第3話 昨日までの俺とは違う
「怜司、いつまで鏡を見てるの? ご飯、冷めちゃうわよ」
「あっ……うん、今行く!」
母の声に我に返り、黒瀬怜司は慌てて洗面所を出た。
廊下を歩きながら、もう一度自分の手を見つめる。
握る。
開く。
それだけの動作が、妙に軽かった。
学校で殴られた腹の痛みも、スライムとの戦闘で負った膝の傷も、今はどこにもない。
それどころか、身体の奥から力が湧き上がってくる。
昨日までの自分とは、明らかに何かが違っていた。
「お兄ちゃん、早くー!」
「分かったって」
食卓から聞こえてくる妹の声に、怜司は小さく笑った。
今はまだ、この力のことを家族にどう説明すればいいのか分からない。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
もう二度と、家族にあんな心配そうな顔をさせたくない。
◇ ◇ ◇
「おっ、今日は唐揚げか」
食卓に並んでいたのは、大皿に盛られた唐揚げと千切りキャベツ、味噌汁、それに炊きたての白米だった。
「お兄ちゃんの好きなやつだよ!」
陽菜が嬉しそうに言う。
「陽菜がリクエストしたんだけどね」
母の美咲が笑いながら付け加えた。
「だって、お兄ちゃん最近元気なかったから」
「……陽菜」
「な、なに?」
「ありがとな」
怜司がそう言うと、陽菜は少し照れたように笑った。
「べ、別に! 私も食べたかっただけだし!」
その様子を見て、美咲も柔らかく微笑んだ。
怜司は椅子に座り、手を合わせる。
「いただきます」
唐揚げを一つ口に運ぶ。
サクッとした衣の食感。
噛んだ瞬間に広がる肉汁。
「……うまい」
「あら、よかった」
美咲が嬉しそうに笑う。
何度も食べてきた、母の唐揚げ。
いつもと同じ味のはずなのに、今日は妙に美味しく感じた。
もしかすると、異世界での出来事によって気持ちが変わったのかもしれない。
あるいは、身体そのものが変化しているのか。
理由は分からなかった。
ただ、こうして家族と食卓を囲めることが、今は何よりありがたかった。
「そういえば、お兄ちゃん」
「ん?」
「猫ちゃん、また会えるかな?」
陽菜が箸を止めて尋ねてきた。
「……どうだろうな」
「元気になってたらいいね」
「ああ。本当にそう思う」
あの黒猫。
金色の瞳。
そして、頭の中に響いた不思議な声。
あれが何だったのか、怜司にはまだ分からない。
だが、あの猫と出会わなければ、今の自分は存在しなかった。
いつか、もう一度会えるだろうか。
そんなことを考えていると、玄関から鍵の開く音がした。
「ただいまー」
「あっ、お父さん!」
陽菜が勢いよく立ち上がる。
仕事から帰ってきた父、黒瀬正臣だった。
「おう、陽菜。ただいま」
「今日、唐揚げだよ!」
「おっ、そりゃ楽しみだな」
正臣はネクタイを緩めながら食卓へやってきた。
四十四歳。
派手さはないが、真面目で家族思いの父親だ。
最近は仕事が忙しいらしく、帰宅する頃にはいつも疲れた顔をしている。
それでも、家族の前ではなるべく笑顔を見せようとしていた。
「怜司、学校はどうだった?」
その質問に、怜司の箸が止まった。
「……普通だよ」
「そうか」
正臣は短く答えた。
だが、その目は怜司の顔から離れなかった。
「……怜司」
「なに?」
「無理してないか?」
怜司は返事に詰まった。
父は、知っている。
自分が学校でいじめられていることを。
何度も学校へ足を運び、担任や教頭と話をしてくれた。
それでも、状況は変わらなかった。
いや、むしろ悪化していた。
「……大丈夫だよ」
いつものように答える。
すると、正臣は静かに首を振った。
「怜司。大丈夫じゃないときまで、大丈夫だと言わなくていいんだぞ」
「……っ」
「父さんも母さんも、お前が何をされているのか、全部は分かってやれないかもしれない」
正臣は椅子に座り、怜司を真っ直ぐ見つめた。
「でもな、学校に行くのが辛いなら、無理して行く必要なんてない」
「……父さん」
「学校なんかより、お前の身体の方がずっと大事だ」
怜司は俯いた。
胸の奥が熱くなる。
何度も言われてきた言葉だった。
父も母も、自分を責めたことなど一度もない。
それなのに、自分は。
何もできないまま、心配ばかりかけている。
「……ありがとう」
声が少し震えた。
「でも、もう少しだけ……頑張ってみたいんだ」
正臣はしばらく怜司を見つめていた。
「……そうか」
そして、ゆっくりと頷く。
「分かった。ただし、何かあったら必ず言え。約束だぞ」
「……うん」
怜司は小さく頷いた。
今はまだ、異世界のことを話すつもりはなかった。
話しても信じてもらえないだろうし、何より自分自身、何が起こっているのか理解できていない。
けれど。
いつか必ず、全部話そう。
そのときは、父さんも母さんも陽菜も、安心して笑っていられるように。
怜司は心の中で、そう決めた。
◇ ◇ ◇
夕食を終え、自室へ戻った怜司はベッドに腰を下ろした。
「……さて」
誰もいないことを確認して、小さく呟く。
「ステータス」
すると、視界に半透明の文字が浮かび上がった。
【個体名:黒瀬怜司】
【種族:人間/特異個体】
【レベル:8】
【生命力:1,280】
【魔力:1,760】
【筋力:680】
【耐久:840】
【敏捷:736】
【知力:624】
【精神:792】
【神級権能:無限成長/完全適応/万象習得】
【固有権能:界渡り】
「……やっぱり見える」
日本に戻ってからも、ステータスは問題なく表示された。
つまり、異世界で手に入れた力は本当に現実世界でも使えるということだ。
怜司はしばらく数値を眺めた後、気になっていた権能に意識を向けた。
「……万象習得」
その瞬間、新たな説明が浮かび上がる。
【神級権能《万象習得》】
【あらゆる知識・技術・魔法・武術などの習得効率を極限まで高めます】
【対象を理解するほど、習得速度と再現精度が向上します】
「……あらゆる知識?」
怜司は机の上に置かれた数学の教科書を見た。
明日の授業で使う予定のものだ。
正直、数学はあまり得意ではない。
授業中も翔真たちの視線が気になって、まともに集中できなかった。
試験の点数も、最近は下がる一方だった。
「……まさかな」
半信半疑で教科書を開く。
二次関数。
平方完成。
最大値と最小値。
今までは、問題文を読んだだけで頭が痛くなっていた。
だが。
「……あれ?」
教科書の解説を読み進めるうちに、式の意味がすんなりと頭に入ってきた。
なぜ、この式を変形するのか。
なぜ、ここで符号が変わるのか。
どの数字が、グラフのどの部分に対応しているのか。
今まで曖昧だった部分が、少しずつ繋がっていく。
「……分かる」
怜司は思わず呟いた。
もちろん、教科書を見ただけで何もかも理解できるわけではない。
それでも、一度解説を読めば、以前より遥かに早く内容が頭に入ってきた。
試しに問題集を開く。
最初の問題。
次の問題。
さらに、その次。
「……すげえ」
気づけば、十分ほどで十問近く解いていた。
以前なら、途中で何度も手が止まっていたはずだ。
だが今は、考えることそのものが楽しい。
「これなら……」
怜司は教科書を見つめた。
勉強も。
運動も。
もしかすると、今まで自分には無理だと思っていたことの多くが、できるようになるのかもしれない。
胸が高鳴った。
ただ、そこで怜司は一つのことに気づいた。
「……でも、力があるだけじゃ駄目だよな」
異世界では、スライム一匹を倒すのにも必死だった。
レベルが上がったからといって、戦い方まで身についたわけではない。
まして、現実世界で何をすればいいのかも分からない。
翔真たちを殴り返す。
それだけなら、今の自分にもできるかもしれない。
だが、それで終わるのだろうか。
翔真の父親には金も人脈もある。
学校は、これまで何度も翔真を庇ってきた。
自分が暴力を振るえば、今度こそこちらが悪者にされる可能性もある。
「……そんなの、絶対に嫌だ」
怜司は机の上で拳を握った。
力を手に入れたからこそ、考えなければならない。
ただ怒りに任せて暴れるのではなく、相手が逃げられない形で、自分たちのしたことを認めさせる。
そのためには、証拠が必要だ。
「……まずは、そこからか」
怜司はスマートフォンを手に取った。
過去のメッセージ。
翔真たちから送られてきた侮辱的な文章。
金を持ってこいという要求。
これまで怖くて消せなかったものが、いくつも残っている。
怜司はそれらを一つずつ確認した。
そして、消されても困らないよう、記録を整理し始めた。
画面に並ぶ言葉を見ていると、胸が苦しくなる。
何度も思い出したくない出来事が蘇ってきた。
それでも、今夜は目を逸らさなかった。
「……絶対に、終わらせる」
小さく呟く。
その言葉には、昨日までとは違う決意が込められていた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
目覚まし時計が鳴るより先に、怜司は目を覚ました。
「……ん?」
身体が軽い。
昨日よりも、さらに調子がいい気がした。
時計を見ると、午前六時十分。
いつもなら、あと三十分は布団から出られない時間だった。
「……眠くない」
怜司はベッドから起き上がった。
軽く伸びをする。
肩も腰も、どこにも違和感がない。
試しに腕立て伏せをしてみようと思った。
「……一回くらいなら」
床に両手をつく。
身体を下ろす。
そして、持ち上げる。
「……あれ?」
あまりにも簡単だった。
もう一回。
さらに一回。
十回。
二十回。
「……嘘だろ」
以前の怜司なら、まともな腕立て伏せなど数回もできなかった。
それなのに、今はほとんど疲れを感じない。
三十回を超えたところで、怜司は自分から動きを止めた。
床を見つめる。
心臓は多少速くなっているが、息はほとんど乱れていない。
「……これが、レベル8か」
怜司はゆっくりと立ち上がった。
そして、洗面所の鏡の前に立つ。
昨日より顔が細くなったような気がする。
ただし、まだ太っていることに変わりはない。
頬には丸みが残っているし、腹も出ている。
見た目だけなら、昨日までと大差ないだろう。
それでも。
「……変わってる」
自分には分かる。
確実に、身体が変化している。
そして何より。
鏡の中の自分の目が、以前とは違っていた。
怯えて俯くばかりだった少年の目に、初めて明確な意思が宿っていた。
◇ ◇ ◇
「お兄ちゃん、今日なんか元気だね!」
朝食の席で、陽菜が言った。
「そうか?」
「うん! いつも朝は眠そうなのに」
「今日はよく眠れたからかな」
「ふーん」
陽菜は納得したような、していないような顔で頷いた。
美咲も怜司を見つめている。
「……怜司、顔色がいいわね」
「そう?」
「ええ。最近ずっと疲れた顔をしていたから」
母の言葉に、怜司は少しだけ胸が痛んだ。
それほど心配をかけていたのだろう。
「……母さん」
「なあに?」
「心配かけて、ごめん」
美咲は目を丸くした。
そして、すぐに首を横に振った。
「何言ってるの。親が子供を心配するのは当たり前でしょう?」
「……うん」
「それより、無理しないこと。いいわね?」
「ああ」
怜司は頷いた。
今日、学校へ行く。
そのことに、恐怖がないわけではなかった。
翔真たちの顔を思い浮かべると、今でも胸がざわつく。
殴られたときの痛み。
笑い声。
誰も助けてくれなかった教室。
簡単に忘れられるものではない。
けれど。
今の自分には、昨日までなかったものがある。
力。
そして、変われるという確信。
「……行ってきます」
「行ってらっしゃい!」
陽菜の明るい声に見送られ、怜司は玄関を出た。
◇ ◇ ◇
学校へ向かう道。
怜司はいつもより少し早い足取りで歩いていた。
不思議なことに、長い坂道を上っても息が切れない。
通学路の途中にある歩道橋も、軽々と上れてしまった。
「……本当にすごいな」
小さく呟く。
だが、学校の校門が見えてきた瞬間、足が止まった。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
昨日まで毎日感じていた、あの嫌な感覚だった。
「……っ」
無意識に拳を握る。
怖い。
やっぱり、怖い。
いくら身体が強くなっても、心まで一晩で変わるわけではない。
それでも、怜司は深く息を吸った。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせる。
「今までとは違う」
そして、一歩を踏み出した。
◇ ◇ ◇
教室に入ると、何人かの生徒がこちらを見た。
だが、すぐに視線を逸らした。
いつも通りの反応だった。
怜司は自分の席へ向かう。
椅子に座り、鞄を置いた。
そのとき。
「おーい、黒瀬ぇ」
聞き慣れた声がした。
怜司の身体が、一瞬強張る。
振り返らなくても分かる。
鷹宮翔真だ。
「昨日言ったよな? ジュース三人分」
翔真が笑いながら近づいてきた。
その後ろには堂島剛と三枝悠斗。
いつもの三人だった。
「まさか忘れてねえよな?」
怜司はゆっくりと顔を上げた。
翔真の顔を見る。
昨日、自分の腹を殴った男。
家族を馬鹿にした男。
何度も自分を踏みにじってきた男。
胸の奥に、冷たいものが広がった。
だが、怜司は怒鳴らなかった。
立ち上がって殴りかかることもしなかった。
ただ、静かに答えた。
「……買ってない」
「あ?」
翔真の笑みが止まった。
「お前、今なんつった?」
「買ってないって言ったんだ」
教室の空気が、わずかに変わった。
堂島が目を丸くする。
三枝も、珍しいものを見るように怜司を見た。
翔真は数秒ほど黙っていた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……へえ」
その笑みは、昨日まで何度も見てきたものだった。
次に何が起こるのか。
怜司は知っている。
胸ぐらを掴まれる。
殴られる。
あるいは、机を蹴り飛ばされる。
いつもなら、ここで謝っていた。
何度も頭を下げていた。
だが。
「……なあ、翔真」
怜司は静かに口を開いた。
「なんだよ」
「一つだけ、聞いていいか?」
「あ?」
怜司は翔真の目を真っ直ぐ見た。
「お前、俺がいつまでも黙ってると思ってるのか?」
教室が静まり返った。
翔真の笑みが消える。
堂島が一歩前へ出た。
そして。
「……てめえ、調子に乗ってんじゃねえぞ!」
翔真の手が、怜司の胸ぐらへ伸びた。
だが、その瞬間。
怜司には、はっきりと見えていた。
伸びてくる手の動きが。
その指先が。
驚くほど、ゆっくりと。
「……遅い」
誰にも聞こえないほど小さく、怜司は呟いた。
昨日までの自分なら、避けることすらできなかった。
だが、今は違う。
もう、ただ殴られるだけの自分ではない。
黒瀬怜司の反撃が、今まさに始まろうとしていた。




