第18話 仕組まれた面談――権力者の思惑と父の覚悟
翌朝。
黒瀬怜司は、洗面所の鏡をじっと見つめていた。
そこに映っているのは、見慣れた自分の顔。
丸みの残る頬。
大柄な身体。
まだ、誰が見ても痩せたとは言えない体型だった。
だが、以前とは確実に違っている。
階段を上っても息が切れない。
身体を動かすことが苦痛ではなくなった。
何より、鏡の中の自分と目を合わせられるようになった。
「……少しは、変わったかな」
怜司は小さく呟いた。
異世界でレベルを上げたことで、身体能力は大きく向上している。
肉体最適化率は十六パーセント。
見た目の変化は緩やかだが、身体の内側では確かな変化が進んでいた。
ただ、それ以上に大きかったのは、気持ちの変化だった。
以前は、朝が来るのが怖かった。
学校へ行けば、また何かされる。
何を言われるか分からない。
そんなことばかり考えていた。
今も、怖さが消えたわけではない。
けれど。
――もう、一人じゃない。
父がいる。
母がいる。
陽菜がいる。
そして、学校で見たことを話すと言ってくれた相沢直人もいる。
異世界には、バルドやエリシアだっている。
怜司は、ゆっくりと息を吐いた。
「……よし」
今日は、学校側との面談が予定されていた。
正確には、放課後に父と母が同席する話し合いだ。
怜司自身も、希望すれば参加できることになっている。
正臣は昨夜、こう言ってくれた。
『無理に出る必要はない。だが、自分の言葉で伝えたいなら、父さんたちは隣にいる』
怜司は、その言葉を何度も思い返していた。
そして、決めた。
――俺も、行く。
自分の問題だ。
父や母に任せきりにはしたくない。
もちろん、怖い。
翔真の父親が来るかもしれない。
校長や担任だって、自分の味方とは限らない。
それでも。
今度は、目を逸らしたくなかった。
◇ ◇ ◇
「お兄ちゃん、おはよう!」
リビングへ下りると、陽菜が元気よく声をかけてきた。
「……おはよう」
怜司は笑って答えた。
陽菜は、制服姿で朝食を食べている。
テーブルには、焼き鮭と味噌汁。
そして、卵焼きが並んでいた。
「お兄ちゃん、今日も学校?」
「……うん」
「……大丈夫?」
陽菜の声が、少しだけ小さくなった。
怜司は、妹の顔を見つめた。
いつも明るい陽菜。
だが、最近は自分のことを心配しているのが分かる。
翔真から届いた脅迫の中には、陽菜の通学路を示唆するものまであった。
そのことを、陽菜本人へどこまで伝えるべきか。
父と母も、慎重に考えている。
怜司は、無理に明るく振る舞うのではなく、落ち着いて答えた。
「……大丈夫にするために、今日話し合うんだ」
陽菜は、少し驚いたように目を丸くした。
「……そっか」
「うん」
怜司は微笑んだ。
「父さんも母さんもいるから」
陽菜は、ゆっくりと頷いた。
そして、少しだけ笑った。
「……じゃあ、頑張ってね」
「……ありがとう」
その言葉だけで、胸が温かくなった。
美咲が、台所から二人を見つめていた。
その表情には、安堵と心配が入り混じっている。
怜司は、母へ視線を向けた。
「……母さん」
「なあに?」
「……今日、俺もちゃんと話すよ」
美咲は、一瞬だけ目を見開いた。
そして、優しく微笑んだ。
「……ええ」
その声は、少しだけ震えていた。
「一緒に、頑張りましょうね」
◇ ◇ ◇
午前八時十分。
怜司は、学校の正門前に立っていた。
見慣れた校舎。
見慣れた通学路。
だが、今日は少しだけ違って見えた。
正門を通り抜ける生徒たち。
その中には、怜司を見てひそひそと話す者もいた。
「……あいつ、黒瀬じゃね?」
「……最近、鷹宮と揉めてるらしいぞ」
「……警察に相談したって、本当?」
そんな声が、耳に入ってくる。
以前なら、顔を伏せていた。
だが、怜司は歩みを止めなかった。
誰かが何かを言っている。
それは分かる。
けれど、そのすべてに反応する必要はない。
父が言っていた。
大切なのは、事実だ。
噂ではない。
怜司は、ゆっくりと校舎へ向かった。
そのとき。
「……黒瀬」
背後から、声がした。
振り返ると、相沢直人が立っていた。
「……相沢」
直人は、少し緊張した表情をしていた。
「……今日、面談なんだろ?」
怜司は頷いた。
「……うん」
直人は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……俺、昨日のうちに、見たことをまとめた」
怜司は目を見開いた。
「……え?」
直人は、鞄から一枚の紙を取り出した。
「いつ、どこで、何を見たか」
その紙には、日付と出来事が整理されていた。
翔真たちが怜司を取り囲んでいたこと。
教室で荷物を勝手に動かしていたこと。
堂島が怜司の肩を押したこと。
そして、周囲の生徒たちが、それを見ていたこと。
怜司は、言葉を失った。
「……相沢」
「……全部じゃない」
直人は、少し俯いた。
「俺が見てたことだけだ」
怜司は、紙を見つめた。
そこには、余計な感情的表現がほとんどなかった。
ただ、見たことが書かれている。
父が求めていた、まさにそういう記録だった。
「……ありがとう」
怜司は、静かに言った。
直人は、少し驚いたように顔を上げた。
「……いや」
そして、苦笑した。
「もっと早く、こうすればよかったんだ」
怜司は、すぐには答えなかった。
過去に何もしてくれなかったこと。
その寂しさが、消えたわけではない。
だが、今こうして動いてくれていることも事実だった。
「……助かるよ」
怜司は、もう一度言った。
直人は、ほっとしたように頷いた。
◇ ◇ ◇
一方。
校長室では、朝から重苦しい空気が漂っていた。
校長の榊原義隆は、机の上に置かれた書類を見つめていた。
向かいには、担任の田所浩一。
そして、教頭の姿もある。
「……まったく」
榊原は、深いため息をついた。
「どうして、こんな大事になったんだ」
田所は、困ったように眉を下げた。
「……私としては、当初から生徒同士の行き違いだと考えておりまして……」
「その説明で済むなら、警察に相談などされんだろう!」
榊原の声が、少し大きくなった。
田所は、慌てて口を閉じた。
榊原は、額を押さえた。
問題は、単なるいじめの相談ではなくなっていた。
黒瀬家は、脅迫のメッセージを保存している。
学校側の対応についても、記録を残している。
さらに、警察への相談まで済ませていた。
これまでのように、曖昧な説明で終わらせることは難しい。
そのうえ。
鷹宮開発の社長、鷹宮隆臣からも連絡が入っている。
学校への寄付。
地域への影響力。
それらを考えれば、簡単に無視できる相手ではなかった。
「……鷹宮社長は、何と?」
教頭が尋ねた。
榊原は、苦い顔をした。
「……今日の面談に同席するそうだ」
田所が、目を見開いた。
「……社長ご本人が?」
「ああ」
榊原は、深いため息をついた。
「こちらの対応を確認したい、と」
教頭は、しばらく黙っていた。
そして、慎重に口を開いた。
「……校長」
「何だ」
「今回の件は、事実関係を優先して進めるべきかと」
榊原の眉が動いた。
「……分かっている」
だが、その声には迷いがあった。
学校の立場。
保護者への説明。
そして、鷹宮家との関係。
そのすべてを守ろうとすればするほど、身動きが取れなくなっていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
鷹宮開発の本社。
鷹宮隆臣は、秘書から差し出された資料を確認していた。
「……黒瀬正臣」
低く、名前を呟く。
資料には、黒瀬家について調べられる範囲の情報がまとめられていた。
一般的な家庭。
特別な政治的後ろ盾もない。
大企業とのつながりも見当たらない。
それなのに。
息子の問題について、学校側へ正式な対応を求めている。
「……面倒な父親だな」
隆臣は、小さく息を吐いた。
秘書が慎重に口を開いた。
「社長。今回の件ですが……」
「何だ」
「黒瀬家が警察へ相談している以上、強い圧力をかけるのは得策ではないかと」
隆臣は、ゆっくりと顔を上げた。
「……分かっている」
その声は冷静だった。
「だからこそ、今日は話し合いに行く」
隆臣は資料を閉じた。
「息子の行動に問題があったなら、謝罪は必要だろう」
秘書は、少し驚いたように目を瞬かせた。
だが、隆臣は続けた。
「ただし、必要以上の責任を認めるつもりはない」
その言葉に、秘書は黙って頷いた。
隆臣は椅子にもたれかかった。
謝罪はする。
だが、事態を拡大させない。
学校にも、同じ方向で対応させる。
それが、今日の目的だった。
彼にとって重要なのは、息子の行動を正しく理解することよりも、会社や家族の評判への影響を抑えることだった。
そして。
その考え方こそが、後に大きな問題を生むことになる。
◇ ◇ ◇
放課後。
黒瀬怜司は、校舎の一階にある応接室の前に立っていた。
隣には、父の正臣。
そして、母の美咲。
正臣は、手にした書類を確認している。
美咲は、少し緊張した表情だった。
怜司も、胸の奥が落ち着かなかった。
「……父さん」
「ん?」
「……俺、ちゃんと話せるかな」
正臣は、怜司を見つめた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「全部を上手く話そうとしなくていい」
怜司は顔を上げた。
「……え?」
「覚えていることを、覚えている通りに話せばいい」
正臣は、静かに続けた。
「分からないことは、分からないと言えばいい。無理に答える必要もない」
怜司は、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
美咲も、優しく微笑んだ。
「大丈夫よ。私たちが一緒にいるから」
怜司は、両親を見つめた。
そして、深く息を吸った。
「……ありがとう」
その言葉に、正臣は小さく頷いた。
「……行こうか」
怜司は、しっかりと頷いた。
そして。
応接室の扉が、静かに開かれた。
◇ ◇ ◇
部屋の中には、すでに数人の大人が座っていた。
校長の榊原義隆。
教頭。
担任の田所浩一。
そして。
窓際の席に、一人の男性が座っていた。
高級そうなスーツ。
整えられた髪。
鋭い目つき。
その姿を見た瞬間、怜司は直感した。
――この人が。
鷹宮翔真の父親。
鷹宮隆臣。
男性は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、怜司へ視線を向けた。
「……君が、黒瀬怜司君か」
低く、落ち着いた声だった。
怜司は、少しだけ緊張しながら頷いた。
「……はい」
隆臣は、しばらく怜司を見つめた。
そして、静かに微笑んだ。
「……息子が、迷惑をかけたようだね」
その言葉に、怜司は少し驚いた。
思っていたよりも、穏やかな口調だった。
だが。
その目は、笑っていなかった。
正臣が、静かに口を開いた。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
榊原が、慌てて頷いた。
「い、いえ。こちらこそ……」
正臣は、落ち着いた声で続けた。
「まず、本日の話し合いについて確認させてください」
その言葉に、室内の空気が少し変わった。
正臣は、机の上へ一枚の書類を置いた。
「本日の面談内容について、後日、学校側と双方で確認できる形の記録を残したいと考えています」
榊原の表情が、わずかに強張った。
田所も、落ち着かない様子で視線を動かす。
隆臣は、静かに正臣を見つめていた。
「……なるほど」
そして、ゆっくりと口を開いた。
「慎重な方のようですね」
正臣は、穏やかに答えた。
「息子の安全に関わることですから」
その言葉に、隆臣の目が細くなった。
正臣は、怯まなかった。
「感情的な言い争いをするつもりはありません」
そして、机の上へ、もう一つの資料を置いた。
「ただ、事実を曖昧にしたまま終わらせるつもりもありません」
怜司は、父の横顔を見つめた。
声を荒らげていない。
相手を威圧しているわけでもない。
だが、その言葉には確かな強さがあった。
――父さん。
怜司は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
そして。
隆臣が、ゆっくりと微笑んだ。
「……では、始めましょうか」
その声は、静かだった。
だが、室内には張り詰めた空気が漂っていた。
黒瀬家と鷹宮家。
そして、学校。
三者の思惑が交差する面談が、今まさに始まろうとしていた。




