第152話 百億円の買収提案――少年社長が譲れないもの
「……百億円、ですか?」
俺は、思わず聞き返してしまった。
ルミナス・ライフの会議室。
目の前には、東邦メディカルホールディングスから提出された提案書が置かれている。
企業価値の評価額。
百億円。
その数字が、最初に目へ飛び込んできた。
「ええ。現段階での初期提案です」
向かいに座る男が、穏やかな笑顔で答えた。
東邦メディカルホールディングスの事業戦略担当役員。
桐生雅彦。
四十代半ばほどの、物腰の柔らかな男性だった。
「もちろん、詳細な調査を経て最終的な条件を決定します。ですが、我々はそれだけ御社の技術を高く評価しているのです」
俺は、改めて資料を見つめた。
百億円。
以前の俺なら、一生かかっても想像できなかった金額だ。
けれど。
不思議と、胸は躍らなかった。
「……具体的には、どのような提携を希望されているんでしょうか?」
俺が尋ねると、桐生さんは微笑んだ。
「まず、東邦メディカルによるルミナス・ライフの株式取得です」
そして、資料をめくる。
「将来的には経営権の取得も視野に入れています」
「……経営権、ですか」
「ええ。我々の研究開発力、製造設備、販売網を活用すれば、御社の技術を世界へ広げられるでしょう」
それ自体は、魅力的な話だった。
俺だって、回復ポーションを世界中へ届けたい。
日本だけでなく、海外にも。
今は治療を受けられない人たちにも。
でも。
「……もう一つ、確認させてください」
「どうぞ」
「中級や上級の回復ポーションについても、御社が独占的に扱うという条件ですか?」
桐生さんは、一瞬だけ間を置いた。
「……開発が進んだ段階で、優先交渉権をいただきたいと考えています」
俺は、静かに頷いた。
やっぱり。
相手が本当に欲しいのは、現在発売している下級ポーションだけじゃない。
これから生まれる技術。
そのすべてを、手に入れたいんだ。
◇
「……桐生さん」
九条院家の当主が、静かに口を開いた。
「大変魅力的な提案だとは思います」
桐生さんが、笑顔を向ける。
「ありがとうございます」
「ですが、確認したいことがあります」
当主は、資料の一部分を指さした。
「この条件では、ルミナス・ライフが独自に研究を進める自由が、かなり制限されるのではありませんか?」
桐生さんの表情が、わずかに変わった。
「……共同開発を進める以上、一定の調整は必要になります」
「それは理解しています」
九条院家の当主は、穏やかに答えた。
「しかし、研究の優先順位や製品の供給方針まで、一方的に決定される可能性がある」
西園寺家の当主も、静かに頷いた。
「しかも、将来の技術まで含めてだ」
桐生さんは、少しだけ姿勢を正した。
「……我々としては、最大限の支援をお約束するつもりです」
その言葉に、俺は小さく息を吸った。
「……ありがとうございます」
そして、まっすぐ相手を見た。
「でも、俺には譲れないことがあります」
桐生さんが、俺へ視線を向けた。
「……何でしょう?」
「この会社を作ったのは、回復ポーションを必要としている人へ届けたかったからです」
俺は、ゆっくり続けた。
「もちろん、会社として利益を出すことも大切だと思っています」
社員の給料。
研究開発費。
設備投資。
それらを支えるために、お金は必要だ。
「でも、利益を最大化することだけを理由に、薬を届ける相手や研究の方向を決めたくないんです」
桐生さんは、黙って聞いていた。
「俺は、これからも自分の意思で研究を続けたい」
そして。
「……だから、経営権を手放すつもりはありません」
会議室が、静かになった。
◇
「……なるほど」
桐生さんは、しばらくしてから微笑んだ。
「黒瀬社長のお考えは、よく分かりました」
その声は、丁寧だった。
「ですが、少し考えていただきたいのです」
彼は、ゆっくり続けた。
「百億円という評価額は、非常に大きなものです」
「……はい」
「今後の研究には、多額の資金が必要になります。失敗する可能性もある」
俺は、静かに頷いた。
その通りだ。
中級ポーションが必ず承認される保証なんてない。
上級なら、なおさらだ。
「それなら、今の段階で大きな資金を確保するのも、一つの選択肢ではありませんか?」
俺は、少しだけ考えた。
もし、百億円が手に入ったら。
家族は、きっと何不自由なく暮らせる。
好きな場所へ旅行にも行ける。
将来の心配も、かなり減るだろう。
それは、確かに魅力的だった。
でも。
俺は、琴音さんの顔を思い浮かべた。
病院で目を覚ましたときの、あの笑顔。
そして。
『私も、誰かを助けられる人になりたいです』
あの言葉。
俺は、ゆっくり顔を上げた。
「……お金は、大切だと思っています」
桐生さんが、静かに頷く。
「でも、お金だけが目的なら、最初から会社を作る必要はなかったと思うんです」
俺は続けた。
「この会社には、俺がやりたいことがあります」
そして、はっきり答えた。
「……申し訳ありませんが、今回の条件ではお受けできません」
桐生さんは、しばらく俺を見つめていた。
やがて。
「……承知しました」
静かに頷いた。
「本日は、貴重なお時間をありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
俺は、深く頭を下げた。
◇
桐生さんたちが退出したあと。
会議室には、俺と両家の当主、榊原さん、父さんが残った。
「……怜司」
父さんが、静かに口を開いた。
「……後悔はないか?」
俺は、少しだけ考えた。
「……うん」
そして、頷いた。
「ないよ」
父さんは、穏やかに微笑んだ。
「……そうか」
九条院家の当主も、静かに口を開いた。
「黒瀬君。百億円という数字に流されず、自分の考えを伝えられたのは立派だった」
「……ありがとうございます」
「ただし、今後も同じような提案は来るだろうね」
俺は、静かに頷いた。
西園寺家の当主が続ける。
「そして、すべての相手が正面から交渉してくるとは限らない」
その言葉に、俺は少しだけ眉を寄せた。
「……どういうことですか?」
「企業間の競争には、残念ながら行き過ぎた行動を取る者もいる」
当主は、真剣な表情になった。
「研究者への不当な接触や、機密情報を狙う行為だ」
俺は、静かに息を呑んだ。
「……そんなことが」
「もちろん、すべての企業がそうではない」
九条院家の当主が補足する。
「だからこそ、相手を決めつけず、必要な警戒をすることが大切なんだ」
俺は、ゆっくり頷いた。
「……分かりました」
榊原さんも、資料を整理しながら口を開いた。
「今後は、外部からの提案を一元管理しましょう。機密情報へのアクセス権限も、改めて見直します」
「お願いします」
俺は、深く頭を下げた。
◇
その夜。
東邦メディカルホールディングス本社。
「……断られた?」
御堂隆臣の声が、低く響いた。
「はい」
桐生雅彦が、静かに頷く。
「経営権の取得と、将来技術への優先交渉権について、受け入れられないとのことでした」
御堂は、しばらく沈黙した。
「……百億円でもか」
「ええ」
桐生は続けた。
「黒瀬社長は、金額よりも経営の独立性を重視しているようです」
御堂は、ゆっくり椅子へ背を預けた。
「……甘いな」
その言葉に、桐生が眉を寄せる。
「……社長」
「企業経営とは、理想だけで続けられるものではない」
御堂は、冷たく笑った。
「いずれ、現実を知るだろう」
そして、窓の外へ視線を向けた。
「……別の方法を考えろ」
桐生の表情が、わずかに険しくなる。
「……合法的な提携交渉であれば、引き続き検討できます」
御堂は、振り返った。
「私は、方法を考えろと言っただけだ」
その声には、明確な圧力があった。
桐生は、しばらく沈黙した。
「……承知しました」
そう答えながらも。
彼の胸には、小さな不安が芽生えていた。
東邦メディカルは、大きな企業だ。
多くの社員と、その家族の生活を支えている。
御堂もまた、会社を守ろうとしているのだろう。
けれど。
守るためなら、何をしてもいいわけではない。
桐生は、静かに拳を握った。
百億円の提案が拒絶された夜。
巨大企業の内部で、危うい歯車が回り始めていた。




