第129話 父の祈り、奇跡の一滴――取り戻した琴音の命
病院の廊下に、重苦しい沈黙が落ちていた。
西園寺家の当主は、スマートフォンを握りしめたまま、何度も時計を確認していた。
屋敷から病院まで、車でおよそ二十分。
普段なら、それほど長い時間ではない。
けれど今は。
一分が、一時間にも感じられた。
「……まだか」
小さく呟く。
秘書が、すぐに答えた。
「現在、こちらへ向かっております」
「……そうか」
当主は頷いた。
だが、胸のざわめきは収まらない。
処置室の向こうでは、琴音が懸命な治療を受けている。
医師たちは全力を尽くしてくれている。
それは分かっていた。
だからこそ、どうしようもなかった。
自分には、何もできない。
どれほど金を持っていても。
どれほど大きな会社を動かせても。
娘の命を、金で買い戻すことはできない。
「……お父様」
麗華が、そっと近づいてきた。
目元は赤く、頬には涙の跡が残っている。
「……琴音は、助かりますわよね?」
当主は、娘を見つめた。
いつも気丈な麗華。
自分の意見を持ち、簡単には弱音を吐かない娘。
その麗華が、今は幼い子供のように震えていた。
「……ああ」
当主は、静かに答えた。
「……助ける」
それは、確信ではなかった。
祈りに近い言葉だった。
「……必ず、助ける」
麗華の目から、また涙が零れた。
「……お父様……」
当主は、娘の肩を抱いた。
その隣では、妻が澪に支えられていた。
澪もまた、青ざめた顔で処置室を見つめている。
数日前。
怜司が西園寺家へ渡した、上級回復ポーション。
あのとき、誰もが願った。
使わずに済むことを。
けれど今。
その小さな瓶だけが、最後の希望になっていた。
◇
「……西園寺さん」
処置室から、担当医が出てきた。
当主は、すぐに駆け寄った。
「……娘は!?」
医師の表情は、険しかった。
「……現在も治療を続けていますが、状態がさらに悪化しています」
その言葉に、妻が小さく悲鳴を上げた。
「……そんな……」
医師は、慎重に言葉を選んだ。
「大きな出血に加え、複数の損傷が重なっています。救命のための処置を続けていますが、非常に危険な状態です」
「……あと、どれくらい……」
当主の声が、かすれた。
「……どれくらい、持ちますか?」
医師は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、答えのように感じられた。
「……正確には申し上げられません。ただ、急変する可能性があります」
当主は、拳を握った。
間に合わないかもしれない。
その恐怖が、胸を締めつける。
そのとき。
廊下の向こうから、足音が響いた。
「会長!」
秘書の一人が駆け寄ってくる。
手には、小さな保管ケース。
「……お持ちしました!」
当主は、すぐに受け取った。
蓋を開ける。
中には、一本の小瓶が収められていた。
淡い青緑色の液体。
数日前、黒瀬怜司が家族のために渡してくれたもの。
「…………」
当主は、震える手で瓶を持ち上げた。
そして、医師へ向き直った。
「……先生」
「はい?」
「……一つ、お願いがあります」
医師が、怪訝そうに眉を寄せた。
「……何でしょう?」
当主は、小瓶を差し出した。
「……この薬を、娘に使えないでしょうか」
医師の表情が変わった。
「……薬、ですか?」
「はい。まだ正式な承認を受けていない試作品です」
当主は、正直に説明した。
知人の少年が開発したものであること。
重い外傷を回復させる可能性があると聞いていること。
ただし、安全性も有効性も、正式には確認されていないこと。
医師は、厳しい表情になった。
「……西園寺さん」
「……はい」
「お気持ちは分かります。しかし、成分や安全性が十分に確認されていないものを、重篤な患者さんへ使用することは非常に危険です」
「……分かっています」
「現在の治療を妨げる可能性もあります。私たちとしても、安易に使用を認めることはできません」
当主は、唇を噛んだ。
当然の答えだった。
医師は、娘を救うために最善を尽くしている。
その医師へ、未知の薬を使ってほしいと頼んでいるのだ。
簡単に受け入れられるはずがない。
「……ですが」
当主は、震える声で続けた。
「……ほかに、方法はありませんか?」
医師は、言葉を失った。
「……私は、娘を失いたくないんです」
当主の目に、涙が浮かんだ。
「……まだ十三歳なんです。これから、いくらでも未来があるはずなんです」
麗華が、父親の隣へ立った。
「……先生」
その声も、震えていた。
「私も……この薬が、実際に怪我を治すところを見ています」
医師が顔を上げる。
「……目撃されたのですか?」
「はい。友人が負った捻挫と裂傷が、短時間で治りました」
麗華は、まっすぐに答えた。
「……もちろん、同じことが琴音にも起きる保証はありません」
涙をこらえながら続ける。
「……でも、可能性があるなら……」
言葉が詰まった。
「……妹を、助けたいんです……!」
医師は、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……分かりました。まず、製品に関する資料を確認させてください」
当主は、すぐに保管ケースから説明書を取り出した。
怜司が添えてくれたものだった。
製造番号。
保管条件。
現時点で把握している原材料。
そして、未承認品であることを明記した注意事項。
医師は、真剣に目を通した。
「……これだけでは、安全性を判断するには不十分です」
「……はい」
「ですが、開発者へ確認できるのであれば、少なくとも情報を集めることはできます」
当主は、すぐにスマートフォンを取り出した。
◇
その頃。
俺は自室で、学校の課題を進めていた。
スマートフォンが震える。
画面には、西園寺家の当主の名前が表示されていた。
「……あれ?」
こんな時間に、どうしたんだろう。
通話をつなぐ。
「もしもし、黒瀬です」
『……黒瀬君』
聞こえてきた声に、俺は思わず背筋を伸ばした。
いつもの落ち着いた声ではない。
明らかに、切迫していた。
「……何かあったんですか?」
『……琴音が、事故に遭った』
「…………え?」
一瞬、言葉が出なかった。
『……今、病院で治療を受けている。だが、非常に危険な状態なんだ』
頭の中に、数日前の琴音さんの笑顔が浮かんだ。
『また来てくださいね!』
あの、明るい声。
「……そんな……」
『……君から預かった、上級回復ポーションがある』
当主の声が震えた。
『……あれに、賭けたいと思っている』
俺は、強く拳を握った。
まさか。
こんなに早く、あの薬が必要になるなんて。
「……琴音さんは、まだ……?」
『……ああ。まだ、生きている』
その言葉を聞いた瞬間。
俺は、はっきりと答えた。
「……なら、まだ可能性はあります」
『……黒瀬君……!』
「ただ、医師の方には、俺が把握している情報を全部伝えてください。未承認の試作品であることも、隠さないでほしいんです」
『……分かった』
「俺も、すぐに病院へ向かいます」
通話を切る。
俺は立ち上がった。
鞄を掴み、部屋を飛び出す。
(……頼む)
心の中で、何度も繰り返した。
(……間に合ってくれ……!)
◇
病院へ到着したとき。
西園寺家の人々は、処置室の前に集まっていた。
「……黒瀬さん!」
麗華さんが、俺の姿を見つけて駆け寄ってきた。
その目は、涙で真っ赤になっていた。
「……琴音が……!」
「……聞きました」
俺は、麗華さんの肩へそっと手を添えた。
「……大丈夫だなんて、簡単には言えません」
麗華さんが、俺を見上げる。
「でも……俺も、できることをします」
その言葉に、麗華さんの目から涙が溢れた。
「……お願いします……!」
俺は頷き、当主と医師のもとへ向かった。
持参していた資料を広げる。
試作品の製造記録。
保管条件。
これまで確認された現象。
そして、まだ分かっていないこと。
医師は、それらを慎重に確認した。
当然ながら、十分な安全性の証明にはならない。
そのことは、俺も理解していた。
だからこそ、医師の判断を無理に変えようとはしなかった。
ただ、伝えられることを伝えた。
そして、待った。
その時間は、永遠のように長かった。
◇
やがて。
処置室の扉が開いた。
担当医が姿を見せる。
その表情は、これまで以上に厳しかった。
「……西園寺さん」
当主が立ち上がる。
「……はい」
「……現在の処置を続けていますが、循環状態が極めて不安定です」
医師は、静かに続けた。
「……このままでは、救命できない可能性が非常に高い」
妻が、声を上げて泣き崩れた。
麗華さんも、俺の隣で震えている。
当主は、しばらく何も言えなかった。
そして。
ゆっくりと、小瓶を握りしめた。
「……先生」
その声は、低く、震えていた。
「……私は、娘の父親です」
医師が、静かに見つめる。
「……あの子を、助けたい」
当主の目から、一筋の涙が落ちた。
「……たとえ、わずかな可能性でも……」
その言葉に、医師は深く息を吐いた。
病院側でも、緊急時の対応について協議が行われていた。
未知の試作品を使用する危険。
使用しない場合の極めて厳しい見通し。
そして、家族の強い希望。
医療チームは、既存の救命処置を継続することを前提に、例外的な対応を検討した。
決して、簡単な判断ではなかった。
そして、最終的に。
病院側は、緊急時の特別な判断として、厳重な監視のもとで試作品を使用することを決めた。
「……ただし」
医師が、真剣な表情で言った。
「効果も安全性も保証できません。予期しない反応が起こる可能性もあります」
「……承知しています」
当主は、深く頷いた。
「……それでも、お願いします」
◇
琴音は、処置室の中で横たわっていた。
顔色は悪く、身体にはいくつもの医療機器が接続されている。
意識はない。
呼吸も、循環も、医療チームの懸命な処置によって支えられていた。
その姿を見た当主は、胸が張り裂けそうになった。
(……琴音……)
今朝まで、笑っていた娘。
麗華をからかい、楽しそうに学校へ向かった娘。
その小さな身体が、今。
命を失おうとしている。
(……頼む……)
当主は、心の中で祈った。
(……どうか……!)
医療チームの監視のもと、上級回復ポーションが使用された。
ほんの短い時間。
誰もが、息を呑んで見守っていた。
そして。
「……っ!?」
医師の一人が、モニターへ目を向けた。
「……血圧が……?」
別の医師も、驚いたように声を上げる。
「……上がっています!」
それまで不安定だった数値が、少しずつ改善し始めた。
出血の状態にも、変化が現れる。
さらに。
損傷していた組織が、通常では考えられない速度で修復され始めた。
「……何だ、これは……」
医師が、思わず呟いた。
目の前で起きていることが、理解できない。
けれど。
確かに、変化が起きていた。
「……循環が安定してきています!」
「……損傷部位の状態が……!」
医療チームが、次々と確認を進める。
そして、数分後。
担当医が、ゆっくりと息を吐いた。
「……危機的な状態を、脱しつつあります」
当主は、その言葉を聞いた瞬間。
膝から崩れ落ちた。
「…………」
声が出なかった。
ただ、涙だけが溢れてくる。
「……琴音……」
震える声で、娘の名前を呼ぶ。
「……よかった……」
何度も。
何度も。
「……よかった……!」
処置室の外で待っていた麗華たちにも、ほどなくして知らせが届いた。
「……命の危機を、脱しました」
その言葉を聞いた瞬間。
麗華は、両手で口元を覆った。
「……っ!」
涙が、止まらなかった。
「……琴音……!」
母親も、その場で泣き崩れた。
澪は、二人をそっと抱きしめた。
そして俺は。
ただ、静かに息を吐いた。
(……間に合った……)
胸の奥に、熱いものが広がる。
数日前。
俺が家族のために渡した、小さな瓶。
あのときは、使わずに済むことを願っていた。
けれど今。
その薬が、一人の少女の命を救った。
俺は、そっと拳を握った。
(……本当によかった)
それ以上の言葉は、必要なかった。
ただ。
この奇跡を、もっと多くの人へ届けられるようにしたい。
その思いだけが、胸の奥で強くなっていた。




