第133話 二つの名家が動く――奇跡の薬に託された十億円
西園寺琴音の事故から、十日ほどが経った。
彼女の回復は順調だった。
医師たちは依然として慎重な経過観察を続けていたが、琴音さん本人はすっかり元気を取り戻し、退屈だと文句を言うほどになっているらしい。
麗華さんから送られてきたメッセージには、そんな妹さんの様子が書かれていた。
『琴音ったら、もう学校へ行きたいと言い始めていますの』
俺は思わず笑ってしまった。
『元気になった証拠ですね。でも、無理はしないように伝えてください』
そう返信すると、すぐに返事が届く。
『ええ。黒瀬さんからも言っていただけると助かりますわ』
……なるほど。
どうやら琴音さんは、麗華さんの言うことをあまり聞かなくなってきたらしい。
そんなやり取りをしていると、もう一通メッセージが届いた。
今度は澪さんからだった。
『レイジさん。今週末、研究開発事業について正式な会議を開くことになりました。お父様から、ぜひご参加いただきたいとのことです』
俺は、少しだけ背筋を伸ばした。
いよいよ、本格的に動き出すのか。
◇
土曜日。
九条院家の企業グループが所有する会議施設には、いつもより多くの人が集まっていた。
九条院家と西園寺家の当主。
法務担当の榊原さん。
分析化学の高瀬博士。
品質管理を担当する篠原さん。
そして、企業財務や研究開発投資に詳しい専門家たち。
もちろん、澪さんと麗華さんも同席している。
「黒瀬君。よく来てくれたね」
九条院家の当主が笑顔で迎えてくれた。
「本日もよろしくお願いします」
「こちらこそ」
西園寺家の当主も立ち上がる。
「……黒瀬君」
「はい」
「琴音のことでは、本当に世話になった」
「……いえ。元気になってくれて、俺も嬉しいです」
当主は、静かに微笑んだ。
以前よりも、その表情が柔らかくなったように感じる。
「……ありがとう」
短い言葉だった。
けれど、深い感謝が込められていた。
◇
会議が始まると、最初に説明されたのは研究開発計画だった。
「まず、現在の試作品についてですが」
高瀬博士が資料を開いた。
「通常の成分分析では、未完成品と完成品の違いを十分に説明できていません」
俺は頷いた。
予想していた結果だった。
魔力という概念が存在しない日本の科学では、簡単に説明できるはずがない。
「ただし、現時点では、これを未知の物質による作用と断定することもできません」
高瀬博士は慎重に続けた。
「今後は、分析方法を増やし、試料の物性や安定性を詳しく調べます。同時に、適切な審査を経たうえで、前臨床段階の研究計画を進める必要があります」
俺はノートへ書き込んだ。
検査。
安全性。
再現性。
品質管理。
覚えることは多い。
けれど、今はそれが楽しかった。
《万象習得》のおかげで、一度理解した知識は驚くほど自然に頭へ入ってくる。
ただ、知識を覚えることと、実際に責任を持って判断することは別だ。
だからこそ、専門家の意見を聞く必要がある。
「黒瀬君」
篠原さんが口を開いた。
「製造工程について、一つ確認したいことがあります」
「はい」
「現在の試作品は、同じ条件で繰り返し製造できるのでしょうか?」
「はい。小規模ですが、同じ品質になるよう調整した装置があります」
その言葉に、何人かの専門家が顔を上げた。
「……装置が?」
「はい」
俺は頷いた。
「まだ研究用の小型機ですが、一定量なら繰り返し製造できます」
篠原さんの表情が変わった。
「……それは、非常に重要です」
「そうなんですか?」
「ええ。どれほど優れた製品でも、毎回品質が変わってしまうようでは医薬品として扱えません」
なるほど。
確かに、その通りだ。
「ただし、装置があるだけでは十分ではありません。製造条件を記録し、品質を確認できる仕組みが必要です」
「分かりました」
俺は頷いた。
その点なら、改善できる。
魔石式製造機には、すでに魔力の供給量を一定に保つ仕組みがある。
あとは、外部から確認できる品質管理の方法を考えればいい。
もっとも。
その中核が魔力であることを、どう説明するか。
そこが、今後の大きな課題だった。
◇
「さて」
九条院家の当主が、資料を閉じた。
「ここからが、今日の本題だ」
会議室の空気が変わった。
「私たちは、黒瀬君の技術について、本格的な研究開発事業を立ち上げる方針で一致した」
俺は、思わず背筋を伸ばした。
「……本格的な、ですか?」
「ああ」
西園寺家の当主が頷く。
「専用の研究設備を確保し、必要な専門家を集める。法務や知的財産の管理も含めて、長期的に取り組むつもりだ」
そして。
机の上へ、一枚の資料が置かれた。
そこには、研究開発予算の案が記されていた。
俺は、その数字を見た瞬間。
「…………え?」
思わず、声が漏れた。
何度見ても、桁が変わらない。
「……じゅ、十億円……?」
九条院家の当主が、静かに頷いた。
「初期研究開発枠として、最大十億円を想定している」
俺は、言葉を失った。
十億円。
今までの人生で、実際に目にしたこともないような金額だ。
「……そんな大金を、俺の研究に……?」
思わず尋ねると、西園寺家の当主が微笑んだ。
「もちろん、君個人へ十億円を渡すという意味ではないよ」
「……あ、はい」
「研究施設、人件費、分析、安全性評価、知的財産の保護。そうした費用を含む、事業全体の予算だ」
九条院家の当主も続けた。
「しかも、最初から全額を使うわけではない。研究の進捗と結果を確認しながら、段階的に資金を投入する」
なるほど。
少しだけ、理解できた。
それでも、十億円という数字の衝撃は消えない。
「……どうして、そこまで……」
俺が呟くと、西園寺家の当主が、静かに口を開いた。
「……黒瀬君」
「はい」
「私は、琴音を失いかけた」
その声は、低く、真剣だった。
「どれほど金があっても、あの子を救う方法が見つからなかった」
俺は、何も言わずに聞いていた。
「だが、君の薬が最後の希望になった」
当主は、まっすぐ俺を見つめた。
「もし、あのような薬を多くの人へ届けられるなら……」
そこで、一度言葉を切る。
「それは、投資する価値のある未来だと、私は思っている」
胸の奥が、熱くなった。
「……ありがとうございます」
俺は、深く頭を下げた。
すると、九条院家の当主が穏やかに微笑んだ。
「もちろん、私も同じ考えだよ」
そして、少しだけ声を柔らかくする。
「それに、澪が信じている少年だからね」
「お、お父様……!」
澪さんが、真っ赤になった。
会議室に、小さな笑いが広がる。
西園寺家の当主も負けじと口を開いた。
「麗華も、黒瀬君のことを非常に高く評価しているようですからな」
「お父様!」
今度は麗華さんが赤くなる。
……何だか、いつもの雰囲気に戻ってきたな。
◇
「ただし、黒瀬君」
榊原さんが、真剣な表情で口を開いた。
「大切なことがあります」
「……はい」
「この十億円という金額は、現時点では研究開発の予算案です。君の技術に十億円の価値があると確定したわけではありません」
「分かっています」
「そして、事業の主体をどうするかも、これから決める必要があります」
俺は頷いた。
「……自分の会社を作りたいと、以前お話ししました」
「ええ。覚えています」
榊原さんは微笑んだ。
「その希望を前提に、いくつかの案を準備しました」
資料には、会社設立の方法や、出資の仕組みがまとめられていた。
俺が技術を持つ会社を作る。
九条院家と西園寺家は、研究開発の協力者として参加する。
資金の提供方法や利益配分は、契約で定める。
そして、技術の所有権を安易に譲渡しない。
「……なるほど」
俺は資料を見つめた。
以前なら、こんな難しい話は理解できなかったと思う。
けれど今は、一つずつ整理すれば分かる。
「……質問してもいいですか?」
「もちろんです」
「もし俺の会社を作った場合、経営の決定権はどうなるんでしょうか?」
その瞬間。
九条院家と西園寺家の当主が、同時に笑みを浮かべた。
「……いい質問だね」
「ええ。そこは非常に重要です」
榊原さんも頷いた。
「出資を受ける場合、株式の割合や契約内容によって経営への影響が変わります。だからこそ、君の希望を最初に明確にしておく必要があります」
俺は、ゆっくり頷いた。
「……できれば、自分で決められる立場でいたいです」
その言葉に、九条院家の当主が満足そうに微笑んだ。
「それでいい」
西園寺家の当主も頷く。
「自分の技術を、自分の意思で育てたい。その気持ちは大切にしなさい」
◇
会議が終わったあと。
俺は、窓際で資料を見直していた。
すると、澪さんと麗華さんが近づいてきた。
「レイジさん。お疲れさまでした」
「ありがとうございます、澪さん」
「今日は、驚かれましたでしょう?」
麗華さんが、楽しそうに微笑む。
「……正直、十億円って聞いたときは頭が真っ白になりました」
俺が答えると、二人はくすりと笑った。
「無理もありませんわ」
「でも、レイジさん」
澪さんが、優しく言った。
「それだけ、たくさんの方が期待しているということですよ」
「……はい」
俺は頷いた。
「だからこそ、ちゃんと結果を出したいです」
麗華さんが微笑む。
「焦る必要はありませんわ」
「……え?」
「一歩ずつ進めばいいんですの。黒瀬さんなら、きっとできます」
澪さんも頷いた。
「私たちも、応援していますから」
二人の言葉に、胸が温かくなった。
「……ありがとうございます」
俺は、自然と笑顔になった。
十億円。
それは、まだ俺のものではない。
けれど。
俺の技術を信じ、未来へ投資しようとしてくれる人たちがいる。
その事実が、何より大きかった。
俺は資料を閉じた。
そして、心の中で静かに決意した。
(……必ず、形にしてみせる)
自分のために。
家族のために。
そして、いつかこの薬を必要とする人たちのために。
新しい事業が、いよいよ動き始めていた。




