第26話 初めての合同依頼――街道に潜む不自然な痕跡
学校がいじめを正式に認定した翌日の夜。
黒瀬怜司は、自室の机に向かっていた。
目の前には数学の問題集が開かれている。
以前なら、数式を見るだけで頭が痛くなっていた。
だが今は、問題を一つずつ読み解くことができる。
神級権能《万象習得》。
その力によって、理解する速度が以前とは比べものにならないほど上がっていた。
もっとも、問題を見ただけで答えが浮かぶわけではない。
公式の意味を理解し、解き方を考え、実際に計算する必要はある。
「……よし、合ってる」
答え合わせを終えた怜司は、シャープペンシルを置いた。
学校での問題は、大きく動いた。
けれど、父の正臣が言っていたとおり、学校が認めたからといってすべてが終わるわけではない。
翔真たちが本当に嫌がらせをやめるのか。
学校が約束した安全対策を続けるのか。
それは、これから確かめていかなければならない。
怜司は机の上のスマートフォンを確認した。
父から届いていたメッセージには、学校側からの追加連絡があれば家族で共有すること、何かあればすぐ相談することが書かれていた。
「……分かってるよ、父さん」
小さく呟いて、スマートフォンを伏せる。
そして、引き出しから別のノートを取り出した。
そこには、異世界で学んだことが記されている。
魔物の特徴。
冒険者ギルドの仕組み。
魔力を感じ取るときの感覚。
そして、ルミエールの街道で起きている物資輸送の問題。
「……そろそろ、依頼が出てるかな」
怜司は、ノートを閉じた。
学校での生活を大切にする。
家族との時間も大切にする。
そのうえで、異世界でも経験を積んでいきたい。
怜司は部屋の扉を確認すると、静かに立ち上がった。
誰にも見られないことを確かめてから、固有権能《界渡り》を発動する。
目の前の空間が、ゆっくりと揺らいだ。
次の瞬間。
怜司の姿は、日本の自室から消えていた。
◇ ◇ ◇
ルミエールの街。
人目のない場所へ移動した怜司は、周囲を確認してから大通りへ出た。
こちらの空は、まだ明るい。
日本とは時間の流れが異なる。
その差が一定なのかどうかも、まだ分かっていない。
だからこそ、帰る時間には気をつけなければならなかった。
「……まずはギルドだな」
怜司は、冒険者ギルドへ向かった。
扉を開けると、いつもの賑やかな声が耳に飛び込んでくる。
依頼書を眺める冒険者。
報酬を受け取る者。
仲間と次の仕事について相談する者。
その中を進んでいくと、受付にいたミリアが怜司に気づいた。
「レイジ様! いらっしゃいませ!」
「こんにちは、ミリアさん」
怜司が挨拶すると、ミリアは嬉しそうに微笑んだ。
「ちょうどよかったです。ギルド長から、レイジ様がいらっしゃったらお声がけするようにと言われていたんです」
「……バルドさんが?」
「はい。少々お待ちください」
ミリアは受付の奥へ声をかけた。
しばらくすると、見慣れた大柄な男が姿を現した。
「ガハハ! 来たか、レイジ!」
ギルド長バルド・グランツだった。
「……こんにちは」
「おう! 魔力の調子はどうだ?」
怜司は、自分の右手を見た。
「まだ、練習中です」
「よし。それでいい」
バルドは満足そうに頷いた。
「間違っても、昨日の光をもう一度出そうなんて考えるなよ」
「……分かってます」
怜司が苦笑すると、バルドは豪快に笑った。
「ガハハ! なら結構!」
だが、次の瞬間には真剣な表情になった。
「今日は、お前に相談したいことがある」
怜司は、顔を上げた。
「……相談、ですか?」
「ああ。ルミナス伯爵家から正式な依頼が来た」
その言葉に、怜司の表情が変わった。
「……街道の調査ですか?」
バルドは、少し驚いたように眉を上げた。
「ほう。知っていたか」
「エリシアから、少し聞きました」
「なるほどな」
バルドは頷いた。
そして、受付の奥を指さした。
「詳しい話をする。ついてこい」
◇ ◇ ◇
ギルドの会議室。
机の上には、ルミエール周辺の地図が広げられていた。
その周囲には、怜司のほかに三人の冒険者が集まっている。
一人は、茶色い短髪の青年。
革鎧を身につけ、腰には片手剣を下げていた。
もう一人は、赤毛の女性。
背中には弓を背負っている。
そして最後は、灰色の髪をした細身の男性だった。
その手には、短い杖が握られている。
「紹介しておこう」
バルドが口を開いた。
「今回の調査を担当する、Cランク冒険者パーティー《蒼風の牙》だ」
茶髪の青年が、怜司へ手を差し出した。
「俺はカイル。パーティーのリーダーをやってる」
「……レイジ・クロセです」
怜司は、少し緊張しながら握手した。
カイルは、気さくに笑った。
「よろしくな、レイジ」
続いて、赤毛の女性が片手を上げた。
「私はリーナ。弓と索敵担当よ」
そして、灰髪の男性が軽く頭を下げる。
「セドリックです。魔法と簡単な治療を担当しています」
怜司も、慌てて頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
バルドは、地図の上に指を置いた。
「今回の依頼は、ルミエール東方の街道調査だ」
地図には、街から東へ延びる道が描かれていた。
途中には小さな森があり、その先にいくつかの村がある。
「最近、この街道で荷馬車の引き返しが相次いでいる」
バルドは続けた。
「商人たちは魔物が増えたと言っているが、詳しい状況が分からん」
カイルが腕を組んだ。
「魔物の討伐じゃなくて、まずは原因の確認ってことですね」
「そうだ」
バルドは頷いた。
「魔物の生息状況、街道の損傷、輸送を妨げる要因。それらを調べて報告する」
リーナが地図を覗き込んだ。
「最近、東の森で大型の魔物が出たって話は聞かないけどね」
「だからこそ調査が必要なんだ」
バルドは、静かに答えた。
そして、怜司へ視線を向けた。
「レイジ。お前には、この調査に同行してもらおうと思っている」
怜司は、目を見開いた。
「……俺が?」
「ああ」
バルドは頷いた。
「ただし、勘違いするなよ」
その表情が、少しだけ厳しくなる。
「お前はまだFランクだ。今回は正式な補助要員として、経験者の指示に従ってもらう」
怜司は、しっかりと頷いた。
「……はい」
「勝手に先行するな。敵を見つけても、独断で飛び出すな」
「……はい」
「危険だと判断したら、迷わず引け」
怜司は、もう一度頷いた。
「分かりました」
バルドは、満足そうに笑った。
「ガハハ! いい返事だ!」
そして、カイルへ視線を向けた。
「こいつは力だけなら規格外だが、冒険者としてはまだ初心者だ」
カイルは、少し驚いたように怜司を見た。
「……へえ」
「だから、技術を教えてやってくれ」
カイルは、にやりと笑った。
「任せてください」
その笑顔を見て、怜司は少しだけ緊張した。
だが同時に、胸の奥が高鳴っていた。
初めての合同依頼。
自分以外の冒険者と行動するのも、これが初めてだ。
学べることは、きっと多い。
◇ ◇ ◇
出発は、翌日の朝となった。
それまでに装備を整え、必要な物資を確認する。
会議が終わると、カイルが怜司へ声をかけた。
「レイジ。ちょっといいか?」
「……はい」
カイルは、怜司の装備を上から下まで眺めた。
「お前、武器は?」
「……今は、持ってません」
その答えに、カイルは目を瞬かせた。
「……は?」
リーナも、思わず振り返った。
「ちょっと待って。武器なしで冒険者やってるの?」
怜司は、少し気まずそうに頷いた。
「……はい」
カイルは、額に手を当てた。
「……バルドさん、何考えてんだ」
だが、すぐに苦笑した。
「まあ、事情があるんだろうな」
そして、真剣な表情になる。
「でもな、レイジ」
「……はい」
「力が強いからって、素手で何でも解決できるわけじゃない」
怜司は、黙って聞いていた。
「毒を持つ魔物もいるし、近づくだけで危険な相手もいる」
カイルは続けた。
「だから、まずは自分の身を守る装備を考えろ」
怜司は、しっかりと頷いた。
「……分かりました」
リーナが、少し笑った。
「まあ、今回は私たちがいるから安心して」
そして、少しだけ目を細めた。
「でも、勝手なことしたら怒るからね?」
「……はい」
怜司は、思わず背筋を伸ばした。
その様子に、三人が笑った。
怜司も、少しだけ笑った。
初めて会った人たちなのに、不思議と話しやすかった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
ルミエール東門。
怜司は、カイルたちと合流していた。
装備は、ギルドから借りた簡易防具と短剣。
短剣はあくまで護身用であり、積極的に戦うためのものではない。
怜司は、腰の短剣を確認した。
「……よし」
カイルが、地図を広げた。
「今日の目的地は、東の森の手前までだ」
そして、怜司へ視線を向けた。
「まずは街道の様子を見ながら進む」
怜司は頷いた。
「……はい」
リーナが、弓の弦を確認する。
セドリックは、杖を握り直した。
準備が整うと、四人は街道へ向かって歩き始めた。
ルミエールの城壁が、少しずつ遠ざかっていく。
怜司は、周囲を見渡した。
広がる草原。
遠くに見える森。
そして、街道を行き交う荷馬車。
異世界の景色は、何度見ても新鮮だった。
だが、今日は観光ではない。
正式な依頼だ。
怜司は、気持ちを引き締めた。
◇ ◇ ◇
街道を進み始めて、一時間ほどが経過した。
カイルは、歩きながら怜司へ様々なことを教えてくれた。
「……まず、足元ばかり見るな」
「……はい」
「でも、遠くばかり見ても駄目だ」
カイルは、周囲を指さした。
「道の状態、草の倒れ方、動物の足跡。そういうものを少しずつ確認するんだ」
怜司は、頷いた。
そして、意識して周囲を観察した。
神級権能《万象習得》が、静かに働き始める。
見たもの。
聞いたこと。
教えられたこと。
それらが、少しずつ頭の中で整理されていく。
だが、すべてが一瞬で分かるわけではない。
実際に見て、考える必要があった。
「……あれ?」
怜司は、ふと足を止めた。
カイルが振り返る。
「どうした?」
怜司は、道端の地面を指さした。
「……ここ、何か変じゃないですか?」
カイルが近づいてきた。
そこには、荷馬車の車輪が通った跡が残っていた。
だが、その跡は途中で不自然に曲がっている。
カイルは、しゃがみ込んだ。
「……ほう」
リーナも近づいてくる。
「どうしたの?」
カイルは、地面を指さした。
「ここで、荷馬車が急に進路を変えてる」
怜司は、周囲を見渡した。
道は、まっすぐ続いている。
大きな障害物も見当たらない。
「……何かを避けたんでしょうか」
カイルは、頷いた。
「可能性はあるな」
そして、周囲の草むらを調べ始めた。
リーナも、弓を手にして周囲を警戒する。
セドリックは、静かに杖を構えた。
怜司も、息を潜めた。
何かがいる。
そんな気配が、少しずつ強くなっていった。
◇ ◇ ◇
しばらくして。
リーナが、低い声で言った。
「……カイル」
「……何だ?」
「こっち」
リーナは、道端の草むらを指さした。
そこには、いくつもの足跡が残っていた。
怜司は、目を凝らした。
大きな足跡。
そして、その周囲に残る小さな跡。
カイルは、しゃがみ込んだ。
「……魔物の足跡か?」
リーナは、首を横に振った。
「……違うと思う」
そして、少しだけ眉をひそめた。
「これ、人間の足跡よ」
怜司は、目を見開いた。
「……人間?」
リーナは頷いた。
「複数人。しかも、同じ場所を何度も歩いてる」
カイルの表情が、真剣になった。
「……なるほどな」
怜司は、周囲を見渡した。
街道のすぐ脇。
森へ続く細い獣道。
そして、何度も踏み固められた地面。
偶然通りかかっただけにしては、不自然だった。
そのとき。
セドリックが、静かに口を開いた。
「……皆さん」
三人が振り返る。
セドリックは、杖の先を地面へ向けていた。
「……こちらに、魔力の残滓があります」
怜司は、思わず顔を上げた。
「……魔力?」
セドリックは頷いた。
「ごく微弱ですが、何らかの魔法が使われた形跡です」
怜司は、息を呑んだ。
魔法。
人間の足跡。
そして、不自然に曲がった荷馬車の車輪跡。
それらが、少しずつつながり始めていた。
カイルは、静かに剣の柄へ手を置いた。
「……全員、警戒しろ」
その声は、先ほどまでとは違っていた。
冒険者としての、鋭い声だった。
「……この先、何かあるぞ」
怜司は、ゆっくりと頷いた。
初めての合同依頼。
その調査は、まだ始まったばかりだった。
だが。
街道で起きている問題は、単なる魔物の増加ではないのかもしれない。
怜司は、静かに拳を握った。
そして、カイルたちとともに、慎重に歩き始めた。
森の奥から、冷たい風が吹いてきた。
その風には、かすかな土の匂いと。
何かが焦げたような、不自然な臭いが混じっていた。




