商業地区。
まだ朝靄の残る石畳を、一人の男が足早に歩いていた。
男の名は、トーマス・ベルン。
東方街道を利用する中堅商会《ベルン商会》の会頭である。
四十二歳。
決して裕福な家の生まれではなかった。
若い頃は荷運びから始め、商人の下働きを経て、ようやく自分の商会を持った。
扱う商品は、小麦や乾燥肉、薬草、生活用品。
大きな利益を生むものではない。
それでも、彼はその仕事に誇りを持っていた。
街で暮らす人々に、必要なものを届ける。
それが商人の役目だと信じていたからだ。
だが、ここ数週間。
彼の商会は、かつてない危機に陥っていた。
「……くそっ」
トーマスは、握りしめた書類を見下ろした。
東方街道の通行障害。
荷馬車の引き返し。
そして、突然持ちかけられた不自然な取引。
すべてが、あまりにも都合よく重なっていた。
彼は、ようやく確信したのだ。
これは、単なる魔物騒ぎではない。
誰かが、意図的に商人たちを追い詰めている。
そして、その裏で利益を得ようとしている。
トーマスは、深く息を吸った。
「……もう、黙っていられん」
向かう先は、冒険者ギルド。
彼は、ある重要な証拠を持っていた。
◇ ◇ ◇
その頃。
黒瀬怜司は、日本の自宅で朝食を取っていた。
「お兄ちゃん、今日も早いね」
妹の陽菜が、トーストをかじりながら言った。
怜司は、少し笑った。
「……そうかな?」
「うん。前は、朝起きるの苦手だったじゃん」
その言葉に、怜司は苦笑した。
確かに、以前はそうだった。
学校へ行くのが嫌で、布団から出ることすら辛かった。
教室へ入れば、鷹宮翔真たちの嫌がらせが待っている。
そんな毎日だった。
だが、今は少し違う。
学校は、いじめの事実を正式に認めた。
加害者たちには、接触制限が設けられている。
そして、何より。
家族が、自分の味方でいてくれる。
それが、どれほど大きな支えになるのか。
怜司は、ようやく理解し始めていた。
「……最近、少し体力がついたからかな」
そう答えると、陽菜は嬉しそうに笑った。
「いいじゃん! お兄ちゃん、前より元気そうだもん!」
母の美咲も、微笑んだ。
「そうね。でも、無理はしないでね」
「うん」
怜司は、頷いた。
父の正臣は、新聞を畳みながら口を開いた。
「怜司。学校で何かあったら、すぐに言うんだぞ」
怜司は、父を見た。
「……分かってる」
正臣は、真剣な表情で頷いた。
「学校が対応を始めたからといって、すべてが終わったわけじゃない」
その言葉に、怜司は静かに頷いた。
確かに、鷹宮たちが完全に反省したとは思えない。
だが、今は以前ほど恐ろしくなかった。
「……大丈夫。何かあったら、ちゃんと話すよ」
正臣は、少しだけ表情を和らげた。
「……ああ」
怜司は、温かい味噌汁を口に運んだ。
家族と過ごす朝。
それは、以前の自分が失いかけていた、大切な時間だった。
◇ ◇ ◇
放課後。
怜司は、人通りの少ない場所で《界渡り》を発動した。
空間が揺らぎ、景色が切り替わる。
次の瞬間。
彼は、ルミエールの街にいた。
石畳の道。
行き交う商人。
冒険者たちの話し声。
すでに見慣れ始めた景色だった。
怜司は、冒険者ギルドへ向かった。
昨日の調査結果について、何か進展があるかもしれない。
そう考えたからだ。
だが。
ギルドの扉を開いた瞬間。
いつもとは違う空気を感じた。
「……あれ?」
受付のミリアが、慌ただしく書類を整理している。
冒険者たちも、何やら深刻な表情で話し込んでいた。
怜司は、受付へ近づいた。
「……ミリアさん」
ミリアが顔を上げた。
「あ、レイジ様!」
そして、少しだけ表情を曇らせた。
「……ちょうどよかったです」
怜司は、首を傾げた。
「……何かあったんですか?」
ミリアは、周囲を確認した。
そして、声を落とした。
「……今朝、商会の方が一人、行方不明になったんです」
怜司は、目を見開いた。
「……行方不明?」
「はい」
ミリアは、頷いた。
「ベルン商会の会頭、トーマス・ベルン様です」
怜司は、その名前を初めて聞いた。
だが、ミリアの表情から、ただ事ではないことが分かった。
「……どうして、その人が?」
ミリアは、静かに答えた。
「今朝、ギルドへ重要な相談があると、使いの方を寄越していたそうなんです」
怜司は、息を呑んだ。
「……それで?」
「ですが、約束の時間になっても現れず……」
ミリアは、少しだけ唇を噛んだ。
「商会へ確認したところ、朝早くに出かけたまま戻っていないそうです」
怜司の胸に、不安が広がった。
街道封鎖事件。
商会。
そして、重要な相談。
偶然とは思えなかった。
◇ ◇ ◇
ギルド長室。
バルドは、机の上に広げられた地図を見つめていた。
その隣には、カイルたち《蒼風の牙》の三人がいた。
怜司が入ると、カイルが顔を上げた。
「……レイジか」
「……はい」
怜司は、軽く頭を下げた。
「ミリアさんから、話を聞きました」
バルドは、静かに頷いた。
「……そうか」
そして、地図を指さした。
「ベルン商会の会頭は、今朝この辺りを通ったらしい」
そこは、商業地区からギルドへ向かう途中の路地だった。
怜司は、地図を覗き込んだ。
「……ここで、何かあったんですか?」
バルドは、頷いた。
「荷運びの男が、争うような声を聞いたそうだ」
リーナが、腕を組んだ。
「しかも、その直後に馬車が走り去る音も聞いてる」
セドリックが、静かに続けた。
「現場には、争った痕跡が残っていたそうです」
怜司は、息を呑んだ。
「……じゃあ、誰かに連れ去られた可能性が?」
カイルは、真剣な表情で頷いた。
「……高いな」
バルドは、机を軽く叩いた。
「しかも、トーマスは街道封鎖について何か知っていたらしい」
怜司は、思わず拳を握った。
もし、今回の事件に関係しているなら。
背後にいる人物が、証拠を隠そうとしているのかもしれない。
バルドは、静かに続けた。
「衛兵隊にも連絡してある。俺たちは、情報を集める」
そして、カイルへ視線を向けた。
「お前たちには、商業地区の調査を頼みたい」
カイルは、頷いた。
「了解だ」
怜司は、思わず口を開いた。
「……俺も、行っていいですか?」
バルドは、怜司を見た。
そして、少しだけ考えた。
「……今回も、補助としてならな」
怜司は、顔を上げた。
「……ありがとうございます!」
バルドは、厳しい表情で続けた。
「ただし、今回は魔物じゃねえ。人間相手の事件だ」
怜司は、真剣に頷いた。
「……はい」
「勝手に動くな。危険を感じたら、必ず仲間へ知らせろ」
「……分かりました」
バルドは、満足そうに頷いた。
「……よし」
◇ ◇ ◇
商業地区。
怜司たちは、トーマスが最後に目撃された路地へ向かった。
そこは、建物と建物の間に挟まれた細い道だった。
昼間でも日差しが届きにくい。
カイルは、地面を確認した。
「……馬車の跡は、もうほとんど残ってないな」
リーナが、周囲を見渡した。
「人通りも多いしね」
セドリックは、杖をかざした。
「……魔力の痕跡は、特に感じません」
怜司は、静かに周囲を観察した。
石畳。
壁。
木箱。
そして、路地の奥にある小さな扉。
そのとき。
「……あれ?」
怜司は、足を止めた。
壁の隅に、何かが落ちている。
小さな金属片だった。
怜司は、カイルへ声をかけた。
「……カイルさん」
「……どうした?」
「……これ、何でしょう?」
カイルが近づいてきた。
そして、金属片を拾い上げた。
それは、銀色の留め具だった。
表面には、小さな紋章が刻まれている。
カイルの表情が変わった。
「……これは」
リーナが、覗き込んだ。
「……商会の印?」
カイルは、静かに頷いた。
「……ああ」
そして、少しだけ目を細めた。
「ベルン商会のものじゃない」
怜司は、息を呑んだ。
「……じゃあ」
カイルは、低い声で答えた。
「別の商会の関係者が、ここにいた可能性がある」
怜司は、金属片を見つめた。
小さな証拠。
だが、それは事件の真相へつながる手がかりかもしれなかった。
◇ ◇ ◇
その頃。
ルミエールの郊外。
古びた倉庫の中で、一人の男が椅子に縛られていた。
トーマス・ベルン。
その顔には、疲労の色が濃く浮かんでいる。
「……こんなことをして、ただで済むと思っているのか」
トーマスは、目の前の男を睨みつけた。
黒い革鎧の男だった。
男は、冷たく笑った。
「……黙っていれば、こんなことにはならなかった」
トーマスは、唇を噛んだ。
「……街道を封鎖し、商人たちを追い詰めて……!」
その声には、怒りが滲んでいた。
「何が目的だ!」
黒い革鎧の男は、肩をすくめた。
「……商売ってのは、そういうもんだろ」
トーマスは、怒りに震えた。
「……違う!」
そして、強く言い放った。
「商売とは、人を困らせて利益を奪うことではない!」
男は、少しだけ目を細めた。
「……綺麗事だな」
そのとき。
倉庫の奥から、別の男が姿を現した。
上質な服を身につけた、四十代ほどの男。
その顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「……相変わらず、頑固ですね。ベルン会頭」
トーマスの表情が、凍りついた。
「……お前は」
男は、ゆっくりと歩み寄った。
「久しぶりです」
そして、静かに微笑んだ。
「まさか、こんな形で再会するとは思いませんでしたよ」
トーマスは、歯を食いしばった。
「……やはり、お前だったのか」
男は、否定しなかった。
ただ、静かに笑っていた。
◇ ◇ ◇
夕方。
怜司たちは、冒険者ギルドへ戻ってきた。
カイルは、拾った留め具をバルドへ渡した。
バルドは、紋章を確認した。
そして、眉をひそめた。
「……こいつは」
怜司は、顔を上げた。
「……分かるんですか?」
バルドは、静かに頷いた。
「……ああ」
そして、低い声で言った。
「グレイヴ商会の紋章だ」
カイルの表情が変わった。
「……グレイヴ商会?」
バルドは、頷いた。
「ルミエールでも有数の大商会だ」
そして、少しだけ目を細めた。
「最近、東方街道の物流を一手に引き受けようとしているって噂がある」
怜司は、息を呑んだ。
街道封鎖。
商人たちの損失。
そして、大商会による物流の独占。
すべてが、つながり始めていた。
だが、まだ確かな証拠はない。
バルドは、静かに続けた。
「……慎重に動くぞ」
怜司は、頷いた。
「……はい」
そのとき。
ギルドの扉が、勢いよく開いた。
「……ギルド長!」
一人の衛兵が、駆け込んできた。
その顔には、焦りが浮かんでいる。
「……何だ?」
バルドが立ち上がった。
衛兵は、息を切らしながら言った。
「ベルン商会から、緊急の連絡です!」
そして、続けた。
「……トーマス会頭の家族に、脅迫状が届きました!」
怜司は、目を見開いた。
衛兵は、震える声で読み上げた。
「『余計なことをすれば、会頭の命はない』……と」
ギルド長室に、重い沈黙が落ちた。
怜司は、拳を握った。
これは、もう単なる商売上の争いではない。
一人の人間の命が、危険に晒されている。
そして。
その背後にいる人物は、目的のためなら手段を選ばない。
怜司は、静かに顔を上げた。
「……絶対に、助けましょう」
その言葉に、カイルが頷いた。
「ああ」
バルドも、厳しい表情で頷いた。
「……当然だ」
街道封鎖事件。
その黒幕の影は、ついに一人の商人の命へと伸びていた。




