第151話 揺らぐ製薬業界――奇跡の新薬を恐れる者たち
下級回復ポーションの発売から、一か月余り。
日本の製薬業界では、これまでにない変化が起き始めていた。
株式会社ルミナス・ライフが開発した回復ポーション。
九条院グループと西園寺グループの協力によって製造・販売されているその新薬は、発売初月に十五万本を出荷。
卸売売上高は十八億円に達した。
しかも、それは始まりにすぎなかった。
全国の医療機関から追加注文が相次ぎ、供給量を上回る需要が発生している。
もっとも、承認された用途は軽度の皮膚損傷などに限定されている。
重傷者を瞬時に治す万能薬として販売されているわけではない。
それでも、従来とは異なる作用を持つ新薬の登場は、医療関係者だけでなく、多くの企業の注目を集めていた。
◇
東京都内。
大手製薬企業《東邦メディカルホールディングス》の本社会議室。
長いテーブルを囲む役員たちの表情は、決して明るくなかった。
「……それで、我が社の創傷治療薬への影響は?」
社長の御堂隆臣が、低い声で尋ねた。
五十代半ば。
鋭い目つきと、隙のない身なり。
長年にわたり企業を率いてきた男だった。
「現時点で売上が急落しているわけではありません」
営業担当役員が答える。
「ですが、医療機関からの問い合わせが増えています。特に、ルミナス・ライフの製品と当社製品を比較したいという声が目立ちます」
「……当然だろうな」
御堂は、資料へ目を落とした。
そこには、下級回復ポーションの臨床評価に関する公開情報がまとめられている。
「承認された範囲では、確かに興味深い効果が確認されている」
御堂は、静かに続けた。
「だが、我々の事業すべてが、これ一つで失われるわけではない」
役員たちが頷く。
「問題は、その先だ」
御堂の指が、資料の一部分を叩いた。
『中級・上級製品については研究開発中』
「……この一文だ」
会議室が静まり返る。
「もし、これが本当ならどうなる?」
誰も、すぐには答えなかった。
「軽度の傷だけではない。より重い外傷や、従来の治療では回復に時間を要する症例にまで適応が広がる可能性がある」
御堂は、ゆっくり顔を上げた。
「我々が何十年もかけて築いてきた市場の構造が、根本から変わるかもしれん」
その言葉に、役員たちの表情が険しくなった。
「……製造技術の調査は?」
御堂が尋ねる。
「公開情報の分析は進めています。しかし、核心部分は不明です」
「特許は?」
「周辺技術については出願が確認されていますが、中心的な工程は営業秘密として管理されているようです」
御堂は、しばらく沈黙した。
そして。
「……まずは、正面から交渉しろ」
意外な言葉に、役員の一人が顔を上げた。
「提携を申し入れるのですか?」
「当然だ」
御堂は、冷静に答えた。
「優れた技術が現れたなら、協力を模索するのが企業経営というものだ」
ただし。
その目には、冷たい光が宿っていた。
「……相手が、こちらの望む条件を受け入れるならな」
◇
同じ頃。
別の製薬企業では、まったく違う会議が行われていた。
「……私は、今回の新薬を歓迎すべきだと思います」
若い研究開発責任者が、そう発言した。
「確かに競争は激しくなります。しかし、患者にとって選択肢が増えるのは良いことです」
年配の役員が眉をひそめる。
「だが、当社の売上はどうなる?」
「だからこそ、我々も研究を進めるべきです」
若い責任者は、はっきり答えた。
「既存の製品を守るだけでは、いずれ取り残されます」
会議室には、賛否の声が上がった。
新しい技術を脅威と考える者。
協力の機会と考える者。
そして、競争によって医療が進歩することを期待する者。
業界全体が、少しずつ動き始めていた。
◇
一方。
聖蘭学園。
「……怜司、最近あの新薬のニュースばっかりだな」
昼休み。
隼人が、スマートフォンを眺めながら言った。
「そうだね」
俺は、弁当を食べながら答えた。
「海外でも話題になってるらしいぞ」
「まだ海外では普通に販売できないけどね」
蒼真が、冷静に補足する。
「国ごとに承認が必要だからな」
「分かってるって!」
隼人が笑った。
その様子を見ながら、俺も小さく笑う。
まさか、その薬を開発した会社の代表が目の前にいるとは、二人とも思っていないだろう。
もっとも、今はそれでいい。
会社の仕事と学校生活は、できるだけ分けておきたい。
「……黒瀬君」
ふと、静かな声が聞こえた。
顔を上げると、詩織さんが立っていた。
「……詩織さん。どうしました?」
「図書室に、新しい本が入ったんです」
彼女は、少し嬉しそうに微笑んだ。
「以前、黒瀬君が気になっていると言っていた作家さんの新刊もあります」
「……本当ですか?」
「はい」
俺は、思わず笑顔になった。
「それなら、放課後に見に行きたいですね」
詩織さんの表情が、ふわりと明るくなる。
「……よかった。私も、まだ読んでいないんです」
「じゃあ、一緒に行きませんか?」
その瞬間。
詩織さんの頬が、ほんのり赤くなった。
「……はい。ぜひ」
最近、会社のことで忙しかった。
でも、こういう時間も大切にしたい。
俺は、改めてそう思った。
◇
放課後。
図書室で詩織さんと本を選んでいると、スマートフォンが震えた。
画面には、榊原さんの名前。
俺は、詩織さんへ一言断ってから廊下へ出た。
「……もしもし」
『黒瀬君。少し報告があります』
「はい」
『複数の企業から、技術提携の申し入れが届いています』
「……そうなんですか?」
『ええ。中には、かなり大きな条件を提示している企業もあります』
俺は、少し考えた。
「……一度、九条院家と西園寺家の皆さんも交えて検討したいです」
『承知しました』
通話が終わる。
俺は、窓の外を見つめた。
回復ポーションが成功すれば、注目される。
それは、最初から分かっていた。
けれど。
いよいよ、本格的に大企業が動き始めたらしい。
「……怜司君?」
振り返ると、詩織さんが少し心配そうに立っていた。
「……大丈夫ですか?」
「はい。ちょっと用事の連絡があっただけです」
俺が笑うと、詩織さんも安心したように微笑んだ。
「……そうですか」
そして、手に持っていた本を差し出す。
「……これ、黒瀬君も好きそうだと思って」
「……ありがとうございます」
俺は、本を受け取った。
大企業の交渉。
莫大な売上。
そして、未知の技術。
そんなものとは無関係に、目の前には穏やかな日常がある。
俺は、この時間を守りたいと思った。
◇
その夜。
東邦メディカルホールディングス本社。
御堂隆臣は、部下から提出された資料を読んでいた。
『株式会社ルミナス・ライフ』
『代表取締役 黒瀬怜司』
その名前に、御堂の眉がわずかに動いた。
「……黒瀬、か」
企業情報の詳細は、まだ十分に把握できていない。
だが、九条院家と西園寺家が支援していることは確かだった。
「……面白い」
御堂は、静かに笑った。
「まずは、相手の考えを聞いてみよう」
そして、資料を閉じた。
その背後で、別の役員が小さく呟く。
「……もし、断られたら?」
御堂は、振り返らなかった。
「そのときは、そのときだ」
ただ。
その声には、どこか冷たい響きがあった。
回復ポーションの成功は、多くの人々へ希望を届けていた。
同時に。
巨大な利益を巡る、新たな争いの幕も開こうとしていた。




