第131話 誰一人、選ばせない――西園寺家に届けた新たな希望
西園寺琴音が交通事故に遭ってから、数日が経った。
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
電話越しに聞いた、西園寺家の当主の震える声。
病院で涙を流していた麗華さん。
そして、命を失いかけていた琴音さん。
上級回復ポーションによって危機を脱した彼女は、その後も順調に回復していると聞いていた。
けれど、やっぱり気になる。
そこで俺は、麗華さんへ連絡を入れた。
『琴音さんの具合はいかがですか? ご迷惑でなければ、一度お見舞いに伺いたいんですが』
返事は、すぐに届いた。
『ありがとうございます、黒瀬さん。琴音は驚くほど元気になっていますわ。ちょうど自宅で療養しておりますので、ぜひいらしてくださいませ』
その文章を読んで、俺は胸を撫で下ろした。
退院できたんだ。
本当によかった。
そして、もう一つ。
今日はどうしても、渡しておきたいものがあった。
◇
土曜日の午後。
俺は西園寺家の屋敷を訪れていた。
以前にも何度か来たことがある場所だが、門をくぐるたびに、その立派さには驚かされる。
玄関で出迎えてくれたのは、麗華さんだった。
「黒瀬さん。お待ちしておりましたわ」
「こんにちは、麗華さん」
「ふふ。琴音が、朝から何度も時計を確認していましたのよ」
「……俺が来るのを、ですか?」
「ええ。すっかり懐いてしまったみたいですわ」
麗華さんは、少しだけ困ったように微笑んだ。
その表情は、事故当日に見たものとはまったく違う。
あのときは、いつもの気丈な姿が消え、ただ妹を失う恐怖に震えていた。
けれど今は、穏やかな笑顔が戻っている。
そのことが、何より嬉しかった。
「……麗華さんも、少し休めましたか?」
俺が尋ねると、麗華さんは驚いたように目を瞬かせた。
「……私、ですか?」
「はい。あの日から、ずっと大変だったと思うので」
麗華さんは、しばらく俺を見つめた。
そして、柔らかく微笑む。
「……ありがとうございます。おかげさまで、昨夜は久しぶりによく眠れましたわ」
「それなら、よかったです」
「黒瀬さんは……いつも、そうですわね」
「え?」
「いえ。何でもありません」
麗華さんは小さく笑い、俺を屋敷の中へ案内してくれた。
◇
「怜司さーん!」
応接室の扉が開いた瞬間。
元気な声が響いた。
「琴音さん!」
ソファに座っていた少女が、ぱっと顔を輝かせる。
立ち上がろうとしたところで、麗華さんが慌てて声をかけた。
「琴音! まだ無理をしてはいけませんわ!」
「あっ、そうだった!」
琴音さんは、少し照れくさそうに笑った。
「えへへ。つい嬉しくて」
俺は思わず笑みを浮かべた。
「元気そうで安心しました」
「はい! もう全然痛くないんです!」
琴音さんは、自分の腕を軽く動かしてみせた。
事故直後の状態を思えば、信じられないほどの回復だ。
けれど、担当医からは経過観察を続けるよう言われているらしい。
「先生からも、しばらくは無理をしないようにって言われています」
「それがいいと思います」
俺は頷いた。
「元気になったからって、焦らないでくださいね」
「はーい!」
その返事を聞いて、麗華さんが苦笑する。
「……本当に分かっているのかしら」
「分かってるもん!」
姉妹のやり取りを見ていると、自然と頬が緩んだ。
この光景を、もう一度見ることができてよかった。
心から、そう思った。
やがて、西園寺家の当主と奥様も姿を見せた。
「黒瀬君。よく来てくれたね」
「本日はお邪魔します」
「こちらこそ。琴音の様子を気にかけてくれて、ありがとう」
当主は穏やかに微笑んだ。
けれど、その目には以前よりも深い親しみが宿っているように感じられた。
奥様も、俺の手をそっと握った。
「レイジさん。本当に、ありがとうございました」
「……いえ」
「この子がこうして笑っていられることが、どれほどありがたいか……」
奥様は琴音さんへ視線を向けた。
その目元が、少し潤んでいる。
琴音さんは、照れくさそうに笑った。
「もう、お母様。泣かないでよ」
「……そうね」
奥様も笑った。
俺は、その温かな光景を静かに見つめていた。
◇
しばらく近況を話したあと。
俺は鞄から、小さな保管ケースを取り出した。
「……実は、今日はもう一つ用事があるんです」
当主が首を傾げる。
「何だい?」
俺はケースをテーブルへ置いた。
そして、蓋を開ける。
中には、淡い青緑色の液体が入った小瓶が一本。
「……これは」
当主の表情が変わった。
麗華さんも、目を見開く。
「……黒瀬さん。まさか……」
「はい」
俺は頷いた。
「上級回復ポーションです」
応接室が静まり返った。
琴音さんも、不思議そうに小瓶を見つめている。
「……でも、黒瀬君」
当主が、ゆっくり口を開いた。
「私たちは、すでに君から三本も預かっているんだよ?」
「はい」
「それだけでも、十分すぎるほどありがたい」
当主は真剣な表情になった。
「これほど貴重なものを、さらに受け取るわけには……」
「……いえ」
俺は、静かに首を横に振った。
「受け取ってほしいんです」
当主が、俺を見つめる。
「……どうしてだい?」
俺は、少しだけ息を吸った。
「西園寺家の皆さんは、四人家族ですよね」
「……ああ」
「でも、今あるポーションは三本です」
その言葉に、当主が小さく頷いた。
「……そうだね」
「もし……」
俺は、ゆっくり言葉を続けた。
「もし、ご家族全員が同じ事故に遭ったら、どうするんですか?」
室内の空気が変わった。
「四人いるのに、薬が三本しかなかったら……」
俺は、当主の目をまっすぐ見つめた。
「誰か一人を、諦めなければならなくなるかもしれません」
「…………」
誰も、何も言わなかった。
「……俺は」
胸の奥から、自然と言葉が出てきた。
「皆さんに、そんな選択をしてほしくないんです」
麗華さんが、小さく息を呑んだ。
「……黒瀬さん……」
「誰を助けるか、誰を諦めるか……そんなこと、家族に選ばせたくありません」
俺は、小瓶を当主の方へ差し出した。
「だから、受け取ってください」
少しだけ笑う。
「これで、また四人分です」
当主は、しばらく小瓶を見つめていた。
やがて。
「……黒瀬君」
その声が、震えた。
「……君は、本当に……」
言葉が続かなかった。
奥様が、そっと口元を覆う。
目から涙が零れていた。
「……ありがとうございます……」
麗華さんも、俯いていた。
肩が、小さく震えている。
そして。
「……怜司さん」
琴音さんが、静かに声をかけた。
「……はい?」
「……私たち家族のこと、そんなに考えてくれてたんですね」
俺は頷いた。
「……はい」
琴音さんは、にこっと笑った。
けれど、その目には涙が浮かんでいた。
「……嬉しいです」
その一言に、胸が温かくなった。
◇
当主は、ゆっくり小瓶を受け取った。
「……ありがとう、黒瀬君」
そして、深く頭を下げた。
「……本当に、ありがとう」
「そんな、頭を上げてください」
俺は慌てた。
けれど、当主は穏やかに笑った。
「……君には、何度頭を下げても足りないよ」
その言葉に、少し照れくさくなる。
俺は改めて、保管条件や未承認品であることを確認した。
今回も、正式な検証を終えた薬ではない。
だから、安易に使用してほしいわけではない。
必要な医療を優先すること。
試作品の取り扱いについては、今後の研究体制の中でも慎重に検討していくこと。
その説明を、当主は真剣に聞いてくれた。
「……分かった。責任を持って預かろう」
「ありがとうございます」
俺は、ようやく安心した。
使わずに済むのが一番。
でも、もしものとき。
誰かを選ばなければならない状況だけは、避けてほしかった。
◇
帰り際。
麗華さんが、玄関まで見送ってくれた。
「……黒瀬さん」
「はい?」
麗華さんは、少し俯いていた。
そして、ゆっくり顔を上げる。
「……今日は、本当にありがとうございました」
「……いえ」
「琴音を助けてくださっただけでも、十分すぎるほどなのに……」
その声が、少し震えた。
「……家族全員のことまで……」
俺は、静かに首を横に振った。
「……麗華さん」
「……はい」
「俺は、皆さんに元気でいてほしいだけです」
麗華さんの目が、大きく開いた。
「……それに」
俺は、少し照れくさくなりながら続けた。
「麗華さんが、大切にしている家族ですから」
その瞬間。
麗華さんの頬が、真っ赤になった。
「…………」
しばらく、何も言わなかった。
そして。
「……黒瀬さん」
小さな声で、俺の名前を呼んだ。
「……はい」
「……私、もっとあなたのお力になりたいですわ」
その目は、真剣だった。
「事業のことも、研究のことも……できる限り、支えたいと思っています」
俺は、ゆっくり頷いた。
「……ありがとうございます」
麗華さんは、柔らかく微笑んだ。
「……ふふ。お礼を言うのは、私の方ですわ」
そして、少しだけ悪戯っぽく笑う。
「……今度の書店イベント、忘れていませんわよね?」
「もちろんです」
俺が即答すると、麗華さんは嬉しそうに微笑んだ。
「……楽しみにしていますわ」
「俺もです」
その言葉に、麗華さんの表情がさらに柔らかくなった。
俺は屋敷を後にした。
背後から、琴音さんの元気な声が聞こえる。
「怜司さーん! また来てくださいねー!」
俺は振り返り、笑顔で手を振った。
「はい。また来ます!」
夕暮れの空の下。
俺は、静かに歩き出した。
守りたい人がいる。
大切な人たちがいる。
そのことが、今の俺にとって何よりの力になっていた。




