第130話 救われた命と父の誓い――奇跡の事業を必ず成功へ
西園寺琴音が交通事故に遭ってから、一夜が明けた。
病院の窓から差し込む朝日が、静かな病室を照らしている。
白いベッド。
規則正しく動く医療機器。
そして、その中央で眠る一人の少女。
琴音は、まだ意識を取り戻していなかった。
けれど。
昨日までとは、明らかに違っていた。
顔色が戻っている。
呼吸も安定している。
何より、医師たちの表情から、切迫した緊張が少しずつ消えていた。
「……本当に、助かったんだな」
西園寺家の当主は、娘の寝顔を見つめながら呟いた。
昨夜。
医師から、救命は極めて難しいと告げられた。
あの瞬間の絶望を、今でもはっきり覚えている。
娘の命が、自分の手から零れ落ちていく。
そんな感覚だった。
どれほど金を持っていても。
どれほど大きな企業を動かしていても。
目の前の娘一人を救えない。
その無力さが、胸を締めつけた。
だが。
黒瀬怜司が渡してくれた、あの小さな瓶。
上級回復ポーション。
その薬が、琴音の命をつなぎ止めた。
「……黒瀬君」
当主は、静かに少年の名前を呟いた。
そして、深く目を閉じた。
(……君には、どれほど感謝しても足りない)
◇
「……お父様」
病室の扉が、静かに開いた。
入ってきたのは、麗華だった。
昨夜はほとんど眠れていないのだろう。
目元には、まだ疲れが残っている。
「……琴音は?」
当主は、娘へ微笑んだ。
「落ち着いているよ」
「……そうですのね」
麗華は、ほっとしたように息を吐いた。
そして、ベッドのそばへ歩み寄る。
「……琴音」
小さな声で、妹の名前を呼んだ。
いつもなら。
元気よく返事が返ってくる。
『お姉様!』
あの、明るい声。
けれど今は、静かな寝息だけだった。
麗華は、そっと妹の手を握った。
「……本当に、心配させて……」
声が震えた。
「……もう、こんなことは嫌ですわ……」
目から、涙が零れた。
当主は、何も言わずに娘の肩へ手を置いた。
そのときだった。
「……ん……」
かすかな声が、聞こえた。
麗華の身体が固まる。
「……え?」
琴音の指が、わずかに動いた。
「……琴音?」
もう一度、名前を呼ぶ。
すると。
「……お、ねえ……さま……?」
小さな声が、返ってきた。
「…………!」
麗華は、息を呑んだ。
「……琴音っ!」
少女の瞼が、ゆっくりと開く。
まだ焦点の定まらない瞳が、姉の顔を捉えた。
「……あれ……?」
琴音は、不思議そうに瞬きをした。
「……ここ、どこ……?」
麗華は、妹の手を強く握った。
「……病院ですわ」
「……病院?」
「……あなた、事故に遭ったんですのよ……!」
琴音は、しばらく考え込んだ。
そして、かすかに眉を寄せる。
「……あ……」
何かを思い出したようだった。
「……車が……」
麗華は、慌てて首を横に振った。
「もう、思い出さなくていいんですの」
その声が、涙で震える。
「……今は、無事でいてくれれば……」
琴音は、姉の顔を見つめた。
そして。
「……お姉様、泣いてる……?」
小さく呟いた。
麗華は、思わず笑った。
涙を流しながら。
「……誰のせいだと思っていますの……!」
琴音は、少しだけ困ったように笑った。
「……ごめん、なさい……」
その瞬間。
麗華は、妹の手を両手で包み込んだ。
「……謝らなくていいんですの……!」
声が、震えた。
「……生きていてくれれば、それで……!」
当主は、その光景を見つめていた。
胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。
そして、静かに目元を拭った。
「……琴音」
父親が声をかける。
琴音が、ゆっくり顔を向けた。
「……お父様……?」
「……よく、頑張ったね」
当主は、娘の手を握った。
「……本当に、よく頑張った」
琴音は、少し不思議そうに笑った。
「……えへへ……」
その笑顔を見た瞬間。
当主は、もう涙をこらえられなかった。
◇
その日の午後。
担当医から、改めて説明が行われた。
「……正直に申し上げて、私たちも驚いています」
医師は、検査結果を見つめながら言った。
「昨夜の状態から、ここまで回復するとは考えていませんでした」
当主が、真剣な表情で尋ねる。
「……もう、命の危険はないのでしょうか?」
「現時点では、急性期の危機を脱しています。ただし、引き続き経過観察が必要です」
「……分かりました」
医師は頷いた。
「また、損傷部位についても、通常では説明しにくい回復が確認されています」
麗華が、顔を上げた。
「……あの薬の効果、でしょうか?」
「その可能性は考えられます」
医師は、慎重に答えた。
「ただし、今回の一例だけで因果関係を断定することはできません。今後、記録を整理し、必要な検証を進めることになります」
当主は、深く頷いた。
「……もちろんです」
その言葉には、強い決意が込められていた。
もう、これは単なる興味の対象ではない。
自分の娘の命を救った可能性がある技術。
それを、正しく社会へ届ける責任がある。
当主は、そう考え始めていた。
◇
夕方。
俺は病院を訪れていた。
昨日は、琴音さんの命が助かったと聞いて、ようやく安心できた。
けれど、まだ意識が戻っていないと聞いていたから、ずっと気になっていた。
受付で確認を済ませ、病室へ向かう。
扉を軽く叩くと、麗華さんの声が返ってきた。
「……どうぞ」
「失礼します」
中へ入る。
すると。
「……あっ!」
ベッドの上から、聞き覚えのある声がした。
「……怜司さん!」
俺は、思わず足を止めた。
「……琴音さん?」
少女が、こちらを見て笑っている。
少し疲れた様子ではあるけれど。
確かに、あの明るい笑顔だった。
「……よかった……!」
思わず、声が漏れた。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……本当に、よかったです」
琴音さんは、少し照れくさそうに笑った。
「……えへへ。心配かけちゃいました」
「……心配しましたよ」
俺は、ベッドのそばへ歩み寄った。
「でも、元気そうで安心しました」
琴音さんは、じっと俺を見つめた。
そして、少しだけ真剣な表情になる。
「……お父様から、聞きました」
「……え?」
「……怜司さんの薬が、私を助けてくれたって」
俺は、言葉に詰まった。
「……まだ、正式に確認されたわけじゃないですけど」
「……でも」
琴音さんは、にこっと笑った。
「……ありがとうございます」
その声は、小さかった。
けれど、まっすぐだった。
「……私、まだお姉様といっぱい遊びたいし……」
琴音さんは、麗華さんへ視線を向けた。
「……お父様とお母様にも、もっと甘えたいし……」
そして、俺を見つめる。
「……まだ、やりたいことがいっぱいあるんです」
胸が、締めつけられた。
十三歳。
これから、いくらでも未来がある年齢だ。
その未来が、昨日。
失われかけていた。
「……だから」
琴音さんは、少しだけ笑った。
「……助けてくれて、ありがとう」
俺は、ゆっくり頷いた。
「……こちらこそ」
それ以上、うまく言葉が出なかった。
麗華さんが、そっと妹の手を握った。
「……琴音。黒瀬さんも、ずっと心配してくださっていたんですのよ」
「……そうなの?」
「はい」
俺が頷くと、琴音さんは嬉しそうに笑った。
「……じゃあ、元気になったら、またお話ししてくださいね!」
「もちろんです」
「約束ですよ?」
「はい。約束です」
琴音さんは、満足そうに頷いた。
その隣で、麗華さんが小さく微笑んでいた。
◇
病室を出たあと。
俺は、西園寺家の当主に呼び止められた。
「……黒瀬君」
「はい」
「少し、時間をもらえるかな」
「もちろんです」
案内されたのは、病院内の静かな面談室だった。
当主は、向かい側の椅子へ腰を下ろす。
そして、しばらく黙っていた。
「……黒瀬君」
「はい」
「……本当に、ありがとう」
その言葉とともに。
当主が、深く頭を下げた。
「……えっ!?」
俺は慌てて立ち上がった。
「そ、そんな! 頭を上げてください!」
けれど、当主はすぐには顔を上げなかった。
「……君が、あの薬を渡してくれていなければ」
声が、震えていた。
「……私は、娘を失っていたかもしれない」
俺は、何も言えなかった。
「……琴音は、まだ十三歳なんだ」
当主は、ゆっくり顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「……これから先、いくらでも未来があったはずの娘だ」
俺は、静かに頷いた。
「……はい」
「……その未来を、君が守ってくれた」
当主は、まっすぐ俺を見つめた。
「……だから、礼を言わせてほしい」
俺は、少しだけ俯いた。
そして、静かに答えた。
「……俺も、琴音さんが助かって、本当に嬉しいです」
当主の表情が、柔らかくなる。
「……ありがとう」
俺は、ゆっくり頷いた。
◇
その夜。
西園寺家の当主は、九条院家の当主へ電話をかけていた。
『……西園寺さん』
「……九条院さん」
『琴音さんの容体は、いかがですか?』
九条院家の当主の声には、心からの心配が滲んでいた。
すでに、澪から事故のことを聞いていたのだ。
「……おかげさまで、意識も戻りました」
『……それは、本当によかった』
電話の向こうで、安堵の息が聞こえた。
「……ありがとうございます」
西園寺家の当主は、静かに続けた。
「……実は、今日は一つ、お伝えしたいことがありまして」
『……何でしょう?』
「……黒瀬君の事業についてです」
九条院家の当主の声が、少しだけ真剣になる。
『……はい』
「……私は、あの事業を必ず成功させるべきだと思っています」
その声には、迷いがなかった。
「……これまでは、非常に価値のある技術だと考えていました」
『……ええ』
「ですが、今は違います」
当主は、窓の外へ目を向けた。
夜の街に、無数の明かりが灯っている。
その一つ一つの下に、誰かの暮らしがある。
誰かの家族がいる。
「……あの薬は、人の命を救える可能性がある」
当主は、静かに言った。
「……私は、それを自分の娘を通して知りました」
電話の向こうで、九条院家の当主は何も言わずに聞いていた。
「……昨日、私は娘を失いかけました」
声が、少し震えた。
「……どれほど金があっても、どれほど地位があっても、どうにもならなかった」
当主は、深く息を吸った。
「……ですが、黒瀬君の薬が、最後の希望になった」
『……西園寺さん』
「……九条院さん」
当主は、はっきりと言った。
「……これは、単なる商売ではありません」
沈黙。
そして。
「……一人でも多くの人へ、あの薬を届けるべきです」
その言葉には、強い決意が込められていた。
「……もちろん、安全性の確認も、正式な手続きも必要です。決して急いで省略していいものではない」
『……ええ』
「……だからこそ、私たちが力を合わせるべきなんです」
九条院家の当主は、静かに頷いた。
『……私も、同じ考えです』
その声は、落ち着いていた。
けれど、確かな熱を帯びていた。
『黒瀬君の技術を守り、必要な研究体制を整え、正しい形で社会へ届ける』
「……ええ」
『そのためなら、私もできる限りの力を尽くしましょう』
西園寺家の当主は、目を閉じた。
「……ありがとうございます」
そして、ゆっくりと笑った。
「……九条院さん」
『はい』
「……今度ばかりは、娘たちのことで張り合っている場合ではありませんな」
電話の向こうで、小さな笑い声が聞こえた。
『……まったく、その通りですね』
二人は、静かに笑い合った。
そして。
新しい約束を交わした。
黒瀬怜司の技術を守ること。
彼の権利と将来を尊重すること。
必要な専門家と設備を揃えること。
そして、医療としての安全性と有効性を正式に確認し、社会へ届ける道を切り開くこと。
それは、単なる事業計画ではなかった。
一人の少女の命を救った可能性のある技術を、未来へつなぐための決意だった。
◇
同じ頃。
俺は自室で、机に向かっていた。
ノートには、今後の研究計画が書かれている。
下級回復ポーション。
中級回復ポーション。
上級回復ポーション。
そして、最上級回復ポーション。
さらに、その先には。
エリクサー。
あらゆる病を根本から治すとされる、奇跡の霊薬。
俺は、その名前を見つめた。
今の日本では、まだ下級ポーションの効果すら正式に証明されていない。
それでも。
琴音さんの命が助かったことで、俺の中に一つの確信が生まれていた。
この技術には、人の未来を変える力がある。
そして、その力を正しく使うためには、もっと学ばなければならない。
研究。
法律。
経営。
品質管理。
そして、人の命を預かる責任。
どれも、簡単なものではない。
けれど。
「……やるしかないよな」
俺は、小さく呟いた。
以前の俺なら、きっと逃げていた。
自分には無理だと決めつけていた。
でも、今は違う。
俺には《万象習得》がある。
学ぶことなら、いくらでもできる。
そして。
支えてくれる人たちがいる。
父さん。
母さん。
陽菜。
澪さん。
麗華さん。
美月さん。
詩織さん。
蒼真と隼人。
異世界で出会った仲間たち。
その一人一人の顔が、頭に浮かんだ。
「……もっと、頑張ろう」
俺はノートを閉じた。
そして、窓の外へ目を向ける。
夜空には、静かに星が瞬いていた。
あの小さな瓶が、琴音さんの未来を守った。
ならば。
いつか、同じように誰かの未来を守れるように。
俺は、この技術を必ず形にしてみせる。
その決意は、以前よりもずっと強くなっていた。
そして、まだ誰も知らなかった。
この日を境に。
九条院家と西園寺家が、本当の意味で動き始めることを。
研究者たちが、これまでの常識では説明できない現象へ挑むことを。
そして。
黒瀬怜司という一人の高校生が生み出した小さな奇跡が、やがて世界中の人々の希望になっていくことを。
その物語は、まだ始まったばかりだった。




