第160話 御堂隆臣の焦燥
第160話 御堂隆臣の焦燥
東邦メディカルホールディングス本社。
最上階の役員会議室には、重苦しい空気が漂っていた。
長い会議テーブルの上には、各事業部から提出された報告書が並べられている。
その内容は、御堂隆臣にとって決して喜ばしいものではなかった。
「……もう一度説明しろ」
低い声が響いた。
営業本部長が緊張した面持ちで資料を確認する。
「直近の契約更新案件において、九条院グループおよび西園寺グループの製品が採用される事例が増えています」
「具体的には?」
「医療機器の保守契約で複数件、医療材料の供給契約でも一部の取引先が切り替えを決定しました」
御堂の眉間に深い皺が刻まれた。
「金額は?」
「現時点では、グループ全体の売上を大きく揺るがす規模ではありません。しかし、次の契約更新を控える医療機関でも、比較検討が進んでいます」
「つまり、今後さらに増える可能性があるということか」
「……はい」
御堂は椅子の背もたれに体を預けた。
まだ数字だけを見れば、致命的な損失ではない。
だが、問題はそこではなかった。
これまで東邦メディカルは、長年にわたる取引関係を強みとしてきた。
一度導入された医療機器は、簡単には他社製品へ切り替えられない。
医療材料も同様だ。
病院側には使い慣れた製品を継続したいという事情がある。
その安定した取引基盤こそが、東邦メディカルの収益を支えてきた。
ところが今、その前提が揺らぎ始めていた。
「九条院と西園寺……」
御堂は忌々しそうに呟いた。
「なぜ、そこまでして我々の市場へ踏み込んでくる?」
誰も答えなかった。
答えられなかったのではない。
心当たりがある者は、少なくなかった。
ルミナス・ライフへの買収提案。
その拒絶。
その後に続いた、不審な情報収集。
そして、西園寺家で起きた事故。
すべてが無関係だと考えるには、あまりにも時期が重なっていた。
しかし、現段階で東邦メディカルの経営陣が事件に関与したという証拠はない。
桐生雅彦は、その点を慎重に見極めようとしていた。
「社長」
桐生が静かに口を開く。
「相手の狙いを考えることも必要ですが、今は我々自身の事業を立て直すべきです」
「立て直す?」
「はい。現場からは以前から改善提案が出ています」
桐生は資料を差し出した。
「保守対応の人員不足、部品供給の遅延、製品改良の遅れ。どれも、今回の競争で弱点として表面化しています」
御堂は資料を一瞥した。
「利益率を下げてまで対応する必要があるのか?」
「今対応しなければ、将来の利益そのものが失われます」
桐生の言葉は静かだった。
しかし、そこには明確な意思が込められていた。
「九条院グループは、短期的な利益よりも顧客との長期的な関係を重視しています。西園寺グループも同様です」
「だから何だ」
「我々も変わらなければ、勝てません」
会議室が静まり返る。
御堂はゆっくりと桐生を見た。
「……私の経営方針が間違っていたと言いたいのか?」
「そうは申し上げていません」
桐生は視線を逸らさなかった。
「ですが、これまで成功してきた方法が、今後も通用するとは限りません」
御堂の表情が険しくなる。
「君は、あの高校生をそこまで評価しているのか?」
「黒瀬怜司ですか」
「ああ」
桐生は少し考えた。
「少なくとも、我々が当初想定していたような、技術だけを持った未熟な少年ではないと思います」
御堂が鼻で笑う。
「周囲の大人が動いているだけだろう」
「その大人たちが、彼の判断を尊重していることが重要なのです」
桐生の言葉に、御堂は黙り込んだ。
「九条院家と西園寺家が、単なる利益目的だけでここまで協力するとは考えにくい。黒瀬怜司という人物そのものに、相当な信頼を置いているのでしょう」
御堂は机の上の資料を見つめた。
高校生。
ほんの少し前まで、企業経営の経験すらなかった少年。
そんな相手に、自分が築き上げてきた巨大企業の経営が脅かされようとしている。
その事実が、御堂には耐え難かった。
◇
会議が終わった後。
桐生は自室へ戻り、別の報告書を開いていた。
西園寺家の事故に関するものだった。
民間調査業者、葛城慎吾。
警察は引き続き、事故当時の行動や依頼関係を調べているという。
桐生は深いため息をついた。
「……どこまで関わっているんだ」
彼自身、葛城への依頼経路を完全には把握していなかった。
東邦メディカルの一部門が、外部調査会社を利用して競合企業の情報を収集していたことは知っている。
しかし、その調査がどこまで行われていたのか。
誰が、何を指示したのか。
それらはまだ確認できていなかった。
桐生は内線電話を手に取った。
「法務部長を呼んでくれ」
数分後、法務部長が姿を現した。
「お呼びでしょうか」
「ああ。外部調査会社との契約について、改めて確認したい」
「……何か問題でも?」
「問題があるかどうかを調べるんだ」
桐生は資料を差し出した。
「葛城慎吾という人物に関係する契約、支払い、業務指示の記録を確認してほしい」
法務部長の表情が引き締まる。
「承知しました」
「それと、関連資料の保全を徹底してくれ。記録の削除や改変が起きないように」
「はい」
法務部長が退室した後、桐生は窓の外を眺めた。
巨大企業には、何万人もの生活が関わっている。
研究者。
営業担当者。
工場で働く従業員。
医療現場を支える技術者。
その誰もが、日々の仕事に誇りを持っている。
桐生は、彼らの生活を守りたかった。
だからこそ、もし社内に違法行為へ関与した者がいるなら、曖昧にしてはならない。
「……これ以上、間違った方向へ進ませるわけにはいかない」
桐生は小さく呟いた。
◇
一方、そのころ。
ルミナス・ライフの研究施設では、怜司が高瀬博士と打ち合わせをしていた。
「中級ポーションの追加試験計画についてですが……」
博士が資料を広げる。
「規制当局との相談に向けて、必要なデータを整理しているところだ」
「ありがとうございます」
「ただ、黒瀬君。正式な承認までは、まだ相当な時間が必要になる可能性がある」
「はい。そこは覚悟しています」
怜司は頷いた。
「急いで発売するより、安心して使ってもらえるものにしたいですから」
高瀬博士は嬉しそうに笑った。
「その考えを忘れないでくれ」
打ち合わせが終わり、怜司は施設の廊下を歩いていた。
すると、スマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見て、思わず表情が和らぐ。
麗華からだった。
『黒瀬さん、お仕事は順調ですか?』
怜司は立ち止まり、返信する。
『はい。おかげさまで順調です。麗華さんはお変わりありませんか?』
少しして、返事が届いた。
『ええ。琴音も元気にしておりますわ。最近は、また怜司さんにお会いしたいと申しておりますの』
怜司は微笑んだ。
『俺も琴音ちゃんに会いたいです。また時間を作りますね』
『ありがとうございます。きっと喜びますわ』
続けて、もう一通。
『それと……以前お約束した書店のイベントも、わたくしは忘れておりませんから』
怜司は思わず笑った。
『もちろん覚えています。楽しみにしていますよ』
返信を送ると、しばらくして麗華から返事が来た。
『……わたくしも、ですわ』
短い文章。
けれど、その向こうにいる麗華の表情が、なんとなく想像できた。
怜司はスマートフォンを胸元へ下ろした。
先日の事故で、麗華と琴音は命の危険にさらされた。
あの出来事を思い出すたび、今でも胸が痛む。
だが、二人はこうして笑ってくれている。
それが何より嬉しかった。
「……絶対に、守ろう」
誰に聞かせるでもなく、怜司は呟いた。
東邦メディカルとの競争は、まだ始まったばかりだ。
相手は巨大企業。
簡単に崩れるような存在ではない。
それでも、怜司は焦っていなかった。
自分には、信頼できる仲間がいる。
支えてくれる家族がいる。
そして、守りたい人たちがいる。
だからこそ、一歩ずつ進んでいけばいい。
その日の夜。
東邦メディカル本社の社長室では、御堂隆臣が一人、机に向かっていた。
手元には、九条院グループと西園寺グループの新たな事業投資に関する資料がある。
御堂はその一枚を、強く握りしめた。
「……黒瀬怜司」
低い声が、静かな室内に響く。
「このまま終わると思うなよ」
だが、御堂はまだ気づいていなかった。
本当に恐れるべきものは、目の前の市場競争だけではない。
自らの会社の内側で、これまで見過ごされてきた問題が、少しずつ表面化し始めていることを。
そして、黒瀬怜司が生み出そうとしている第二の回復ポーションが、医療業界そのものの常識を変える可能性を秘めていることを。
巨大企業を率いる男の焦燥は、日を追うごとに深まっていくのだった。




