第15話 冒険者登録と、伯爵令嬢との再会
冒険者ギルドの訓練場に、ようやく静けさが戻ってきた。
黒瀬怜司は、手にしていた木剣をゆっくりと下ろした。
「……はぁ」
思わず、深い息が漏れる。
額には汗が浮かび、背中のシャツも湿っていた。
身体そのものは、まだ十分に動く。
しかし、頭の中はひどく疲れていた。
元Aランク冒険者、バルド・グランツ。
その剣術は、怜司の想像を遥かに超えていた。
力では自分の方が上かもしれない。
速度も、おそらく負けていない。
だが、相手の攻撃を読む技術も、無駄のない足運びも、剣の扱い方も、すべてが違う。
最後には一本を取ることができた。
けれど、それで自分がバルドより強いなどとは、とても思えなかった。
「……まだまだだな、俺」
小さく呟くと、隣から豪快な笑い声が響いた。
「ははは! その感想が出るなら上出来だ!」
バルドだった。
大柄なギルド長は、木剣を肩に担ぎながら満足そうに笑っている。
「初めて剣を握った奴が、俺から一本取ったんだぞ。少しは喜べ」
「……嬉しいです」
怜司は素直に頷いた。
「でも、何回も負けましたから」
「当たり前だ」
バルドは即答した。
「何十年も剣を振ってきた俺が、今日初めて剣を握った小僧に簡単に負けてたまるか」
その言い方がおかしくて、怜司は思わず笑った。
バルドも笑う。
そして、少しだけ表情を引き締めた。
「だがな、怜司」
「はい」
「今日、お前が最後に剣を止めたことは忘れるな」
怜司は顔を上げた。
「……止めたこと、ですか?」
「ああ」
バルドは自分の肩を指さした。
「お前の最後の一撃だ。本気で振り抜いていたら、訓練用の木剣でも怪我をしていたかもしれん」
「……すみません」
「謝るな。だからこそ、止めたことを評価している」
バルドは静かに続けた。
「強い奴が力任せに暴れるのは簡単だ。だが、強い奴が相手を傷つけずに勝つのは難しい」
怜司は、じっと耳を傾けた。
「力を持つなら、その力をどこで止めるかも覚えろ」
その言葉は、不思議なほど胸に残った。
日本では、翔真たちに何度も殴られた。
力があれば、やり返せる。
今なら、簡単にできるだろう。
けれど、それで何が残るのか。
父や母が進めてくれていることを台無しにしてしまうかもしれない。
何より、自分まで同じことをしたくなかった。
「……はい」
怜司は、しっかりと頷いた。
「覚えておきます」
バルドは満足そうに笑った。
「よし。じゃあ、登録の続きを済ませるぞ」
◇ ◇ ◇
ギルドの受付へ戻ると、ミリアがほっとした表情で迎えてくれた。
「お疲れさまでした、レイジ様」
「……ありがとうございます」
「模擬戦、すごかったですね」
ミリアは目を輝かせていた。
「ギルド長から一本取る新人さんなんて、初めて見ました」
「……たまたまです」
怜司が照れながら答えると、背後のバルドが笑った。
「偶然だけで俺に剣を届かせられるものか」
「ギ、ギルド長……」
「事実だろう?」
バルドは楽しそうだった。
ミリアもくすりと笑う。
怜司は、少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
学校では、こんなふうに褒められたことなどほとんどない。
それどころか、何をしても笑われていた。
だが、この場所では違う。
自分が努力したことを、ちゃんと見てくれる人がいる。
その事実が、怜司には嬉しかった。
「それでは、冒険者登録の続きを進めますね」
ミリアは新しい書類を取り出した。
「魔力測定の結果については、測定不能として記録いたします」
「……測定不能?」
「はい。水晶が破損してしまいましたので、正確な数値が分からないんです」
怜司は申し訳なさそうに眉を下げた。
「……やっぱり、弁償した方が……」
「必要ありませんよ」
ミリアが慌てて首を振る。
「ギルド長からも、そう指示を受けています」
バルドが腕を組んだ。
「道具の限界を見誤ったのは、こちらの問題だ。気にするな」
「……ありがとうございます」
怜司は深く頭を下げた。
ミリアは微笑み、説明を続けた。
「それから、ギルド長より特例の提案がありました」
「……特例?」
「はい」
ミリアは一枚の書類を示した。
「本来、新規登録者は全員Fランクからの開始ですが、実力が確認できた場合には、昇格試験の受験資格を早期に認める制度があります」
怜司は首を傾げた。
「……じゃあ、最初から上のランクになれるんですか?」
「いえ」
そこで、バルドが口を挟んだ。
「お前はFランクからだ」
「……あ、はい」
怜司は少し拍子抜けした。
バルドは笑った。
「不満か?」
「い、いえ! 全然!」
慌てて首を振る。
すると、バルドは真剣な表情になった。
「強さだけで冒険者のランクが決まるわけじゃない」
怜司は黙って聞いた。
「依頼を最後までやり遂げること。仲間との約束を守ること。危険を見極めること。そして、無関係な人間を巻き込まないこと」
バルドは指を折りながら続けた。
「そういうものを含めて、冒険者の信用になる」
「……信用」
「ああ。剣が強くても、依頼人を見捨てる奴には仕事を任せられんだろう?」
怜司は頷いた。
「……確かに」
「だから、まずはFランクだ。実績を積めば、昇格の機会はいくらでもある」
怜司は、自然と笑った。
「……分かりました」
その答えに、バルドも満足そうに頷いた。
◇ ◇ ◇
登録手続きは、それほど時間がかからなかった。
名前。
年齢。
主な活動地域。
得意な武器。
怜司は、答えられる範囲で正直に記入していった。
出身地については、遠方から来たことを伝えた。
詳しい場所を尋ねられたが、ミリアは無理に追及しなかった。
「冒険者には旅の事情を抱えた方も多いですから」
そう言って、微笑んでくれた。
やがて、ミリアが小さな金属製の札を差し出した。
「お待たせいたしました」
怜司は顔を上げる。
「こちらが、レイジ様の冒険者登録証です」
銀色ではなく、落ち着いた灰色の金属札。
表面には剣と盾の紋章。
裏面には、見慣れない文字で名前が刻まれていた。
だが、《万象習得》のおかげなのか、その文字を自然と読むことができた。
――レイジ・クロセ。
そして、その下に。
――Fランク。
「……これが」
怜司は、そっと登録証を手に取った。
小さな金属札。
だが、不思議なほど重みを感じた。
自分の名前が、異世界の正式な記録に残った。
ただの迷い込んだ少年ではない。
この世界で、一つの立場を得たのだ。
「……ありがとうございます」
怜司は、自然と笑顔になった。
ミリアも嬉しそうに微笑んだ。
「冒険者登録、おめでとうございます」
その言葉に、胸が熱くなった。
おめでとう。
たったそれだけの言葉。
けれど、今の怜司には、何より嬉しかった。
◇ ◇ ◇
登録を終えると、ミリアは依頼掲示板を案内してくれた。
大きな木製の掲示板には、何十枚もの依頼書が貼られている。
薬草採取。
荷物運搬。
街道の清掃。
畑を荒らす小型魔物の討伐。
商人の護衛。
そして、森の奥に出没する危険な魔物の討伐。
怜司は、興味深そうに一枚ずつ眺めていた。
「……本当に、いろんな仕事があるんですね」
「はい」
ミリアは頷いた。
「冒険者のお仕事は、魔物を倒すことだけではありませんから」
怜司は、薬草採取の依頼書へ目を向けた。
「……これなら、俺にもできるかな」
ミリアは微笑んだ。
「初心者の方にはおすすめですよ。危険の少ない地域で採れる薬草ですから」
だが、そのとき。
バルドが横から口を挟んだ。
「怜司」
「……はい?」
「依頼を受ける前に、もう一つ覚えておけ」
「……何ですか?」
「知らない土地で、勝手に奥へ進むな」
怜司は頷いた。
「……はい」
「強い魔物ほど、必ずしも分かりやすい姿をしているとは限らん」
バルドは真剣な表情で続けた。
「見た目が小さくても危険な奴はいる。逆に、大きくても臆病な魔物もいる」
「……なるほど」
「まずは知識を身につけろ。戦うのは、それからだ」
怜司は、その言葉をしっかりと覚えた。
力があるからといって、何でもできるわけではない。
今日の模擬戦で、それを痛いほど理解したばかりだった。
「……分かりました」
バルドは満足そうに笑った。
「よし。次に来たときは、まず基礎訓練からだ」
「……お願いします!」
怜司は深く頭を下げた。
その様子を見ていたミリアが、くすりと笑う。
「ギルド長が自分から弟子を取るなんて、珍しいですね」
「弟子と決めたわけじゃない」
バルドは腕を組んだ。
「ただ、面白い小僧を見つけただけだ」
「ふふ。そういうことにしておきます」
「……おい、ミリア」
二人のやり取りに、怜司は思わず笑ってしまった。
温かい空気だった。
ここへ来る前、怜司は冒険者ギルドを少し怖い場所だと思っていた。
荒っぽい冒険者たち。
危険な依頼。
命を懸けた戦い。
もちろん、それも間違いではない。
だが、ここには人の温かさもある。
そのことが、怜司には嬉しかった。
◇ ◇ ◇
ギルドを出た頃には、街の空が少し赤く染まり始めていた。
「……もう夕方か」
怜司は空を見上げた。
日本では、まだそれほど時間が経っていないかもしれない。
だが、油断はできない。
前回の経験で、二つの世界の時間の流れが違うことは分かった。
それでも、正確な比率までは確認できていない。
怜司はスマートフォンを取り出した。
画面には、日本時間が表示されている。
午後三時五十八分。
「……三十八分」
出発してから、それだけしか経っていない。
その間に、街へ入り、ギルドで登録し、模擬戦まで行った。
体感では、少なくとも数時間は経っている。
「……やっぱり、時間の流れが違うんだ」
怜司は小さく呟いた。
ただし、この数字だけで何倍と決めつけるのは危険だ。
時間の流れが一定とは限らない。
転移した場所や状況によって、違いがある可能性もある。
もう少し記録を取る必要があった。
怜司はスマートフォンをしまった。
「……そろそろ帰ろうかな」
そう呟いた、そのときだった。
「――レイジ様?」
背後から、聞き覚えのある声がした。
怜司は足を止めた。
その声。
柔らかく、澄んだ響き。
忘れるはずがなかった。
ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは。
「……エリシア?」
淡い金色の髪。
青く澄んだ瞳。
上品な淡い水色のドレス。
そして、驚きと喜びが入り混じった表情。
エリシア・ルミナスだった。
◇ ◇ ◇
「……本当に、レイジ様!」
エリシアの顔が、ぱっと明るくなった。
怜司は、思わず目を見開いた。
「……エリシア」
少女は嬉しそうに駆け寄ってきた。
その後ろには、数人の護衛騎士と侍女が続いている。
「また、お会いできるなんて……!」
エリシアは、胸の前で両手を重ねた。
「とても嬉しいです」
その言葉に、怜司の胸が強く跳ねた。
「……俺も」
少し照れながら答える。
「……また会えて、嬉しい」
エリシアの頬が、ほんのり赤く染まった。
「……ありがとうございます」
二人は、しばらく互いの顔を見つめていた。
だが、すぐに怜司は我に返った。
「……あの、エリシアは何してたの?」
「今日は、街の孤児院へお菓子を届けに行っていたんです」
「……孤児院?」
「はい」
エリシアは頷いた。
「父が支援している施設があるんです。今日は、子供たちに会いに行っていました」
怜司は、少し驚いた。
伯爵令嬢。
貴族の娘。
豪華な屋敷に住み、多くの使用人に囲まれている少女。
だが、エリシアは街の子供たちのことも気にかけている。
「……優しいんだね」
怜司がそう言うと、エリシアは少し困ったように笑った。
「そんなことはありません」
「……そうかな」
「私にできることは、まだほんの少しですから」
その言葉には、飾り気がなかった。
怜司は、エリシアの横顔を見つめた。
この少女は、本当に人のことを考えている。
だからこそ、あのとき助けられてよかった。
改めて、そう思った。
◇ ◇ ◇
「ところで、レイジ様」
エリシアが首を傾げた。
「今日は、街へお買い物ですか?」
「……あ、いや」
怜司は少し迷った。
だが、隠す必要もないと思った。
「冒険者ギルドに行ってたんだ」
「……冒険者ギルド?」
エリシアの目が丸くなる。
「はい」
「……もしかして、冒険者になられたんですか?」
怜司は、少し照れながら頷いた。
「……うん。今日、登録した」
そして、首から下げた登録証を取り出した。
エリシアは、それを見つめた。
「……Fランク」
「……まだ、一番下だけどね」
怜司は苦笑した。
だが、エリシアは首を横に振った。
「そんなことありません」
その声は、真剣だった。
「冒険者になることは、簡単な決断ではありませんから」
怜司は、少し驚いた。
「……そうなの?」
「はい」
エリシアは静かに頷いた。
「魔物と戦うこともありますし、危険な依頼もあります。命を落とす方も少なくありません」
その言葉に、怜司は表情を引き締めた。
バルドも同じことを言っていた。
この世界では、冒険者は決して安全な職業ではない。
エリシアは、少しだけ不安そうな顔をした。
「……レイジ様」
「……ん?」
「どうか、無理はなさらないでくださいね」
怜司は、彼女を見つめた。
「……うん」
「レイジ様は、私の命の恩人です」
エリシアは、胸の前で手を重ねた。
「だから……レイジ様に何かあったら、私はとても悲しいです」
その言葉に、怜司の胸が熱くなった。
自分のことを、心配してくれる。
そんな人が、家族以外にもいる。
その事実が、嬉しかった。
「……ありがとう」
怜司は、自然と微笑んだ。
「気をつけるよ」
エリシアも、ほっとしたように笑った。
◇ ◇ ◇
「……あの、レイジ様」
少し間を置いて、エリシアが口を開いた。
「もし、お時間がありましたら……」
怜司は首を傾げた。
「……うん?」
「少しだけ、一緒に街を歩きませんか?」
怜司は目を見開いた。
「……えっ?」
エリシアは、少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「前回は、あまりゆっくりお話しできませんでしたから」
その頬は、ほんのり赤く染まっている。
「……ご迷惑でしょうか?」
怜司は慌てて首を振った。
「……いや、全然!」
思わず声が大きくなった。
エリシアが驚いたように顔を上げる。
怜司は、少し照れながら続けた。
「……俺も、もっと話したいと思ってた」
エリシアの表情が、ぱっと明るくなった。
「……本当ですか?」
「……うん」
怜司は頷いた。
ただ、帰る時間も気になる。
日本では、母と陽菜がそろそろ帰宅する頃だ。
あまり長く留まるわけにはいかない。
「……少しだけなら、大丈夫」
そう答えると、エリシアは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます!」
そして、護衛騎士たちへ振り返った。
「少しだけ、街を歩いてもよろしいでしょうか?」
騎士の一人が、丁寧に頭を下げた。
「もちろんでございます。ただし、護衛は同行させていただきます」
「はい。ありがとうございます」
エリシアは頷いた。
そして、怜司へ向き直る。
「では、行きましょうか。レイジ様」
怜司は、少し緊張しながら頷いた。
「……うん」
二人は並んで歩き始めた。
夕暮れの街。
石畳の道。
柔らかな風に揺れる、金色の髪。
怜司は、隣を歩くエリシアをちらりと見た。
彼女は、楽しそうに街の景色を眺めている。
その横顔を見ていると、不思議と心が落ち着いた。
学校では、いつも周囲の視線が怖かった。
笑われること。
馬鹿にされること。
何か言われること。
そんなことばかり気にしていた。
だが今は。
隣にいる少女が、自分と一緒に歩くことを喜んでくれている。
それだけで、世界が少し違って見えた。
「……レイジ様?」
エリシアが振り返る。
「……あ、うん?」
「どうかなさいましたか?」
怜司は、少し迷ってから笑った。
「……いや」
そして、素直に言った。
「……楽しいなって」
エリシアは、一瞬きょとんとした。
だが、すぐに。
花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「……私もです」
その言葉に、怜司の胸が温かくなった。
異世界での新たな一歩。
冒険者としての登録。
元Aランク冒険者との出会い。
そして、エリシアとの再会。
この世界には、まだ知らないことが山ほどある。
危険もある。
困難もある。
それでも。
怜司は、少しずつ思い始めていた。
――この世界で、もっと生きてみたい。
日本での問題から逃げるためではない。
ただ、ここには新しい可能性がある。
そして、自分を必要としてくれる人がいる。
そのことが、怜司にとって何より大きかった。
夕暮れの街を、二人はゆっくりと歩いていく。
まだ互いのことを、ほとんど知らない。
それでも。
少しずつ、確かに。
二人の距離は、近づき始めていた。




