第134話 黒瀬怜司、会社を持つ――未来を切り開く最初の一歩
十億円。
その数字が、頭から離れなかった。
九条院家と西園寺家が検討している研究開発予算。
もちろん、そのすべてが俺の手元へ入るわけではない。
それでも。
自分が作った技術のために、これほど大きな資金が動こうとしている。
少し前までの俺なら、絶対に信じられなかったと思う。
「……会社、か」
自室の机で資料を読みながら、俺は小さく呟いた。
会社を作る。
言葉にすると簡単だけど、実際には分からないことばかりだ。
登記。
資本金。
株式。
税金。
契約。
そして、経営責任。
どれも、これまでの学校生活ではほとんど触れてこなかった。
けれど。
(……分からないなら、学べばいい)
俺には《万象習得》がある。
一度学んだことを、驚くほど速く理解できる。
ただ、知識を覚えたからといって、経営の経験まで手に入るわけではない。
そのことは、忘れないようにしよう。
俺は資料を閉じ、リビングへ向かった。
今日は、父さんと母さんに改めて話をするつもりだった。
◇
「……会社設立の話が、そこまで進んだのか」
父さんは、俺の説明を聞き終えると、ゆっくり頷いた。
「うん」
俺は、持参した資料をテーブルへ並べた。
「九条院家と西園寺家が、研究開発を支援してくれることになったんだ」
「……十億円の予算案、か」
父さんは、資料の数字を見つめた。
母さんも、驚いたように口元へ手を当てている。
「……怜司。本当に、そんな大きな話になっているの?」
「うん。まだ正式に全部決まったわけじゃないけど」
俺は頷いた。
「でも、専門家の人たちも集まってくれてる」
父さんは、しばらく黙っていた。
そして、静かに口を開いた。
「……怜司」
「うん」
「お前は、本当に会社を作りたいのか?」
俺は、少し考えた。
大きな会社に技術を預ければ、もっと楽なのかもしれない。
経営のことを考えず、研究だけしていればいい。
そんな道もあるだろう。
でも。
「……作りたい」
俺は、はっきり答えた。
「自分の技術だから、自分で責任を持ちたいんだ」
父さんが、俺を見つめる。
「……それに」
俺は、少しだけ笑った。
「自分の力で稼げるようになりたい」
母さんが、静かに頷いた。
「……そうね」
「もちろん、学校もちゃんと通うし、無理はしないつもりだよ」
俺は続けた。
「でも、せっかく自分にできることが見つかったから……挑戦したいんだ」
父さんは、しばらく何も言わなかった。
そして。
「……分かった」
ゆっくり頷いた。
「父さんは、応援するよ」
「……本当?」
「ああ」
父さんは、穏やかに笑った。
「ただし、条件がある」
「……条件?」
「大きな契約を結ぶときは、必ず内容を確認すること。必要なら、父さんも一緒に専門家へ相談する」
「うん」
「それと、無理をしないことだ」
母さんも頷いた。
「そうよ。お金も大切だけど、怜司自身が幸せでいることが一番なんだから」
俺は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……ありがとう」
そのとき。
「お兄ちゃん!」
陽菜が、勢いよく身を乗り出してきた。
「じゃあ、ほんとに社長になるの!?」
「……まだ準備中だけどね」
「すごーい!」
陽菜は、目を輝かせた。
「じゃあ私、社長の妹だ!」
「前にも言ってただろ、それ」
「だって、かっこいいじゃん!」
俺は苦笑した。
すると、陽菜がにやりと笑う。
「……ところで、お兄ちゃん」
「何?」
「社長になったら、澪さんと麗華さん、どっちが秘書になるの?」
「……は?」
思わず、変な声が出た。
母さんが、くすくすと笑う。
「陽菜ったら」
「だって気になるもん!」
「二人とも、そんな話してないから!」
俺が慌てて答えると、陽菜は楽しそうに笑った。
「えー? じゃあ二人とも?」
「だから違うって!」
リビングに、笑い声が広がった。
……まったく。
でも、こういう時間があるから、頑張れるんだと思う。
◇
翌週。
俺は父さんと一緒に、榊原さんの事務所を訪れていた。
「黒瀬君。本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
榊原さんは、父さんにも丁寧に挨拶してくれた。
そして、会社設立についての説明が始まった。
「まず、会社の形態についてですが、今回は株式会社を想定しています」
「……株式会社、ですか」
「はい。将来的な研究開発や資金調達を考えると、選択肢として有力です」
俺は頷いた。
「ただし、設立時点で外部の出資を受けるかどうかは、慎重に決める必要があります」
「……どうしてですか?」
「株式を発行して資金を受け取れば、その分だけ株主が増えます。経営への影響も考えなければなりません」
なるほど。
俺はノートへ書き込んだ。
「黒瀬君が経営の主導権を持ちたいのであれば、最初は株式の大部分を自分で保有する方法もあります」
父さんが尋ねた。
「……未成年でも、会社を設立できるんでしょうか?」
「はい。可能ですが、年齢や契約内容に応じた手続き、法定代理人の同意など、確認すべき点があります」
榊原さんは、丁寧に説明してくれた。
「今回は、ご両親にもご協力いただきながら進めるのがよいでしょう」
父さんが頷いた。
「分かりました。息子が納得して進められるよう、協力します」
俺は、父さんを見つめた。
「……ありがとう」
「何を言ってる。父親なんだから当然だろ」
父さんは、少し照れくさそうに笑った。
◇
「それから、社名についてですが」
榊原さんが資料を開いた。
「何か、お考えはありますか?」
俺は、少しだけ考えた。
実は、昨夜から何度も悩んでいた。
自分の名前を入れるべきか。
製品の特徴を表すべきか。
それとも、まったく別の名前にするべきか。
そして、ようやく一つの案にたどり着いた。
「……ルミナス、という言葉を使いたいと思っています」
榊原さんが、興味深そうに顔を上げた。
「ルミナス、ですか?」
「はい。光とか、輝きという意味を込めて」
もちろん、俺にとってはもう一つ意味がある。
異世界で出会った、エリシア・ルミナス。
彼女や、その家族との出会いは、俺にとって大切なものだった。
ただ、それを日本で説明するわけにはいかない。
「……人の未来を明るくできるような会社にしたいので」
俺がそう言うと、榊原さんが微笑んだ。
「いい名前ですね」
父さんも頷いた。
「……悪くないと思うぞ」
俺は、少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
そして、資料へ名前を書き込んだ。
『株式会社ルミナス・ライフ』
まだ仮称だ。
けれど、その文字を見た瞬間。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
自分の会社。
自分が作る未来。
その輪郭が、少しずつ見え始めていた。
◇
その後も、打ち合わせは続いた。
会社の目的。
事業内容。
役員構成。
資本金。
そして、知的財産の管理方法。
榊原さんは、俺の技術を安易に会社へ移してしまわない方法も説明してくれた。
「黒瀬君個人が保有する技術を、会社へ使用許諾する形も考えられます」
「……使用許諾?」
「はい。技術そのものを譲渡するのではなく、一定の条件で使う権利を与える契約です」
俺は、ゆっくり頷いた。
「……なるほど」
「ただし、どの権利を誰が保有するかは、今後の事業計画と合わせて決めましょう」
「分かりました」
知らないことばかりだ。
けれど、一つずつ理解できる。
それが、何だか楽しかった。
以前の俺なら、難しい話を聞くだけで諦めていたと思う。
でも、今は違う。
分からないことを、分かるようにしていけばいい。
それだけだった。
◇
打ち合わせを終えた帰り道。
父さんと二人で歩いていた。
「……怜司」
「何?」
「大きくなったな」
突然の言葉に、俺は少し驚いた。
「……え?」
父さんは、穏やかに笑った。
「少し前まで、お前が会社を作るなんて想像もしていなかった」
「……俺もだよ」
正直に答えると、父さんが笑った。
「だろうな」
そして、少しだけ真剣な表情になる。
「でもな、怜司」
「うん」
「どれだけ成功しても、困ったときは家に帰ってこいよ」
俺は、父さんを見つめた。
「……え?」
「会社のことでも、学校のことでも、何でもいい」
父さんは、静かに続けた。
「お前がどれだけ立派になっても、俺たちにとっては大切な息子なんだから」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
「……ありがとう、父さん」
俺は、ゆっくり頷いた。
「……忘れないよ」
父さんは、満足そうに笑った。
◇
数週間後。
必要な手続きを一つずつ進め、会社設立の準備が整った。
そして。
正式な登記手続きが完了した日。
俺は、榊原さんから渡された書類を見つめていた。
『株式会社ルミナス・ライフ』
代表取締役。
黒瀬怜司。
「…………」
何度見ても、不思議な気分だった。
本当に、自分の会社ができたんだ。
もちろん、まだ小さな会社だ。
社員もほとんどいない。
製品も発売していない。
売上だって、これからだ。
けれど。
確かに、俺の会社だった。
「……おめでとうございます、黒瀬さん」
榊原さんが微笑んだ。
「ありがとうございます」
俺は、深く頭を下げた。
その隣で、父さんが静かに笑っている。
俺は、書類をもう一度見つめた。
株式会社ルミナス・ライフ。
その名前には、俺の願いが込められている。
人の未来を明るくすること。
そして、自分自身の人生も、自分の手で切り開くこと。
「……よし」
俺は、小さく拳を握った。
ここからだ。
本当の勝負は、ここから始まる。
そう思うと、不思議と怖さはなかった。
むしろ。
これから何ができるのか、楽しみで仕方がなかった。




