第135話 最初の大型契約――少年社長が手にした二千万円
株式会社ルミナス・ライフ。
自分の会社ができてから、数日が経った。
正直に言うと、まだ実感は薄い。
学校へ行けば、いつも通り授業を受ける。
休み時間には蒼真や隼人と話し、放課後には澪さんや麗華さんたちと顔を合わせる。
家に帰れば、陽菜にからかわれる。
そんな日常は、何も変わっていない。
けれど。
俺の机の引き出しには、一枚の書類が入っている。
会社の登記事項証明書。
そこには、確かに俺の名前が記されていた。
代表取締役。
黒瀬怜司。
「……何だか、まだ変な感じだな」
自室で書類を眺めながら、俺は苦笑した。
以前の俺なら、社長なんて遠い世界の人間だった。
大きな会社の偉い人。
テレビやニュースで見るような人。
そんなイメージしかなかった。
それが今。
自分自身が、その立場になっている。
もちろん、会社を作っただけで成功したわけではない。
売上はまだない。
研究開発も、これからだ。
むしろ、本当の勝負は今から始まる。
そのことは、十分に理解していた。
だからこそ。
「……まずは、最初の契約だな」
俺は資料を閉じた。
今日は、九条院家と西園寺家の両当主との重要な打ち合わせが予定されている。
会社設立後、初めての正式な契約交渉。
その内容によって、ルミナス・ライフの未来が大きく変わることになる。
◇
会議室へ入ると、すでに澪さんと麗華さんが待っていた。
「レイジさん!」
澪さんが、嬉しそうに立ち上がる。
「こんにちは、澪さん」
「会社設立、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
すると、麗華さんも微笑んだ。
「黒瀬さん。改めて、お祝い申し上げますわ」
「ありがとうございます、麗華さん」
「ふふ。これからは、黒瀬社長とお呼びした方がよろしいかしら?」
「……やめてください」
俺が即答すると、麗華さんが楽しそうに笑った。
「冗談ですわ」
澪さんも、くすりと笑う。
「でも、少し格好いいですね」
「澪さんまで……」
俺は苦笑した。
……二人とも、何だか楽しそうだ。
そのとき。
会議室の奥から、声がかかった。
「黒瀬君。よく来てくれたね」
九条院家の当主だった。
「本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」
西園寺家の当主も立ち上がる。
「……黒瀬君。いや、今日は黒瀬社長と呼ぶべきかな?」
「……できれば、今まで通りでお願いします」
二人の当主が、同時に笑った。
「ははは! 分かったよ」
「では、黒瀬君。早速始めようか」
◇
今日の議題は、研究開発契約。
九条院家と西園寺家の企業グループが、ルミナス・ライフと共同で研究開発を進めるための正式な契約だった。
榊原さんが、資料を配る。
「まず、今回の契約についてご説明します」
俺は、真剣な表情で資料を開いた。
「今回の契約は、研究開発の第一段階に関するものです」
榊原さんが続ける。
「主な目的は、試作品の品質評価、製造工程の確認、知的財産の整理、そして今後の安全性試験へ向けた準備です」
俺は頷いた。
「……はい」
「なお、製品の販売権や技術そのものの所有権を、今回の契約で譲渡することはありません」
その言葉に、少し安心した。
自分の技術を守る。
それは、最初から大切にしたかったことだった。
「では、契約金額についてです」
榊原さんが、次のページを開いた。
俺も資料へ視線を落とす。
そして。
「…………え?」
思わず、声が漏れた。
そこに書かれていた金額は。
二千万円。
「……二千万円?」
俺は、もう一度確認した。
見間違いではない。
確かに、そう記されている。
「……これ、何の金額ですか?」
榊原さんが微笑んだ。
「ルミナス・ライフが第一段階の研究開発業務を受託する対価です」
「……俺の会社に?」
「はい」
俺は、思わず息を呑んだ。
二千万円。
自分の会社が、最初の契約で受け取る金額。
もちろん、個人の財布に入るわけではない。
それでも。
あまりにも大きな数字だった。
「……そんなに、いただいていいんでしょうか」
思わず尋ねると、西園寺家の当主が穏やかに笑った。
「黒瀬君。これは贈り物ではないよ」
「……はい」
「君の会社が、研究開発に必要な技術や試料、製造工程の評価協力を提供する。その対価だ」
九条院家の当主も頷く。
「金額についても、専門家が業務内容や必要経費を確認したうえで検討している」
「……なるほど」
俺は、ゆっくり頷いた。
そうか。
これは、ただのお金じゃない。
仕事の対価なんだ。
自分が生み出した技術を、事業として評価してもらえた。
そのことが、何より嬉しかった。
◇
「ただし、黒瀬君」
榊原さんが、真剣な表情になった。
「この二千万円は、契約を結んだ瞬間にすべて支払われるわけではありません」
「……はい」
「最初に着手金として一部を支払い、その後は研究開発の進捗や成果物の確認に応じて支払う形です」
俺は頷いた。
「分かりました」
「また、研究費や設備費、人件費なども、この契約の範囲内で適切に管理する必要があります」
「……つまり、会社のお金として使うんですね」
「その通りです」
榊原さんが微笑んだ。
「会社の売上と、社長個人の収入は別です。そこは、最初から明確にしておきましょう」
俺はノートへ書き込んだ。
会社のお金。
個人のお金。
経費。
利益。
税金。
当たり前のことかもしれない。
けれど、今の俺にとっては大切な知識だった。
「……ありがとうございます」
俺が頭を下げると、榊原さんは穏やかに頷いた。
「分からないことは、いつでも聞いてください」
◇
「それから、もう一つ」
九条院家の当主が、静かに口を開いた。
「今回の契約とは別に、今後の研究開発投資についても検討を進めている」
「……十億円の件ですか?」
「ああ」
俺は、少しだけ背筋を伸ばした。
「ただし、現段階では、すべての投資を確定するわけではない」
西園寺家の当主が続ける。
「研究が進み、安全性や有効性について十分な根拠が得られれば、次の段階へ進む」
「……はい」
「そのときには、さらに大きな資金が必要になるだろう」
九条院家の当主は、まっすぐ俺を見つめた。
「黒瀬君。私たちは、君の技術を長期的に育てたいと考えている」
俺は、静かに頷いた。
「……ありがとうございます」
すると、西園寺家の当主が、少しだけ表情を変えた。
「……琴音のことがあって、私は改めて思ったんだ」
その声は、穏やかだった。
けれど、深い感情が込められていた。
「人の命を救う可能性のある技術を、正しい形で社会へ届けたい」
俺は、何も言わずに聞いていた。
「もちろん、研究の結果によっては、想定通りに進まないこともあるだろう」
当主は続けた。
「それでも、挑戦する価値はある」
そして、静かに微笑んだ。
「……私は、そう信じている」
胸の奥が、熱くなった。
「……俺も、そう思います」
俺は、はっきり答えた。
「だから、必ず頑張ります」
◇
契約書の確認には、さらに時間がかかった。
業務の範囲。
成果物の取り扱い。
秘密保持。
知的財産の帰属。
契約の解除条件。
そして、責任の分担。
難しい言葉も多かったけれど、榊原さんが一つずつ説明してくれた。
俺は、分からない部分を何度も質問した。
そのたびに、丁寧な答えが返ってくる。
以前の俺なら、こんな場面で質問することすら怖かったと思う。
知らないことを笑われるんじゃないか。
そんな不安があったからだ。
でも、今は違う。
分からないことを、そのままにしない。
自分の会社を守るためにも、必要なことだ。
「……黒瀬君」
九条院家の当主が、途中で小さく笑った。
「本当に、よく質問するね」
「……すみません」
「いや、褒めているんだよ」
俺は、少し驚いた。
「……え?」
「経営者にとって、理解できないまま契約することほど危険なことはないからね」
西園寺家の当主も頷いた。
「君の姿勢は、正しいと思うよ」
俺は、少し照れくさくなった。
「……ありがとうございます」
その隣で、澪さんが嬉しそうに微笑んでいた。
麗華さんも、どこか誇らしげだった。
◇
そして。
すべての確認が終わった。
父さんにも事前に内容を説明し、必要な同意を得ている。
会社としての契約手続きも、榊原さんの確認を受けていた。
「……それでは」
榊原さんが、静かに言った。
「正式に契約を締結しましょう」
俺は、深く息を吸った。
目の前には、契約書。
株式会社ルミナス・ライフ。
代表取締役。
黒瀬怜司。
その文字が、はっきりと見える。
俺は、ペンを手に取った。
そして。
ゆっくりと、署名した。
「…………」
書き終えた瞬間。
胸の奥で、何かが変わった気がした。
これまでの努力が、初めて形になった。
そんな感覚だった。
「……おめでとう、黒瀬君」
九条院家の当主が、笑顔で手を差し出した。
「ありがとうございます」
俺は、その手を握った。
続いて、西園寺家の当主とも握手を交わす。
「……これから、よろしく頼むよ」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
その瞬間。
澪さんと麗華さんが、同時に拍手してくれた。
「レイジさん! おめでとうございます!」
「黒瀬さん。本当に、おめでとうございますわ!」
俺は、二人を見つめた。
その笑顔が、何より嬉しかった。
「……ありがとうございます」
自然と、笑顔になった。
◇
数日後。
ルミナス・ライフの法人口座に、最初の着手金が振り込まれた。
金額は、五百万円。
俺は、画面に表示された数字をしばらく見つめていた。
「…………」
何度見ても、変わらない。
五百万円。
会社の口座に、確かに入金されている。
「……本当に、入ったんだ」
思わず呟いた。
もちろん、これは会社の資金だ。
研究開発に必要な費用も、ここから支払うことになる。
自由に使えるお金ではない。
それでも。
自分の力で作った技術が、正式な仕事として認められた。
その結果として、お金が振り込まれた。
その事実が、何より嬉しかった。
「……やった」
小さく、拳を握った。
そして、しばらくしてから。
俺は、父さんと母さんへ報告することにした。
◇
「……五百万円!?」
リビングに、陽菜の声が響いた。
「お兄ちゃん、すごっ!」
「……陽菜、声が大きいって」
「だって、五百万円だよ!?」
陽菜は、目を輝かせている。
父さんも、少し驚いたように画面を見つめていた。
「……本当に、入金されたんだな」
「うん」
俺は頷いた。
「会社の口座だけどね」
母さんが、静かに微笑んだ。
「……怜司。頑張ったのね」
「……うん」
その言葉に、胸が温かくなった。
父さんは、ゆっくり頷いた。
「……おめでとう」
「ありがとう、父さん」
「ただし、ここからが大切だぞ」
「……うん」
「入ってきたお金を、どう使うか。どう管理するか。そこまで含めて、経営だからな」
俺は、深く頷いた。
「分かってる」
すると、陽菜がにやりと笑った。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「何?」
「社長になった記念に、何か買ってよ!」
「……何でそうなるんだよ」
「だって、お祝いだもん!」
「お祝いなら、普通は俺がもらう側じゃない?」
「えー? 細かいことは気にしない!」
俺は、思わず笑った。
母さんも、父さんも笑っている。
いつものリビング。
いつもの家族。
けれど。
少しだけ、未来が変わり始めていた。
◇
その夜。
俺は自室で、今日までの出来事を振り返っていた。
異世界でポーションを見つけたこと。
オルドさんから調合を学んだこと。
日本で材料を揃え、魔石式製造機を作ったこと。
美月さんの怪我が治ったこと。
琴音さんの命が救われたこと。
そして。
九条院家と西園寺家の協力を得て、会社を設立したこと。
すべてが、一本の線でつながっている。
「……本当に、ここまで来たんだな」
俺は、小さく呟いた。
会社の口座には、最初の五百万円。
契約総額は、二千万円。
そして、その先には最大十億円の研究開発計画がある。
もちろん、まだ成功したわけではない。
研究も、商品化も、これからだ。
それでも。
確かに、最初の一歩を踏み出した。
俺は、机の上に置かれたノートを開いた。
そこには、今後の目標が書かれている。
まずは、下級回復ポーションの安全性と有効性を確認する。
次に、中級回復ポーション。
そして、上級回復ポーション。
最上級回復ポーション。
さらに、その先には。
エリクサー。
あらゆる病を治すとされる、伝説の霊薬。
その名前を見つめながら、俺は静かに息を吐いた。
今の俺には、まだ遠い目標だ。
けれど、いつか。
この世界でも、誰かの命を救える薬として届けられるように。
そのために、もっと学びたい。
もっと強くなりたい。
そして、自分の力で未来を切り開きたい。
「……よし」
俺は、ノートを閉じた。
窓の外には、静かな夜空が広がっている。
かつて、誰にも必要とされていないと思っていた俺。
そんな俺が今、自分の会社を持ち、未来へ向かって歩き始めている。
まだ、小さな一歩だ。
けれど。
その一歩は、確かに俺自身のものだった。
黒瀬怜司。
株式会社ルミナス・ライフ代表取締役。
その肩書きに、少しだけ誇らしさを感じながら。
俺は、明日からの新しい挑戦へ思いを馳せた。
物語は、まだ終わらない。
むしろ。
本当の意味で、ここから始まるのだった。




