第132話 約束のスタートライン――美月が駆け抜けた最高の一日
少しだけ、時間を遡る。
それは、西園寺琴音が交通事故に遭うよりも前。
美月さんが怪我をした、二日後のことだった。
◇
「……よしっ!」
橘美月は、自室の鏡の前で大きく息を吐いた。
身につけているのは、いつもの陸上競技用のウェア。
髪を一つにまとめ、足元のシューズを確かめる。
今日は、待ちに待った記録会だ。
本来なら、ここに立つことすら難しかったはずだった。
二日前。
練習中に転倒し、足首を捻挫した。
膝には深い傷も負った。
あの瞬間、すべてが終わったと思った。
積み重ねてきた練習。
目標にしていた自己ベスト。
そして、怜司へいい結果を報告したいという、小さな願い。
全部、消えてしまったと思った。
けれど。
「……怜司のおかげだよね」
美月は、そっと右足首へ視線を落とした。
腫れはない。
痛みもない。
膝の傷も、跡形なく消えている。
翌日、医療機関で診察を受けたときには、医師も驚いていた。
受傷直後の状態を考えると、回復があまりにも早い。
そう言われた。
それでも、診察で確認できる範囲では明らかな異常はなく、本人にも痛みはなかった。
最終的には、体調の変化に十分注意し、少しでも違和感があれば競技を中止するよう説明を受けた。
美月自身も、無理をするつもりはなかった。
せっかく取り戻した機会だ。
焦って台無しにしたくない。
それに。
(……今日は、怜司も来てくれるんだ)
昨日、メッセージで知らせたときのことを思い出す。
『明日の記録会、出られることになったよ!』
すると、すぐに返事が届いた。
『よかったです! 応援に行ってもいいですか?』
その文章を見た瞬間、美月はベッドの上で思わず飛び跳ねそうになった。
もちろん、足を気遣って途中でやめたけれど。
『もちろん! 絶対来て!』
勢いよく返信したあと、しばらくスマートフォンを抱きしめていた。
「……へへっ」
鏡の中の自分が、にやけている。
「よーし! 今日は絶対、いい走りするぞ!」
美月は両頬を軽く叩き、部屋を飛び出した。
◇
競技会場には、朝から多くの選手が集まっていた。
トラックを走る足音。
観客席から聞こえる声援。
場内放送の声。
独特の緊張感が、会場全体を包んでいる。
俺は観客席へ向かいながら、スマートフォンを確認した。
『怜司! もう着いた?』
美月さんからのメッセージだ。
『今、観客席に向かっています』
返信すると、すぐに返事が届く。
『了解! 見つけたら手振るね!』
俺は思わず笑った。
相変わらず元気だな。
けれど、二日前の保健室で見た姿を思い出すと、その元気さが本当に嬉しかった。
足首を押さえ、悔しそうに涙をこらえていた美月さん。
あんな表情は、もう見たくない。
今日は、思い切り走ってほしい。
俺は観客席の空いている場所へ腰を下ろした。
しばらくすると、ウォーミングアップをしている選手たちの中に、見覚えのある姿を見つけた。
「……あ、美月さん」
美月さんは軽く身体を動かしながら、周囲を見回していた。
そして。
ぱっと、こちらを向いた。
「……!」
俺を見つけたらしい。
満面の笑顔で、大きく手を振ってくる。
俺も手を振り返した。
すると、美月さんは嬉しそうに拳を握り、再びウォーミングアップへ戻っていった。
……何だか、こっちまで緊張してきたな。
◇
美月が出場するのは、女子百メートル走。
短い距離だからこそ、一瞬の判断が結果を左右する。
スタート。
加速。
最高速度。
そして、最後まで速度を落とさず走り切ること。
美月は何度も、その流れを頭の中で確認していた。
(……大丈夫)
足首に違和感はない。
身体も軽い。
けれど、それだけでは勝てない。
今日の結果を決めるのは、これまで積み重ねてきた練習だ。
(……いつも通り、走ろう)
美月はスタート位置へ向かった。
観客席へ視線を向ける。
怜司がいる。
少し遠いけれど、ちゃんと分かる。
自分を見てくれている。
それだけで、胸の奥が温かくなった。
(……怜司)
美月は、心の中で呟いた。
(……見ててね)
選手たちがスタートラインへ並ぶ。
周囲の音が、少しずつ遠くなっていく。
「位置について」
美月はスターティングブロックへ足を置いた。
地面に手をつく。
深く息を吸う。
「用意」
腰を上げる。
一瞬の静寂。
そして。
号砲が鳴った。
◇
「……っ!」
美月が飛び出した。
反応は悪くない。
最初の数歩で身体を押し出し、徐々に上体を起こしていく。
隣のレーンの選手も速い。
序盤は、ほぼ横並びだった。
(……焦らない!)
美月は腕を振った。
地面を蹴る。
一歩。
また一歩。
練習してきた感覚が、身体の中でつながっていく。
五十メートル。
先頭争いは、まだ接戦だった。
観客席で、俺は思わず身を乗り出していた。
「……美月さん!」
声が出た。
周囲の歓声に紛れてしまうほどの声だったけれど。
それでも、思い切り叫んだ。
「頑張れ!」
その瞬間。
美月は、わずかに口元を緩めた。
(……聞こえた)
不思議だった。
あれほど多くの声が響いているのに。
怜司の声だけは、はっきり分かった気がした。
(……絶対、いい結果出す!)
残り三十メートル。
美月は、さらに腕を振った。
脚を前へ運ぶのではなく、地面をしっかり押す。
身体が前へ進む。
隣の選手との差が、ほんの少し縮まった。
残り二十メートル。
ほぼ並んだ。
残り十メートル。
美月は、最後までフォームを崩さなかった。
そして。
ゴールラインを駆け抜けた。
「……っ、はぁ……!」
走り終えた美月は、ゆっくり速度を落とした。
肩で息をする。
脚が熱い。
心臓が、激しく鼓動している。
けれど。
(……走れた)
最後まで。
思い切り。
(……私、走れたんだ……!)
その実感が、胸いっぱいに広がった。
◇
記録が表示されたのは、少ししてからだった。
美月は、仲間たちと一緒に掲示板を見上げた。
「……え?」
思わず、目を見開く。
表示されていたのは。
自己ベストを更新するタイムだった。
「……うそ」
もう一度、確認する。
見間違いではない。
確かに、自分の名前がある。
「……やった……」
小さく呟いた。
そして。
「やったあああっ!」
思い切り叫んだ。
仲間たちが駆け寄ってくる。
「美月! 自己ベストじゃん!」
「すごい!」
「怪我したって聞いたとき、どうなるかと思ったよ!」
「……うん!」
美月は笑った。
目には、涙が浮かんでいた。
「……本当に、よかった……!」
記録会の結果は、自己ベスト更新。
順位も、これまでより上だった。
もちろん、全国トップクラスというわけではない。
けれど、美月にとっては大きな一歩だった。
何より。
諦めかけた舞台で、自分の力を出し切れたこと。
それが、何より嬉しかった。
◇
競技を終えた美月さんが、俺のもとへ駆け寄ってきた。
「怜司ーっ!」
「美月さん!」
その表情を見た瞬間、結果を聞く前から分かった。
きっと、いい走りができたんだ。
「やったよ!」
美月さんが、満面の笑顔で叫ぶ。
「自己ベスト! 更新した!」
「おめでとうございます!」
俺も思わず笑顔になった。
「すごかったです! 最後まで、全然勢いが落ちなかったですね!」
「でしょ!?」
美月さんは嬉しそうに笑った。
「最後、めちゃくちゃ頑張ったんだから!」
「見てましたよ」
「……ほんと?」
「はい。ずっと見てました」
その瞬間。
美月さんの頬が、ほんのり赤くなった。
「……そっか」
少しだけ、声が小さくなる。
そして。
「……ねえ、怜司」
「はい?」
「……ありがと」
美月さんは、まっすぐ俺を見つめた。
「二日前、怜司が助けてくれなかったら……私、今日ここに立てなかったと思う」
俺は、静かに聞いていた。
「……だから、本当に感謝してる」
その声は、いつもの明るさとは少し違っていた。
まっすぐで、温かい声だった。
「……でも」
俺は、ゆっくり首を横に振った。
「今日の記録は、美月さん自身の力ですよ」
「……え?」
「俺ができたのは、怪我を治す手助けだけです」
俺は笑った。
「速く走れたのは、美月さんがずっと練習してきたからです」
美月さんが、目を大きく開いた。
そして。
「……もう!」
突然、俺の腕を軽く叩いた。
「怜司って、そういうこと言うんだから!」
「……え?」
「……嬉しくなるじゃん」
最後の言葉は、小さかった。
けれど、ちゃんと聞こえた。
俺まで、少し照れくさくなる。
◇
競技会場を出る頃には、陽が少し傾き始めていた。
美月さんは、隣を歩きながら何度も今日のレースを振り返っていた。
「最初の三十メートルは、ちょっと硬かったんだけどね」
「そうだったんですか?」
「うん。でも途中から、いつもの感じになってきて」
「最後、すごく伸びてましたね」
「でしょ! あそこは自分でもよかったと思う!」
楽しそうに話す美月さんを見ていると、こちらまで嬉しくなる。
しばらく歩いたところで、美月さんが足を止めた。
「……ねえ、怜司」
「はい?」
「今度の休み、また二人で出かけない?」
俺は、少し驚いた。
「もちろん、いいですよ」
「……ほんと!?」
「はい」
美月さんが、ぱっと笑顔になる。
「やった!」
そして、少しだけ照れくさそうに続けた。
「……今度は、私がお礼したいんだ」
「そんな、気にしなくても……」
「気にするの!」
美月さんは、俺の言葉を遮った。
「だって、私がしたいんだもん!」
その勢いに、思わず笑ってしまった。
「……分かりました。じゃあ、楽しみにしています」
「うん!」
美月さんは嬉しそうに頷いた。
そして、少しだけ俺へ近づいた。
「……それとさ」
「はい?」
「今日、怜司が応援に来てくれて……すっごく嬉しかった」
その声は、驚くほど素直だった。
「……だから、次も来てね」
俺は頷いた。
「もちろんです。予定が合えば、また応援に行きます」
美月さんは、満面の笑顔を浮かべた。
「約束だよ!」
「はい。約束です」
夕暮れの道を、二人で歩く。
美月さんの足取りは軽かった。
その横顔は、今日の記録以上に輝いて見えた。
怪我が治ったことも嬉しい。
自己ベストを更新できたことも嬉しい。
けれど、俺にとって一番嬉しかったのは。
美月さんが、こうして心から笑っていることだった。
そして、美月さんもまた。
今日という日を、きっと長く忘れないだろう。
諦めかけた夢を、もう一度追いかけられた日。
そして。
大切な少年との距離が、ほんの少し近づいた日として。




