第29話 森を震わせる咆哮――規格外の力と冒険者の誇り
――グルルルルル……!
森の奥から響いてきた唸り声に、黒瀬怜司は息を呑んだ。
木々の間に浮かぶ、二つの赤い光。
それが巨大な獣の瞳だと気づいた瞬間、周囲の空気が一変した。
「全員、下がれ!」
カイルの鋭い声が飛ぶ。
怜司は反射的に後退した。
その直後。
――バキバキバキッ!
太い枝がへし折られ、茂みの奥から巨大な影が飛び出してきた。
「……っ!」
怜司は目を見開いた。
現れたのは、体長三メートル近い巨大な狼だった。
灰黒色の毛皮。
異様に発達した前脚。
口元から覗く、短剣のような牙。
そして何より、額から突き出した一本の黒い角。
普通の狼ではない。
明らかに、魔物だった。
「……ブラッドホーンウルフ!」
リーナが叫んだ。
カイルの表情が険しくなる。
「くそっ! こんな場所に出る魔物じゃねえぞ!」
セドリックが杖を構えた。
「推定Cランク上位! 個体によってはBランク相当です!」
怜司は、思わず拳を握った。
Cランク上位。
つまり、今の自分たちにとって決して油断できない相手だ。
だが、それ以上に気になることがあった。
先ほどの爆発音。
黒い煙。
そして、突然現れた魔物。
――……偶然なのか?
考える時間はなかった。
巨大な狼が、地面を蹴った。
◇ ◇ ◇
――ドンッ!
巨体からは想像できない速度だった。
狼は一直線にカイルへ飛びかかった。
「……っ!」
カイルは剣を構えた。
だが、真正面から受け止めようとはしなかった。
半歩横へずれ、狼の突進を避ける。
その瞬間。
「リーナ!」
「分かってる!」
――ヒュンッ!
矢が放たれた。
狙いは狼の右目。
だが。
――キィンッ!
矢は額の角に弾かれた。
「……硬い!」
リーナが舌打ちする。
狼は着地すると、すぐに身体を反転させた。
その視線が、今度はセドリックへ向けられる。
「……まずい!」
怜司は思わず声を上げた。
セドリックは魔法の詠唱を始めていた。
しかし、狼の突進速度は想像以上だった。
――間に合わない!
怜司の身体が、反射的に動いた。
「……セドリックさん!」
地面を蹴る。
次の瞬間。
怜司は、セドリックの前へ飛び出していた。
「……レイジ!?」
カイルの叫びが響く。
狼の巨大な前脚が、怜司へ振り下ろされた。
――……避けられる!
怜司には、その動きがはっきりと見えていた。
だが、後ろにはセドリックがいる。
自分だけ避ければ、彼が攻撃を受ける。
怜司は瞬時に判断した。
そして。
――ガシッ!
狼の前脚を、両手で受け止めた。
「……なっ!?」
カイルが目を見開く。
リーナも、息を呑んだ。
巨大な魔物の前脚。
その一撃を、十五歳の少年が真正面から止めていた。
――グググッ……!
地面が軋む。
怜司の足元の土が、わずかに沈み込んだ。
だが。
怜司自身は、ほとんど動いていなかった。
「……重い、けど」
怜司は、歯を食いしばった。
「……止められる!」
狼が、驚いたように唸った。
その瞬間。
「レイジ! 離れろ!」
カイルの声が飛んだ。
怜司は、はっとした。
狼の口が、大きく開かれていた。
鋭い牙が、目の前へ迫る。
――……まずい!
怜司は、前脚を押し返した。
――ドンッ!
狼の巨体が、数メートル後方へ押し戻される。
その隙に、怜司は後退した。
カイルが、すぐに横へ並んだ。
「……お前、本当に何者だよ」
怜司は、少し困ったように笑った。
「……ただの新人です」
「ただの新人が、ブラッドホーンウルフの攻撃を止めるか!」
カイルは、思わず叫んだ。
だが、すぐに表情を引き締めた。
「……まあいい」
そして、怜司の肩を軽く叩いた。
「助かった。だが、次は声をかけろ」
怜司は、しっかりと頷いた。
「……はい!」
◇ ◇ ◇
ブラッドホーンウルフは、低く唸りながら四人を睨んでいた。
額の角には、赤黒い魔力が集まり始めている。
セドリックが、顔色を変えた。
「……まずいです!」
カイルが振り返る。
「何だ!?」
「角に魔力が集中しています! 恐らく、魔力を使った突進です!」
その言葉に、カイルの表情が険しくなった。
「……全員、散開!」
四人が素早く距離を取る。
次の瞬間。
――ゴォッ!
狼の身体を、赤黒い光が包んだ。
地面を蹴る。
その速度は、先ほどまでとは比較にならなかった。
「……っ!」
リーナが、慌てて横へ飛ぶ。
だが、狼の進路には、拘束された男たちがいた。
「……ひっ!」
男の一人が、悲鳴を上げた。
逃げようにも、縄で縛られている。
狼は、そのまま突進してくる。
怜司は、息を呑んだ。
――……このままだと!
考えるより先に、身体が動いていた。
「……カイルさん!」
怜司は叫んだ。
「俺が止めます!」
「……レイジ!?」
カイルが目を見開く。
だが、怜司はすでに動いていた。
狼の正面へ回り込む。
そして、両足を地面へ踏み込んだ。
――……今度は、ただ受け止めるんじゃない。
怜司は、バルドの言葉を思い出した。
『相手の力を、真正面から受けるな』
そして、先ほど見たカイルの動き。
剣を斜めに受け流した、あの足運び。
怜司は、身体をわずかに横へずらした。
狼の角が、目の前へ迫る。
――……今だ!
怜司は、角の側面へ手を添えた。
そして、突進の方向を横へ逸らすように力を加えた。
――ドゴォォンッ!
巨大な狼の身体が、進路を大きく変えた。
そのまま、近くの大木へ激突する。
――バキィッ!
木の幹が、大きく裂けた。
狼が、地面へ倒れ込む。
怜司は、思わず息を吐いた。
「……できた」
だが、すぐに気づいた。
――……いや、まだだ!
狼が、再び立ち上がろうとしていた。
その瞬間。
「……レイジ! よくやった!」
カイルの声が響いた。
「今だ! 全員、合わせろ!」
◇ ◇ ◇
リーナが、弓を引いた。
「……逃がさない!」
――ヒュンッ!
矢が、狼の後脚へ突き刺さる。
狼が、苦痛の声を上げた。
その隙に、セドリックが杖を掲げる。
「……《大地の拘束》!」
地面から、太い土の帯が伸びた。
それが狼の四肢へ絡みつく。
――グルルルッ!
狼は、必死に暴れた。
だが、完全には抜け出せない。
カイルが、剣を構えた。
「……レイジ!」
「……はい!」
「お前は、あいつの動きを止めろ!」
怜司は、頷いた。
そして、狼へ向かって駆け出した。
狼は、怜司を睨みつけた。
だが、四肢を拘束されているため、自由には動けない。
怜司は、狼の側面へ回り込んだ。
そして、前脚の付け根を掴んだ。
――……力を入れすぎない。
今度は、慎重に力を加える。
狼の身体が、わずかに傾いた。
その瞬間。
「……今だ!」
カイルが、地面を蹴った。
剣を構える。
そして。
――ザシュッ!
鋭い一撃が、狼の首元へ走った。
ブラッドホーンウルフの身体が、大きく震えた。
そして、ゆっくりと地面へ崩れ落ちた。
――ドサッ。
森に、静寂が戻った。
怜司は、しばらく動けなかった。
目の前には、巨大な魔物の亡骸。
そして、剣を下ろしたカイル。
リーナが、深く息を吐いた。
「……終わった?」
セドリックが、慎重に魔力を確認する。
「……はい。反応が消えました」
カイルは、ゆっくりと頷いた。
「……討伐完了だ」
◇ ◇ ◇
戦闘が終わると、カイルは怜司へ歩み寄った。
「……レイジ」
「……はい」
カイルは、しばらく怜司を見つめていた。
そして、突然笑った。
「……ははっ!」
怜司は、少し驚いた。
「……え?」
「いや、すげえな、お前!」
カイルは、豪快に笑った。
「ブラッドホーンウルフの突進を、素手で逸らすなんて!」
リーナも、呆れたように笑った。
「本当に、規格外ね」
セドリックは、少しだけ微笑んだ。
「……ですが、助かりました」
怜司は、少し照れたように頭を掻いた。
「……いえ、俺一人じゃ無理でした」
カイルは、少しだけ目を細めた。
「……そうだな」
そして、真剣な表情になった。
「お前の力は、確かにすごい」
怜司は、黙って聞いていた。
「だが、今日勝てたのは、全員が役割を果たしたからだ」
怜司は、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
「お前が突進を逸らした」
「リーナが足を止めた」
「セドリックが拘束した」
そして、カイルは自分の剣を見た。
「最後に、俺が仕留めた」
怜司は、その言葉を噛みしめた。
一人では、できなかったこと。
仲間がいたからこそ、成し遂げられたこと。
それが、冒険者の戦い方なのだ。
怜司は、静かに微笑んだ。
「……勉強になりました」
カイルは、満足そうに頷いた。
「……よし」
そして、怜司の肩を軽く叩いた。
「お前、いい冒険者になれるぞ」
怜司は、少しだけ目を見開いた。
その言葉が、胸に残った。
◇ ◇ ◇
だが、問題はまだ終わっていなかった。
拘束された男たち。
森の奥にある小屋。
そして、突然現れたブラッドホーンウルフ。
カイルは、静かに男たちへ視線を向けた。
「……さて」
その声に、男たちが身体を震わせた。
「そろそろ、話してもらおうか」
男の一人が、顔を上げた。
「……な、何を」
カイルは、静かに問いかけた。
「……あの魔物は、何だ?」
男は、唇を噛んだ。
そして、しばらく黙っていた。
だが。
「……俺たちだって、知らなかったんだ!」
突然、叫んだ。
怜司は、目を見開いた。
「……え?」
男は、震える声で続けた。
「魔物の鳴き声を出す道具は使ってた! でも、本物の魔物が出るなんて聞いてねえ!」
カイルの表情が、険しくなった。
「……つまり、想定外だったってことか」
男は、必死に頷いた。
「……そうだ!」
セドリックが、静かに口を開いた。
「……ですが、先ほどの爆発には魔力が使われていました」
男は、顔色を変えた。
「……それは」
カイルが、一歩近づいた。
「……誰が使った?」
男は、震えながら答えた。
「……頭だ」
怜司は、息を呑んだ。
「……リーダーの男?」
男は頷いた。
「……あいつが、魔法道具を持ってた」
そして、怯えたように森の奥を見た。
「……俺たちも、詳しいことは知らねえ」
カイルは、静かに考え込んだ。
街道を妨害するための魔法道具。
突然の爆発。
そして、現れた魔物。
偶然なのか。
それとも、何かの仕掛けがあったのか。
まだ、分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
この事件には、まだ裏がある。
◇ ◇ ◇
その頃。
森のさらに奥。
黒い革鎧を身につけた男が、木々の間を歩いていた。
先ほど、小屋から姿を現した男だった。
その手には、小さな魔法道具が握られている。
男は、苛立ったように舌打ちした。
「……くそっ」
そして、振り返った。
遠くから、かすかに戦闘の音が聞こえていた。
「……まさか、あいつらがあそこまでやるとはな」
男は、魔法道具を握りしめた。
その表面には、細かな亀裂が走っている。
「……予定が狂った」
男は、低く呟いた。
そして、森の奥へ歩き始めた。
「……報告しなきゃならねえな」
その声には、焦りが滲んでいた。
男は、まだ知らなかった。
自分たちが相手にした冒険者の中に、常識では測れない少年がいたことを。
そして、その少年が、これからさらに成長していくことを。
森の奥へ、男の姿が消えていく。
街道封鎖事件。
その真相は、まだ完全には明らかになっていなかった。
だが。
確実に、何かが動き始めていた。




